
「母に物忘れが始まったのは、私が20歳、母が55歳のころ。その後、母が60歳の時に若年性アルツハイマー型認知症と診断されてから、20年以上介護を続けています」
と話すのは、フリーアナウンサーの岩佐まりさん(41)。さらに2023年に長男を出産後は、介護と育児の両方を担う“ダブルケアラー”に。
大好きな50代の母にまさかの診断が
もともと岩佐さんと母・桂子さんは、手をつないで買い物に行くほど仲のいい、いわゆる“友達親子”。高校卒業後、大阪の実家から上京してからも、毎日のように電話をしていたという。そんなある日、頼んでいたモーニングコールがかかってこなかったことがあった。
「母に尋ねると、約束なんてしていないと言うんです。その少し前から、頭痛やめまいがすると訴えていたので、病気かもしれないと思い、渋る母を説得して脳神経外科を受診させました」
しかし、検査の結果は「異常なし」。それでも、電話で同じ話を何度も繰り返すなど、おかしいと感じる行動が増えていったため、しばらくして地元・大阪府内で見つけた「もの忘れ外来」へ。
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「診断結果はアルツハイマー型の軽度認知障害でした。その時母はまだ58歳。ひどくショックを受けて号泣して……。私は手を握って“大丈夫だよ”と言うのが精いっぱいでした」(岩佐さん、以下同)
この時の岩佐さんは、「病名がわかったことで対処できる」という前向きな気持ちの一方、この先の介護への不安を感じていた。
「当時の私は舞台女優を目指してアルバイトをしながら演技レッスンを受けている状況でしたから、このままでは母の介護をするのは難しい。自身でちゃんと食べていけるようにならなくてはと、得意だったMCの仕事にシフトチェンジすることにしました」
その後、桂子さんの症状はさらに進行し、60歳の時に「アルツハイマー型認知症」と診断された。実家で桂子さんと同居していた父は、もともと家事や介護とは縁遠い“昭和の父”タイプ。「自分に介護はできない」と言って、桂子さんとケンカを繰り返すように。これまで桂子さんが行っていた家事を一手に担わなければならない負担も大きかった。
「運送業をしていた父は仕事で家をあけることも多かったので、数年間は私が東京と大阪を行き来しながら介護をしていました。それでも、母が買ってきたものを何度もなくしたり、トイレにゴミを流して詰まらせてしまったり、生活にも支障が出てきて。
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父一人では無理だということで、一度、母を東京に呼んだのですが、実際に夫婦が離れると寂しかったようで、半年で大阪に帰っていきました」
暴言、暴力、徘徊…逃げ場のない試練の日々
その後、4年間は父が一人で介護していたが、実家に連絡して様子をうかがうと、優しかった桂子さんが別人のように怒りっぽくなっていた。
「暴言や暴力など、BPSDと呼ばれる症状が出てきてしまって。徘徊も始まり、夜中に家を出ていこうとするため、父も眠れずお手上げに。私が30歳、母が65歳の時に改めて東京に呼んだんです」
とはいえ、岩佐さんも仕事が忙しくなっていたため、つきっきりでいることはできない。要介護認定を受け、日中はデイサービスに桂子さんを預かってもらうことを検討。
「東京で認知症の診察をしてもらわないとデイサービスも利用できなくて。でもどこも数か月待ち。すぐに診てもらえる病院がなく5軒は回りましたね。本当にへとへとになりましたが、ある日病院で母が“まりちゃんわかってるからね……”とつぶやいたんです。既に会話が支離滅裂だったのにそこだけはっきり聞こえて。涙があふれました」
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無事利用が決まった後は、仕事後にデイサービスに迎えに行き、夕食を一緒に食べる日々。しかし、暴言、暴力は日常茶飯事で岩佐さんの疲労はたまっていく。徘徊もあり警察沙汰になったことも。
「徘徊は何度かあったんですが、一緒に買い物に行ったスーパーでも、ほんのわずか30秒目を離した隙にいなくなってしまって。警察やケアマネジャーさん、デイサービスの方にも協力してもらって捜しましたが、そのころの母は60代で、一般的には元気な世代。一人で外を歩いていても不思議に思われず、なかなか見つかりませんでした」
結局3時間ほど捜し回って、デイサービスのスタッフが桂子さんを発見。なんと、3キロ離れた隣町まで行ってしまったという。
「捜している間は、サイレンを聞くたびに母が事故に遭ったのではないかと気が気じゃなくて。目を離したからだ、と自分を責めて、地獄のような時間でした。無事見つかって心底ほっとしました」
こうして仕事と介護だけの生活を続けるうち、ついに岩佐さんは限界を感じる。
「ある日ケアマネジャーさんに“もう無理かも”と愚痴ったんです。すると、“土日だけでも、ショートステイを利用して、自分の時間をつくったほうがいい”と。それまで自分が家にいるのに母を土日預けることに抵抗を感じて利用していなかったんです。でも“あなたが息抜きをして心に余裕を持つほうが、お母さんにとってもいい。自分の人生を大事にしないと、介護は続けられない”と言われて」
育児との両立では夫や周りとの交流が支えに
ショートステイを利用するようになってからは、土日は友達と遊びに行ったり、楽しみができたことで岩佐さん自身、心に余裕ができた。
「離れた分、母のことを愛おしく思えるようにも。息抜きは必要だと痛感しました」
その後、岩佐さんが37歳の時に、中学の同級生だった男性と結婚。
「母の介護も一緒に支えると言ってくれた人でした。母は自宅で転倒して大腿骨を骨折し、車椅子生活となっていましたが、同居も受け入れてくれて。結婚を機に、母とともに大阪に引っ越しました」
そして一昨年長男が誕生。
「出産後は、自分の身体も万全ではない状態で、寝たきりになっていた母の介護と新生児の育児の両立は本当に大変で。気合で乗り切ろうとしましたが、心身の負荷が大きく血圧がどんどん上がってしまって。そこで、ケアマネジャーさんから言われたことを思い出しました。自分に余裕がないと無理がくるのは介護も育児も同じ。それからは素直に助けを求め、夫に力を借りるようにしました」
夫は、仕事が忙しいなかでも育児も介護もサポートしてくれている。
「今ではおむつ交換も喀痰吸引も、すべてできます。母と子どもを夫に任せて私が一人で買い物に行く時間もつくってくれるので、その時間を大切にしています」
桂子さんは今、歩くことも話すことも、食べ物を飲み込むこともできなくなり、現在は直接、胃に栄養剤を流し込んで命をつないでいる。
「大変なことはたくさんありましたが、私は介護をして本当によかったと思っています。できるなら、あと何十年でも介護を続けたいぐらい。そう思えるのも、いろんな方に支えてもらったから。介護したからこそ見えてきたものもたくさんあって、世界がぐっと広がりました。ただ、経験して感じたのは、介護の悩みを個別に相談できる場所があるといいなと」
その第一歩として、岩佐さんは現在、認知症の親を介護する子ども同士がオンラインで集まり、交流できる場をつくり、活動している。
「利用できるのに知られていない制度も実は多いんです。そんな情報も共有できたら。制度やサービスを利用することで、心の余裕にもつながりますから」
いわさ・まり フリーアナウンサー、社会福祉士。介護の様子などをつづったブログが話題に。現在は自身の介護体験を語る講演活動を全国で行っている。支援団体「認知症の親を介護している娘の会、息子の会〜桂kei〜」代表。
取材・文/當間優子