
寝たきりになる原因の1位は脳卒中。その脳卒中から復活を遂げた47歳の女性がいる。医師から「相当頑張っても3年で杖をついて歩けるようになるかどうかと言われるほどの後遺症だったのだが、実際は1年半でダンスのステージに立ったのだ。どんなことをしたら麻痺した身体が動くようになったのか―奇跡を追った。
離婚届を提出しようと考えている日に突然の脳卒中に
会社員として経理事務の仕事をしながら30歳で始めたダンスに夢中になり、週末には毎週のように全国各地のステージで踊っていた松永知子さんが、突然の脳卒中に見舞われたのは今から4年半前の42歳のとき。
折しも夫との離婚が決まり、翌日に離婚届を提出しようと考えている日だった。
「夫の引っ越しが終わり、夫婦で過ごす最後の晩餐のために再び戻ってきた彼が食事の用意をしていたときのことでした。私は睡魔に襲われ、ベッドで仮眠していましたが、目が覚めて身体を起こそうと思ったら、左半身の存在が消えたかのように何も感覚がなく、手も足もまったく動かないんです。すぐに夫を呼んだのですが、顔面の左側が動かないため声にならない奇声を上げていました」(松永さん、以下同)
気づいたら病院の集中治療室のベッドで身体中に管がつながれていた。生まれつきの脳動静脈奇形が原因の脳出血による左半身麻痺。それまで何の兆候もなく、脳に先天的な異常があることも、このとき初めて知った。
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脳動静脈奇形とは、脳の動脈と静脈が毛細血管を介さず、ナイダスと呼ばれる異常な血管のかたまりで直接つながった状態をいう。
ナイダスは胎児期から小児期にかけてでき、成長につれて血管が破れて出血する脳出血や、血管にできた瘤が破裂して出血するくも膜下出血を起こすリスクが高くなる。症状がなければ自分で気がつくことは難しく、松永さんのように前触れなく不意に脳出血に襲われることもある。
ちなみに脳卒中というのは脳出血とくも膜下出血に加え、脳の血管が詰まる脳梗塞を総称した病名だ。
当初はわが身に起きたことが理解できず茫然とするしかなかった松永さんだが、翌日には早くも現実を受け入れ、感覚が残っているところに意識を集中させ、少しでも動かすようにした。
それと同時に自由に動く右の手足の動きを左側に転写するような感覚で、自分が歩くイメージを思い浮かべていたという。なぜ、そんなに早く発想を切り替えることができたのか。
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「作業療法士だったダンスの師匠が、SNSでメッセージをくれたんです。『脳卒中の症状は、脳からの指令が届かないだけで身体に障害があるわけじゃない。運動麻痺は時間との勝負。最初の3か月の頑張りで回復の程度が変わってくる。身体が固まらないようにとにかく動かせ』と。それを読んで、『1分1秒無駄にはできないな。3か月、できるだけのことをしよう』と、目標ができたんです」
とはいえ、数日後にリハビリ担当の医師と対面した松永さんは、重度の左半身麻痺のため車椅子に乗るのがやっとの状態。
医師からは、「頑張ってリハビリして、3年後に杖をついて歩けるようになればいいほう。ダンスを踊るのは難しいだろう」という宣告を受けた。
脳出血が起きると、出血が固まってできた血腫が脳を圧迫し、ダメージが広がる。重い後遺症が残り、一生車椅子生活という人も珍しくない。
「でも医師の話を聞いても、私はもう一度ダンスのステージに上がるんだという強い気持ちは消えませんでした。脳卒中は脳からの指令が届かないだけということを知ったので、絶望的にならずにすんだのです」
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また、多くを語らず側で見守ってくれているご主人の「俺は知子の命を救うために生まれてきたのかもしれない」という言葉も松永さんを前向きにさせたという。
「あのときに彼がいなければ私は一人で命を落としていたかもしれませんし、もし命が助かっても対応が遅れたことでさらに重度の麻痺が残っていたかもしれません。離婚届を出そうとした日がその日だった意味を感じずにはいられません……。私が彼の人生の邪魔になるわけにはいかない、そんなことも思いながらリハビリをしていました」
担当医は「医学的な常識ではあり得ないこと」
