長崎原爆資料館で小学生に被爆体験を話す八木道子さん=7月10日、長崎市 「平和のバトンをお渡しするつもりで」。長崎平和推進協会で語り部を務める八木道子さん(86)=長崎市=は、そんな思いで80年前の体験を継承している。ロシアのウクライナ侵攻などを念頭に「長崎を最後の被爆地に。絶対、最後にしよう」と語る。
6歳の時、爆心地から約3.3キロの長崎市鳴滝町(当時)の自宅で被爆した。「雷の稲光のようにピカーっと光ったと同時にドーンという音が聞こえた。光より音の方が驚いた」という。爆風で家の中のたんすや、原爆投下の半年前に亡くなった父の仏壇などが吹き飛ばされ、外に出ると、騒がしかったセミの鳴き声が聞こえなくなっていた。
やけどを負った体からうじ虫がぼとぼとと落ちる人、髪の毛が抜けてしまった人、鼻血が止まらない人。原爆投下後、終戦までを過ごした町内の防空壕(ごう)の中は悲惨な状況だった。
壕を出ると街並みは一変していた。近隣の小学校の運動場で、多くの死体を焼く場面に遭遇したこともある。「かわいそうだから見ないようにしていたが、臭いはどうしようもなかった。焼くしかなかったのでは」と振り返る。
一番つらかったのは、食べ物がなかったことだ。ある日、母と一緒に、軒先にサツマイモがたくさん置いてあった農家を訪ねた。「少し分けてもらえませんか」。母は着物とサツマイモを交換してほしいと頼んだが、「自分の家にも子どもがいるから、分けてやるイモはなか」と断られた。見上げると、寂しそうな母の顔が目に入った。
あの時の母の表情を思い出すため、今でもサツマイモが嫌いだという八木さん。戦後、働いていた小学校の教員を退職した際、先輩にこう言葉を掛けられた。「教員には退職があるけれど、被爆者に退職はない。今から話をしていかんば」。語り部として第二の人生を歩む出発点になった。
7月、熊本市から修学旅行で長崎原爆資料館を訪れた小学6年生約100人を前に、八木さんは優しい口調で語り始めた。「平和のバトンをお渡しするつもりで話します。帰ったら、家族や下級生に話してね」。

被爆当時に住んでいた自宅(右奥)の前で、2階から見た原爆投下の瞬間について語る八木道子さん=7月29日、長崎市