
【写真】高橋一生&井浦新 大人の色香感じさせる撮り下ろしショット(12枚)
■なぜジョジョは時代を超えて愛される?
――井浦さんは小学生の頃から荒木飛呂彦先生の作品を読まれていたそうですね。
井浦:僕は『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』『北斗の拳』などを「週刊少年ジャンプ」で読んでいた世代ですが、その中でも『ジョジョの奇妙な冒険 第1部 ファントムブラッド』が出てきた時は、異彩を放っていました。100人が100人とも読みやすくて共感するものではないでしょうが圧倒的なオリジナリティーがあり、好きな人は尋常じゃないほどハマってしまう。荒木先生の描く物語も絵も「◯◯っぽい」要素が一切なく、昭和・平成・令和と時代が変わってもまるで色あせない。その理由はきっと、常に前衛的だからだと思います。
高橋:時代に合わせているというよりも、その時の自分が描きたいものを漫画に投影させている感覚があります。僕が『ジョジョの奇妙な冒険』に入ったのは『第3部 スターダストクルセイダース』からですが、第1部との絵柄も違いますし、現代になっていくにしたがってまた変わってきた印象です。いま(井浦)新さんがおっしゃった「時代によって損なわれない」の源泉にあるのは、荒木先生の「描きたい」というエネルギーなのではないでしょうか。つまり、一人の人間であり作家としての衝動が根底に流れているため、時代を超えて愛されているのではないかと思います。
――『岸辺露伴は動かない』自体も、初めて世に出た『懺悔室』から最新作『ブルスケッタ』に至るまで絵柄がかなり変化していますね。
高橋:そこが自由だからこそ、実写でやらせていただく際にもうまく作用してくれたように感じます。絵柄が違ったとしても、露伴が違う人には見えません。ということはある種、(『第6部 ストーンオーシャン』で起こったように)何巡もした世界で岸辺露伴というものが何人もおり、精神性が損なわれないままユニバース=多元宇宙的に存在しているという解釈もできるわけです。僕個人は、その一人が実写版の岸辺露伴なのではないかというつもりでいます。
井浦:確かに。僕自身もいち観客としてそのように見ていました。もし(高橋)一生くんと他のお仕事でお会いしたとしても「あっ露伴だ」となっていたと思います。今回も目の前に一生くんが現れた時に「ついに自分は『岸辺露伴は動かない』の世界に入ってしまったんだ」という何とも言えない幸福な気持ちになりました。
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高橋:象徴的なものを一つのキャラクターに落とし込むのが、抜群だなと感じます。承太郎のキャップもそうですが、それ1つあれば肉体が変わっても共通していくといいますか。荒木先生の中にアイコンとしている変わらない部分と変えてもいい部分のルールがあるはずなんです。ご本人も『第7部 スティール・ボール・ラン』のヴァレンタイン大統領の造形を途中からムキムキにしていいんじゃないかと思い、変えたとおっしゃっていましたから。
――『荒木飛呂彦の新・漫画術 悪役の作り方』で書かれていたエピソードですね。原作だけでなく、新書まで抑えられているのは流石です。
高橋:荒木先生の頭の中を知りたい思いもあって、チェックするようにしています。ありがたいことにお話しする機会もあるのですが、質問攻めにしたい気持ちを抑えて、他愛もない話の中で出た言葉を「こういうことかな」と後から頭の中で考えを巡らせています。
――絵柄の違いもそうですが、高橋さんも露伴の演じ方をドラマの各期と『ルーヴルへ行く』で変えていらっしゃいますよね。
高橋:そうですね。ドラマの1期はできる限り静謐(せいひつ)にしてミステリーやサスペンス、あるいはホラー味といったものを原作に準じてお芝居したつもりではありました。2期では動きが増えたぶんデフォルメをしてみたりと、荒木先生がエピソードごとに「こういうモードで行こう」とチャレンジされていることに感応しながら行っていきました。
――本シリーズは、毎回露伴と新たに登場したキャラクターがガチンコで対決する構造になっているかと思います。その上で変わらない部分でいうと、動かない=動揺しすぎない、になるのでしょうか。
高橋:『岸辺露伴は動かない』とは物理的に動かないことではなく、露伴が彼なりの矜持(きょうじ)を貫き通す物語だと捉えています。実写版でも、それぞれの怪異や人間に相対した時に揺るぎない露伴の信念を出していけるように、というのはひとつテーマに掲げているかもしれません。
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■「新たに加わって感じたのは、受け入れてくださる温かさ」
井浦:あまり構えてはいませんでした。というのも、構えていなくてもきっと出てしまうだろうなと思っていたからです。好きなものに関わって向き合う以上、どうしたって“好き”のフィルターはかかってしまいますよね。だからこそとらわれないようにとは考えていました。1つの映像作品として、自分ができることをとにかく全部捧げていく。その捧げる度合いが自然とどんどん強くなってきてしまうでしょうから、自分から意識的に「出そう」とは考えませんでした。
先ほどおっしゃったように、時間をかけて良い発酵状態になっている組の中に自分という新しい素材がポンと入れられた時にどう浸食されていくか、一体感を作れるかが一番大事でした。組の温度感をしっかり捉えた上で、自分の温度感を定めていく感覚でしたね。ヴェネツィアで1ヵ月間合宿形式の撮影ということもあって、まずは組の温度感を知りたいという状態でした。
――撮影期間に、思ったよりも愛や熱が出てしまった瞬間はございましたか?
