
実はコロナ禍にステージ4の血液のがんの一種「悪性リンパ腫」とわかり、闘病していたというイタリアンシェフの落合さん。昨年、再発がわかったあとも前向きに治療を続けている。「根っからのポジティブ」という落合さんの諦めない理由とは――。
「日本一予約が取れないレストラン」のオーナーシェフとして知られる落合務さんは、4年前の2021年春ごろ、慢性的な疲労に悩まされていたという。
体質の異変は“年のせい”ではなかった
「ちょうどコロナ禍でイベントやテレビの仕事もなくなって、店も前年に長男に譲っていたのでほとんど休んでいたんです。それなのに疲労で体調が悪い。ただ自分としては、年も年だし疲れが抜けないのは当たり前だと思っていたんです」
本人以上に異変を感じ取ったのは妻だった。
「僕は普段、音を上げるタイプじゃないからおかしいって。それで近所の病院にかかったら、すぐに大学病院を紹介されて。人間ドックも定期的にやっていたし、まさかがんなわけはないって思っていたんですが、結果は『悪性リンパ腫』と。“えっ!?”って感じでした」
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この病気は血液中の白血球の一種「リンパ球」ががん化し、リンパ節の多い部位に腫れやしこりが現れる疾患だ。落合さんは医師からステージは4、助かるかどうかは「五分五分」と告げられた。
「ぶっちゃけた先生で、その言い方が面白くてね(笑)。へぇ、ちゃんと治療すれば半分は助かるんだ、俺は絶対生き残るほうの50%になるんだ、って思いました」
治療は抗がん剤による化学療法だった。最初に3週間入院して1回目の抗がん剤治療が始まる。
「聞きしに勝る副反応のつらさで。何ともいえない倦怠感で、じっとしていても苦しいし吐き気もあるし、のたうち回るような感じでした。その後は通院して全部で8回の抗がん剤治療を受ける予定が、5回目くらいで効果が出たので6回で終了することになったんです。“やったー!”ってうれしかったですね。それで、11月に『寛解』と言われたんです」
年が明け、コロナ禍も徐々に落ち着いてきた4月ごろから少しずつ仕事も再開した。
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「別に秘密にしていたわけじゃないけど、わざわざ言うことでもなかったから、仕事相手もほとんど知らなかったと思うよ」
突然のがん再発 最新の治療法を決意
しかし、その矢先の2024年6月、検査で悪性リンパ腫の再発が判明する。
「2度目の抗がん剤治療は前回よりもキツいと言われていたんです。中でもいちばんつらかったのは、下剤も効かないほどのひどい便秘。お腹にコンクリートが詰まっているような感覚でとにかく気持ち悪かったですね」
やがて便秘が解消すると、経験したことのない腹痛に襲われる。今度は副作用で小腸に穴があいたのだ。
「それで2週間絶食。水も飴もダメで、空腹で気が変になりそうでしたね。だから、普通の食事がとれるようになってからは、そもそも食事制限がなかったので、うな重や焼き肉弁当など好きなものを食べましたよ(笑)。それでも体重は10キロ落ちました。入院前は身長のわりに体重があったから痩せたかったんだけど、食べるのが好きだからなかなか痩せなくて。もう太らないよう体重をキープしています」
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悪性リンパ腫は今回の治療で寛解してもまた再発する可能性がある病気だ。
「先生が、再発を防ぐことが期待されている『CAR―T細胞療法』という治療法があると教えてくれて。血液からリンパ球を取り出してアメリカの施設に送り、パワーアップして僕の体内に戻すと言うんです」
落合さんが治療を受けていた病院では症例が12例あって、うち4人は亡くなり、残り8人は存命であることなども説明を受けた。
「当時、僕は76歳で年齢制限を超えていたんだけれど、先生が『落合さんは体力があるから大丈夫でしょう』と後押ししてくれて、やってみようと決心しました」
ただ、もうひとつネックがあった。アメリカへの輸送コストがかかることもあり、当初は1回の治療費が約3800万円と超高額だったこと。
「新車のランボルギーニが1台買えちゃうよね(笑)。金額には驚いたけど、幸いにも僕はがん保険の『先進医療特約』に入っていたんです。妻が保険会社に問い合わせたら、全額カバーされることがわかったんですよ」
さらに難治性と認められたため公的保険の適用となり、結果として高額療養費制度の助成も受けられたという。
妻の存在が闘病の励みに
この療法では血液から透析のような機械でリンパ球を取り出し、1か月かけてがん細胞を攻撃する遺伝子を持つ「CAR―T細胞」の培養などを行う。その間、落合さんは3回目の抗がん剤治療を受け、その後、培養したリンパ球から作られた薬を体内に移す処置を行った。
「40度近い高熱が出て2日ほどダウンしたこともあったけど、その後は順調に治療ができて。トータルで5か月以上、ほぼ寝たきり生活だったから筋力がなくなってしまってね。ベッドからも立ち上がれず、トイレに行くにもフラフラするようになって」
退院からしばらくして、久しぶりに自宅でスパゲティを作ったところ、妻から「しょっぱくて食べられない」と言われてしまう。自分では気づかなかったが、味覚障害に陥っていたのだ。
「妻に料理にケチをつけられたことがショックで怒ったけど、言われてみれば入院中、何を食べても“薄い”と思ってたんだよ。マイ調味料を持ち込んでたから気づかなくて。でも副作用はいずれ治るだろうと思って、過度に心配しませんでした」
がんになっても常に前向きで、落ち込んだりすることはなかったという。
「前向きすぎて妻からも“バカじゃないの”って、からかわれましたね。“しょうがない”という気持ちがいつもあるんです。自分じゃ治せないし、病気を受け入れて一緒に頑張るしかない。この後はどうなるかわからないけど、自分のベストは尽くしたから」
今のところ、担当医からは「落合さんの身体の中にがん細胞は見当たりません」と言われているそう。
「手足の痺れや、爪がボロボロだったりと後遺症はあるけれど、あとは免疫力と体力を戻すことだけです」
2度の闘病では、妻の支えが大きかったと話す。
「入院中はほぼ毎日、病院に来てくれて。ただ、あるとき、大ゲンカしたら2日間来なくてさ。電話にも出ないし、さすがにマズいと思って、病院を抜け出してタクシーで自宅に帰ったんだ(笑)。妻は驚いて、病院にすぐ追い返されたけど。その後、“二度としないで”って涙ながらに電話をもらって、なんとか仲直りしました」
自分が前向きすぎるぶん、妻の冷静なサポートがありがたかったと語る。
「病気や治療法なんかも妻が全部調べてくれてね。自分で調べるとさすがに弱気になっちゃいそうだから」
最近始めたYouTubeチャンネルは、自宅で料理をする落合さんを妻が撮影し、二人三脚で制作する。
「裏では『うるせぇなぁ』とか言いながら、ケンカしっぱなしですよ。それでもケンカできる相手がいて、体力もあるって幸せだね」
と語る落合さんからは、妻への思いがあふれていた。
落合務シェフ●17歳で料理の道へ。ホテルニューオータニなどでフランス料理を学び、31歳から4年間、イタリアで料理の修業を積む。帰国後、イタリア料理店の料理長を務め、1997年「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」を銀座にオープン。日本イタリア料理名誉会長。
取材・文/荒木睦美 撮影/佐藤靖彦