実際にリハビリが始まると、それまでひたすら繰り返していた、歩く動きにつながるイメージトレーニングが功を奏し、松永さんはなんと2週間足らずで歩き始め、「医学的な常識ではあり得ないこと」と担当医を驚かせたという。
「今振り返ると、リハビリが始まる前からベッドで少しずつでも左半身を動かしていたことがよかったんじゃないでしょうか」
点滴が外され、病棟内の一人歩きが許されると、松永さんは1日2時間を2セット、病棟内を歩き回った。
「寝ている時間以外は何をしてもリハビリにつながるという気持ちで、途中からは楽しみながらやっていましたね」
だが、順調に回復するばかりではなかった。再発防止のため、発症から半月たったころ、脳動静脈奇形除去の開頭手術を受けた松永さんは、その影響で麻痺の状態が少し元に戻り、その後は何をしても思わしい効果が出ない時期がしばらく続いたという。
「それでも、進行性の病気と違って、脳卒中の後遺症はリハビリで回復する可能性がある、何より私には命がある。そう考えて前向きな気持ちを持ち続けたんです」
その後、病院を転院し、リハビリを精力的にこなしていた松永さん、運動麻痺はリハビリをするたびに回復している実感が持てたが、感覚麻痺についてはなかなかその実感が持てなかったという。
「温かい、冷たい、痛いといったわかりやすい感覚は比較的早く回復しましたが、位置感覚や距離の感覚がつかみづらく、気づいたらどこかにぶつかっていたり、指先の感覚が鈍いため、握っていたものを落としても、そのことに気づかなかったり……。こうした不具合は、今でも残っています」
そして、最初の入院から4か月半後、ついに松永さんは退院し、元の夫や友人たちのサポートを受けながら一人暮らしを始め、間もなく職場にも復帰した。
「勤務先には、『いつ回復できるかわからないから代わりの人を入れてください』と伝えていましたが、『絶対に戻ってくると信じているから、席を空けて待っているよ』と言っていただき、それも闘病の力になりました」
感覚麻痺の中でも、松永さんは特に目で見えないものの位置感覚が把握できないため、パソコンのブラインドタッチはできなくなったが、幸い言語や記憶力などに障害はなく、仕事への支障は少なかった。
退院後の松永さんの大きな変化は、リハビリを兼ねて、それまでできなかった料理を始めたことだ。
「料理には苦手意識があり、結婚していたときは夫に任せ、私は一度もやらなかったんです。でも始めてみたら、できなかった料理が少しずつできるようになるのが楽しくて、苦になりませんでした。ただ、左手に感覚麻痺が残っているので、握っていた包丁を足の上に落とすなど、しょっちゅうケガはしましたが(苦笑)」
現在の松永さんは、運動麻痺に関してはほぼ回復している。
「私の歩く姿を見て、4年半前に脳出血で重度の麻痺が起きていたなんて、誰も信じないと思います」
ただし左の手足については、右側のように自由に動かすことはできない。そのため疲れているときには左の手足に意識が回らず、特に左足は感覚がほとんどなくなってしまうことがあり、階段の下りは手すりを持っていないと危険だという。
「他の麻痺患者さんの希望になるために」
退院直後からダンスのための身体づくりも再開し、これもいいリハビリになったという松永さんはその1年半後、復活のステージに立った。
「必ずもう一度ステージに立つんだという思いでリハビリを続けてきましたから、周囲の人の応援でそれが実現できたのは、本当にうれしかったです。もちろん以前と同じようには踊れませんが、ダンスは技術がすべてじゃなく、その人の生きざまが表れます。私が生きて病気を乗り越えてきたことで生まれる表現を見てもらいたい、という気持ちで踊りました」
医師から、もう一度ダンスを踊るのは難しいと言われながらも、奇跡的な復活をとげた松永さんは「そこまで回復した人がいないんだったら、私がその一人になって奇跡を起こしたい。他の麻痺患者さんの希望になるためにも、必ず結果を出すんだ」という強い気持ちを持ち続けてきた。
「脳卒中は誰にでも起こり得る病気で、症状もさまざまなので一概には言えませんが、リハビリをすれば少しずつでも必ず成果が表れることを私は実証しました。今、身体麻痺に苦しんでいる人にもそのご家族にも、回復を信じて希望を持ち続けてほしいと伝えたいですね」
松永知子さん 1977年生まれ。福岡県在住。30歳でダンスを始め、会社員として働きながらステージ活動を続ける。現在は、日本脳卒中協会の「脳卒中スピーカーズバンクメンバー」として、自身の闘病体験を語る活動も始めている。
取材・文/伊藤淳子