大ヒット中のドラマ『極悪女王』(Netflix)のモデルとなり、日本の女子プロレス界を大きく変えたヒールのパイオニア、ダンプ松本。その歩みを今振り返る!
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――ダンプさんはもともとご自身からヒールを志望したそうですね。
ダンプ松本(以下、ダンプ) 最初からやりたいって言っていましたね。ジャッキー(佐藤)さんに憧れて、全女(全日本女子プロレス興業)に入ったけど、当時の顔ぶれを見たら、ベビー(フェイス)でトップになるのは無理だと思ったので。
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もともと女子プロレスラーになろうと思ったのは、お母さんを幸せにしたい、お金持ちになりたいって思ったから。そのためにどうしてもトップになりたかったんですよね。
――ヒールユニットであるブラック軍団、ブラックデビルを経て、1984年にクレーン・ユウと極悪同盟を立ち上げます。
ダンプ それまで誰もやっていなかったことをやろうと思ったのね。見た目もそうだし、散々、凶器を振り回したのもそう。まぁ、見た目はみっともないからやめろと先輩や会社からよく言われたけど。
――あそこまで派手なメイクや革ジャンをまとった毒々しいスタイルは画期的でしたね。
ダンプ メイクはもともとエクボを隠すためにしたんだよね。怖がってもらえないから(笑)。そうしたらたまたま読んでた『週刊明星』に(ロックバンドの)キッスが出ていて、「これだ!」と。革ジャンは妹が不良で。部屋に貼ってあった、クールスや横浜銀蝿のポスターを真似た。
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ついでに言えば髪の毛はニューヨークに行った時、デブで顔がデカいなら刈ったほうが似合うとか言われて半ば強引にモヒカンかってくらい短髪にされて。でもそれで毛先を立たせたらいい感じになった。
全部、計算したわけじゃなく、たまたまだったんだよね。ユウさん同じ格好をしたいっていうから二人して出たら会場中、大騒ぎになっちゃって。徹底的に叩かれたよ。でもこっちは嫌われるためにやってるんだから、してやったりだったね。
――試合でもその頃から人気が出て、やがて全盛期を迎えるクラッシュ・ギャルズと死闘を繰り広げましたね。
ダンプ もともとジャッキーさんの試合で暴れるヒールのモンスターリッパーを「ふざけんな、この野郎!」とか思いながら観ていたから、どうすればファンが怒るかよくわかっててね。
それにしてもやりたい放題、やったよね。反則して、凶器を使いまくって。しかも会社が、あいつらがこんなこと言ってたぞ、なんて余計なことをわざわざ吹き込んでくるからね。それこそ毎試合、相手を殺す勢いだったよ。
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一度、脅してやろうと思ってドスを手に(試合に)出ようとしたら、「逮捕されます!」って、レギュラー中継してたフジテレビの人に全力で阻止された(笑)。
でも徹底してヒールになればなるほど、友達がいなくなり、親にも迷惑をかけちゃったけど。
――普段から、徹底してヒールだったわけですよね。
ダンプ そう。リング降りたらいい人だなんて、そんなのヒールじゃないと思ってたから。それこそ実家に帰ると、近所の人が「サインください」って集まって来るんだけど、目の前で色紙を叩きつけて「家にまで来るんじゃねー!」とか言ってた。
その後でお母さんが色紙を拾って、一升瓶を持って近所に謝りに行くのを見ると胸が痛んだし、おかげで相当酷い目にもあったけどね。
――酷い目、ですか?