井浦:ありがたいことにほぼ順撮り(脚本の順番通り、ひいては時系列順に撮影すること)でできたこともあり、序盤は仮面をかぶった状態で撮影をしていました。これがとても良い効果を生んで、仮面を外した時の表情もまた新たな仮面をかぶっているというような感覚になれたのです。順撮りでなかったらまた違った筋肉の動かし方になっていたでしょう。仮面をつけながら岸辺露伴と対峙(たいじ)して運命が重なっていく経験をしたことで、スムーズに田宮の内側も外側も出来上がっていく感覚がありました。そうした意味では、瞬間的にほとばしったというよりも作品の一部として存在できたような気がします。
高橋:芝居においては思い切る時に助走が必要なものですが、いきなり大ジャンプできるのが新さんだと感じました。もちろんしっかりと準備をされていらっしゃるかとは思いますが、根底に荒木飛呂彦先生やこのチームへのリスペクトがあった上で垣根や壁を乗り越えてきてくれました。
井浦:でもそれは、このチームに受け皿があったからこそです。一生くんや渡辺一貴監督、プロデューサー陣が時間をかけて作り上げた組に新たに加わって感じたのは、受け入れてくださる温かさでした。もし寂しさを感じてしまったら、うまくいかなかったかもしれません。自分だけでなく戸次重幸くんや大東駿介さん、玉城ティナさんもきっとそうで、同じチームになれる喜びを感じていました。
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高橋:意識の力はとても大きい気がしています。テクニカルな部分の準備はもちろんしていきますが、自分が思っていることは大体表に出てしまうと感じていて。だからこそ「これを出していこう」と決めたのに出せなかった時は恥ずかしくなってしまいます。それもあって、僕は監督や演出家の方と事前に「こうしようと思っています」という話をほとんどしません。いくら言葉で言ってもその人の目にどう映っているか分からない以上、まず芝居で魅せるのが俳優だと思うからです。ただ同時に、自分の中にある微妙な意識の違いをすくい取ってくれるかどうかに重きを置いてもいます。そういった意味では『懺悔室』のチームにはヴェネツィアだ! と浮足立っている人が一人もおらず、全員が真摯(しんし)に誠実に取り組んでいました。その意識の高さは作品に宿っているのではないかと思います。
井浦:非常に共感します。作品や役や監督の求めるものによっては、意図的に芝居として大胆に出して変えていかないといけない場合もあります。ただ、意識が追い付いていないのにあからさまにすると「芝居しています」感が強まってしまいます。それくらい、生理的なものってどうしても出てしまうんですよね。例えば一生くんは普段からカメラを使い慣れているからカメラを操作する芝居においても所作がとても美しいのですが、“意識の力”も同じように自然と常日頃の蓄積が出るものだと感じます。
だからこそ、自分が好きなものとのふれあいや生活は大事にしています。生活と表現は密接なもので、自分が好きなものは変わらないし時間をかけて出来上がっているから、無意識下でもきっとにじみ出てしまう。そのため、基盤である生活が疎かにならないようには気を配っています。
自分たちは芝居で嘘を表現していますが、嘘くさくないと思ってもらうために、その矛盾を埋めていかないといけません。そういった中で、自分自身に好きなものがあると地に足をつけていられる気がします。僕たちは嘘を演じるけれど、その内側には嘘がない状態にすることで、深呼吸できるように思うのです。お芝居のテクニカルな部分や作品にどれだけ生きているかは分かりませんが、僕は自分の心を健康に保つことが重要だと信じています。
(取材・文:SYO 写真:上野留加)
映画『岸辺露伴は動かない 懺悔室』は公開中。