阪神大震災が起きた1995年1月17日、潟山光明さんは被災した神戸市内で産声を上げた。「神戸の街を明るく照らす存在に」との思いが込められた名前を心に刻み、笑顔を忘れず歩んできた。あれから30年。一緒に住む妻、子どもと4人で17日、いつも通りの誕生日を迎える。
あの日は壮絶な一日だった。震災時、母美由紀さん(60)は自宅で大きな揺れに襲われた。荒れた室内を整理していると、いったん収まっていた陣痛が再び始まり、病院に向かった。普段なら車で30分。ただ、被災地の中で渋滞に遭い、到着まで4時間ほどかかった。
被災したけが人がいる病院内。明かりのない中、集められた懐中電灯に照らされ、午後6時56分に生まれた。産湯もなく、母乳も数回で止まり、厳しい環境だった。母から出産の苦労話を繰り返し聞いた。「生んでくれたことに感謝している」
「周囲を明るくする人に育ってほしい」との願いがこもった名前は、両親が世話になった人が付けた。その意味を肝に銘じ「接する人に嫌な思いをさせないよう笑顔を心掛けている」と話す。
誕生日は震災の日。子ども心に「喜んだらあかんのかな」ともどかしさもあった。多くの命が奪われた震災だが、「でも僕は生まれた。誕生日は選べない。この日に命を授かったのは運命的なもの」と受け止めている。
高校卒業後、関西の大手電力会社に就職。今は、災害時の停電対策にも活用できる太陽光発電設備などのサービス設計業務に携わる。約6年半前に結婚し、兵庫県尼崎市で妻幸さん(31)と長男葉ちゃん(4)、長女楓ちゃん(2)の4人で暮らす。
震災から30年がたち、当時を経験した人が少なくなる中、「誰かが忘れるとみんなも忘れてしまう」と風化を懸念する。「長男が小学生になったら地震の爪痕がある施設を訪れ、災害の怖さを伝えたい」と考えている。
潟山光明さんの生まれた直後の写真(右)=8日、兵庫県尼崎市
公園で家族との時間を過ごす潟山光明さん(手前から2人目)=8日、兵庫県尼崎市