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2011年3月11日、小野陽洋(あきひろ)さん(34)は、自宅ごと津波にのみ込まれた。「逃げずに助かったことが正解とは思わない。逃げて助かろう」。こう呼びかけられるのも、一命を取り留めたからだ。
東日本大震災が発生した時、小野さんは福島工業高専の5年生。卒業式を翌週に控えた休み期間中、福島県いわき市の自宅で祖母(当時79歳)と激しい揺れに襲われる。自宅は豊間海岸の目の前にあった。
テレビやラジオでは、6メートルの大津波警報が発令されていた。しかし、骨粗しょう症を患っていた祖母は「おれは逃げねえ。今までも防潮堤くらいまでしか津波が来てないから大丈夫だ」と言う。
今までに無い揺れだったにもかかわらず、小野さんも「祖母を無理させるまでもない」と、自宅に残ることを決めた。
「これが最大の後悔です」
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小野さんは自宅2階の窓を開け、海にビデオカメラを向けていた。第1波は大した高さではなかった。「なんだ、やっぱりこんなものか」。そう思った直後、防潮堤を越えた高波が一気に家へ押し寄せてきた。
家の中では窓際から室内へ津波に流され、祖母の白髪が水に浮かんでいるのが見えた。慌てて抱え上げた数分後、今度は引き波に襲われる。窓の外に体が投げ出されないよう、台所のシンクを必死につかんで耐えた。こうして2人はなんとか一命を取り留めた。
あの日、豊間地区では85人が亡くなった。家の周りは小野さんの自宅を残してほとんどが流された。中には、避難行動をとっていた住民、近所の人を助けようとして亡くなった高校生もいた。のんきにカメラを構えていた自身の行動を悔いて恥じた。
「(自分で撮影した)津波のデータを消して、自分の失敗を無かったことにもできた。でも、たまたま助かった命、正しいことに使わなくてどうする」
小野さんが語り部になることを決意したのは2019年10月。台風19号で避難指示が出ている状況の中、知人がSNS(ネット交流サービス)で増水する川の様子を投稿していた。小野さんは「自分が震災で学んだことをちゃんと伝えてこなかったせいだ」と自責の念に駆られた。
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現在は工場で働きながら、語り部として自分の失敗を教訓に、伝承活動をしている。主に訴えるのは、危険を理解する▽「私は避難する」と声に出す▽避難行動に移すの3点だ。「逃げないと自分を助けに来る人の命も危険にさらす。逃げるとは、他人の命も守ること。積極的な行動は周りの避難も促す」
2月中旬の夕方、あの日津波が小野さんを襲った豊間海岸を歩くと、海面がキラキラと輝いていた。「震災前、自宅の窓から毎日眺めていた。学校でも窓の向こうの波の音を聞いていた」。昔の光景を見つめるように、目を細めた。
津波はたくさんの人の命を奪った。それでも「この海は、故郷の自慢」と小野さんは誇る。「語り部をする時は、津波の恐ろしさだけでなく、故郷の魅力も一緒に伝えています。まるっと含めて、私の大好きないわきですから」【北山夏帆】
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