ウクライナ抑留者、ロシア侵攻に心痛=だまされた帰国、故郷思い続け―100歳男性「過去から学んで」

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2025年08月22日 08:02  時事通信社

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ウクライナでの抑留体験を語る故伊藤康彦さん=4月22日、福岡市
 第2次世界大戦終結後、旧ソ連が旧日本軍捕虜らを強制労働させた「シベリア抑留」。実際の抑留地はモンゴルや中央アジアなど広範囲に及ぶ。5月に100歳で亡くなった伊藤康彦さん=福岡市=は、日本から約8000キロ離れたウクライナに連行された。生前の取材に「ロシアの侵攻には心が痛む。また捕虜が抑留されるのでは」と悲痛な表情を浮かべていた。

 伊藤さんは1944年10月、19歳で召集され、旧陸軍に入隊。朝鮮半島に渡り、京城(現ソウル)で訓練を受けた。45年8月15日。強い日差しの中、平壌で玉音放送を聞いた。ノイズが多く聞き取りづらかったが、上官の説明で敗戦と知った。信じられなかった。

 同年9月、武装解除された後に平壌近郊の収容所に入れられ、ソ連兵の兵舎を整備する作業に従事。46年夏、ソ連兵から「ダモイ(帰国)だ」と言われ、半島東部の港町から船に乗った。日本に向かうなら、陸地は右側に見えるはず。だが、実際には「ずっと左側に見えた」。船は北上を続け、だまされたことに気付いた。

 着いたのはソ連沿岸部。収容施設で全裸にされて並べられ、身体検査を受けた。身長160センチ未満の伊藤さんをはじめ、小柄な人や病弱な人は同じ貨車に乗せられた。体格の良い仲間はシベリアに送られたと後で知った。

 約1カ月後、伊藤さんらが乗った貨車はウクライナのアルチョモフスク(現バフムト)に到着。冬は氷点下15度を下回る極寒の地で、戦争で壊れた家のれんが拾いなどをさせられた。

 収容所からは遠くに炭鉱が見えた。同じく炭鉱がある故郷の福岡・飯塚の風景と重なり、望郷の思いが強まった。宿舎で毎晩のように話した男性も「子どもがいるから帰りたい」と語っていたが、ある日の朝、隣で冷たくなっていた。

 炭鉱では日本人捕虜も働かされており、体調不良者が出ると、伊藤さんと同じ収容所に運ばれた。約40人がトラックの荷台に立ったまま移送され、着く頃には5、6人は亡くなっていたという。「材木のようなひどい扱いだった」

 47年秋、ソ連兵から再び「ダモイだ」と言われた。どうせうそだと思ったが、貨車で約1カ月かけて極東の港ナホトカに送られ、引き揚げ船で京都・舞鶴に着いた。「震えるほどうれしかった」。帰国後は銀行などで働き、退職してからは元抑留者らでつくる団体で語り部となった。

 今年4月に取材に応じた伊藤さんは「故郷に帰りたいと思い続けた抑留生活だった」と振り返っていた。2022年から始まったロシアのウクライナ侵攻に「どうして戦争が起きてしまうのか。起こさない方法を過去から学び取ってほしい」と訴えていた。 




戦時中の故伊藤康彦さんの写真=4月22日、福岡市中央区
戦時中の故伊藤康彦さんの写真=4月22日、福岡市中央区

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  • 「ロシアも悪いけど」と前置きして、ウクライナを一方的に批判する自称「中立派」さん。なぜ、そこまでウクライナが嫌いなのですか?
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