疎開船「対馬丸」生存者の思い 孤児となった男性(90)今も消えることない“生存者が背負ってきた心の痛み”

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2025年10月02日 12:02  TBS NEWS DIG

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戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。太平洋戦争当時、沖縄から九州に向う途中でアメリカ軍に撃沈された疎開船「対馬丸」。父親を亡くし孤児となった男性が、いま伝えたいこととは。

子どもたちの言葉に静かに耳を傾ける喜屋武盛宜さん(90)。81年前、当時9歳で学童疎開船「対馬丸」に乗船し、アメリカ軍の魚雷攻撃を受けました。

喜屋武盛宜さん
「当時、5歳か6歳くらい。思い出はないけどね」

両親や妹とともに対馬丸に乗船していた喜屋武さん。船の後方で眠りについていた一家は突然の衝撃音に目を覚まし、気が付いた時には父親と親戚の女性3人で海に浮かんでいたといいます。

喜屋武盛宣さん
「親父としては3人が助かるのは無理だと思った。つかんでいた真綿の袋には。おばあさんは自分は離れないと言って動かない、親父がかわいそうになって自分が離れた。板が流れてきたから。そしたら1分もしないうちに父も離れた、それっきり親父とは」

一晩中漂流したのち、近くを通った漁船に助けられ、一命をとりとめました。その後、母親と妹と無事再会できたものの、母親は1年もたたずに栄養失調で死去。喜屋武さんは孤児となりました。

喜屋武盛宜さん
「(母の)最期は妹と二人で。火葬場で焼かないといけない。棺おけもないからリヤカーを借りて、リヤカーに母を積んでね、二人で。そうやってリヤカーを引いて火葬場まで行った」

5年ぶりに対馬丸の慰霊祭に参加した喜屋武さん。

喜屋武盛宜さん
「手を合わせた。言葉はないよな。(Q.お父様に何か伝えたことは?)俺もいくからなと、ただそれだけ」

国策によって翻弄された子どもたち。慰霊祭で多くを語らなかった喜屋武さんですが、言葉には静かな怒りが込められていました。

喜屋武盛宜さん
「だまされたんだから子どもも。将来は兵隊さんになるといって。子どもを騙すのは簡単だから、政治家は。すまんという気持ちがあるからね、生き残った人間は。苦労したが、苦労も楽しいから、生きていたら」

戦争によって奪われた子どもたちの未来。生存者が背負ってきた心の痛みは、今も消えることはありません。

このニュースに関するつぶやき

  • 国際法では「商船の撃沈はまず臨検を行い武装兵員輸送など軍事目的と判明した場合は乗員を脱出させ。沈める」と小学校三年の先生から教わった。何も言えないのが敗戦国の悲しさだね
    • イイネ!14
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