ダンプ そう。ゴキブリがいっぱい入ったケーキやカミソリだらけの手紙をもらったし、新車を買えばその日のうちに傷つけられ、自転車を買えばサドルが盗まれて。タクシーなんていつも乗車拒否。「お前を乗せるクルマなんてねぇ!」とか言われてね。食事も外だと何を入れられるかわからないから、常に弁当だった。
そういえばその頃の全女って、正月に一番多く年賀状をもらえると1万円のお年玉をもらえたんだけど、自分はいつもダントツで1位だったな。書いてあるのは「死ね」ばかりだったけど(笑)。ま、ゴキブリ入りケーキにしても年賀状にしても「わざわざありがとう!」って気持ちだったね。
――そこまでされるっていまの時代は考えられないですよね。
ダンプ 当時日本で一番、嫌われていたと思う。自分ほど「殺す」「死ね」って言われた人はいないはず。でももともと覚悟はあったし、トップヒールを目指す以上、嫌われればそれだけうれしかったよ。
――ヤンキーから弟子にしてくださいとか言われなかったんですか?
ダンプ それはなかった。たまに「レディースの人が来たいと言っていました」みたいな話は聞いたことあるけど、実際に会ったことはない。いくらなんでもプロレスをやろうとまでは思わなかったんじゃないかな。
――一方で、ダンプさん自身の「いいお話」はないんですか?
ダンプ そんなものない! あ、いや、当時の親たちが子供に「悪いことをしたら、ダンプを連れてくるよ!」って脅してるって話はよく聞いたな。みんな、いい子になったらしいよ(笑)。
あとその頃はベビーが花道を歩くとき、やたらベタベタとカラダを触わってくる迷惑なお客さんがいて。よくセコンドが耳打ちしてくるんだよね。「ダンプさん、あそこに変態がいます」って。で、そのお客さんの近くで場外乱闘を仕掛けて、わかりにくいよう痛めつけたことはあるかな(笑)。
――ちなみにいままでで一番印象的な試合は?
ダンプ それはやっぱり(長与)千種との敗者髪切りデスマッチ(1985年8月28日、大阪城ホール)だよね。
――ものすごい流血戦の末、長与さんが敗れ、リング上で髪をバリカンで刈られるという衝撃的な試合でした。
ダンプ もう会場中の怒りが大爆発しちゃって。控え室に戻る時に「お前が悪い」とか言って警備員に殴られ、その上、帰りのバスでお客さんに囲まれ揺らされた。最終的には、危険だからと宿泊客以外絶対に出入りできない高級ホテルに逃げ込んで。
しかもあまりに凄惨だからと、抗議が殺到して、関西でのレギュラー放送が打ち切られることにもなって。いやーあの時は大変だったな。今では本当に考えられないよね(笑)。
――ダンプさんは現在もリングに上がっていますが、いまの女子プロレス界についてはどう思いますか?
ダンプ しっかりと見てないからはっきり言えない部分はあるんだけど、自分の印象では昔のようなタテ社会ではなくなってるよね。それはちょっとだけどうなのかなって思う。
――タテ社会が厳しいと、昔の女子プロレス界にもあったと言われる理不尽ないじめなど、起こるのでは?
ダンプ それはまた別の話だよね。実際、極悪同盟にはそんなものはなかったし。いまはちょっとなぁなぁになっているというか、もう少し筋が通っているところはあったほうがいい気がするな。まぁ古い考えかもしれないけどね。
――ダンプさんが考える、ヒールの条件は?
ダンプ それはやはり一人でも多くの人に嫌われることだよね。それが一番大事だと思う。ただ今の人はみんな嫌われたくないと思ってるよね。24時間ネットで責められる怖さを知ってるから? その意味でヒールが成り立ちにくい時代なのかも。
――最後にもしダンプさんが、いま10代で女子プロレス界に飛び込むならヒールを目指しますか?
ダンプ 目指すと思う。それもダンプ松本のような強いヒールをね(笑)。だってプロレスにはベビーとヒールが絶対必要でしょ。クラッシュ・ギャルズだって、極悪同盟がいたからこそ輝いたと思うし、逆もそうだよね。自分はプロレスが心底好きだから、いつの時代もとことん盛り上げたいんだよね。
●ダンプ松本
1960年生まれ、埼玉県出身。80年に全日本女子プロレス興業に入門しデビュー。84年リングネームをダンプ松本に。クラッシュ・ギャルズと抗争を繰り広げ、女子プロレスブームを起こす
取材・文/大野智己 撮影/五十嵐和博