【柔道】丸山城志郎が引退「非常に濃い柔道人生」阿部一二三と東京五輪前に「令和の巌流島」伝説

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2025年02月17日 15:00  日刊スポーツ

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2020年12月13日の「令和の巌流島」とよばれた決戦で阿部に敗れ、目に涙を浮かべて記者の質問に答える丸山

柔道の世界選手権2連覇王者、男子66キロ級の丸山城志郎(31=ミキハウス)が17日、現役引退を決意し、発表した。所属を通じて「オリンピック優勝を目標として、日々稽古に励んできました。非常に濃い柔道人生でした」などと感謝のメッセージを発した。25日に記者会見を開く。


2021年の東京オリンピック(五輪)と24年のパリ五輪を2連覇した阿部一二三(27=パーク24)の「宿命のライバル」として、夢だった五輪には届かなかったものの、死闘を繰り広げてきた。世界選手権では2度、頂点に立っている男が、決断に際し、次の通りコメントした。


「本日、2月17日をもって柔道選手を引退することを決意いたしました。これまでたくさんの応援を本当にありがとうございました。3歳から柔道をはじめ、オリンピック優勝を目標として、日々稽古に励んできました。結果、その夢は叶いませんでしたが、どんなに苦しい時も闘い抜くことができたのは、いつも応援してくださった皆様のおかげです。非常に濃い柔道人生でした。ありがとうございました」(原文まま)


世界一の切れ味と畏怖され、美しさが国内外から手本とされた内股を武器に、天理大2年時の講道館杯制覇などで頭角を現した。19年の世界選手権(東京)では準決勝で阿部を破って初優勝。新型コロナ禍の中止を挟んで21年の世界選手権(ブダペスト)も制して2連覇を遂げた。


20年12月13日には、伝説になった。東京五輪代表を決める日本柔道史上初のワンマッチが行われ、阿部とジャスト24分に及ぶ勝負を展開した。「令和の巌流島」決戦と呼ばれ、最後は大内刈りで屈したが「自分を信じて、妻を信じて。毎日一緒に稽古してくれた大野(将平)先輩にも…感謝の気持ちでいっぱいです」。そして「ここまで肉体的にも精神的にも成長できて、強くなれたのは、阿部選手の存在があったから」と逃げることなく阿部について言及した。


もともと、先を走っていた。15年に勝って阿部の16年リオデジャネイロ五輪への道を断ったのは丸山だった。一時は4勝3敗と勝ち越し。18〜19年の3連勝で東京五輪にも王手をかけていたが、勝てば夢切符だった19年秋のGS大阪大会で借りを返された。左膝の靱帯(じんたい)損傷で20年2月のGSを欠場。ここで横一線に戻され、最後は“史上最長”24分間の決戦に持ち込まれて、力尽きた。


続く24年パリ五輪への道も阿部に阻まれた。22年10月の世界選手権(タシケント)決勝で屈し、翌23年の世界選手権(ドーハ)も、延長戦を含めて10分を超える熱戦の末に、敗れた。直接対決5連敗となり、大会直後、阿部のパリ五輪代表が決まった。


丸山は当時、表彰式で悔しさをかみ殺しながら、しっかりと銀メダルを首にかけた。表彰台の隣、優勝した男の晴れやかな表情との対比が、五輪代表争いの終結を物語った。


夢だった五輪代表が極めて厳しくなり「僕の持てる技術とか意地とか執念とか今までの思いとか、全てをぶつけた」。潔く「負けを認めるしかない」とも続けた。


世界一2度の丸山ですら届かなかった、発祥国からの夢舞台、発祥国ゆえの悲運。世界選手権から帰国した際に「もう五輪への道はない」と受け入れ、翌24年には「負けて終われない」と再起し、現役続行を宣言していたが、気持ちは戻り切らず、同2月のGSパリ大会で武岡毅に敗れて準優勝。阿部以外に負けたのは6年ぶりだった。次回28年のロサンゼルス五輪も自身の中で描けなくなり、記憶に残る柔道家が、畳を降りる覚悟を決めた。【木下淳】


◆丸山城志郎(まるやま・じょうしろう)1993年(平5)8月11日、宮崎県生まれ。3歳から柔道を始める。神奈川・桐蔭学園中で日本一。福岡・沖学園高−天理大−ミキハウス。18、19年の全日本選抜体重別選手権2連覇。世界選手権に次ぐ格のマスターズ大会も18年に制覇。GS大会は金3銀4。左組み。得意技は内股、ともえ投げ。趣味は釣り。兄は81キロ級で活躍した剛毅。家族は妻と2子。167センチ。血液型A。

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  • 阿部一二三と丸山の24分にも及ぶ東京五輪代表決定戦は、オレが目の手術で入院してた時で、病室で中継見てたな。柔道をあんなに食らいついて見たの後にも先にもないよ。
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