日航ジャンボ機墜落事故から40年を迎え、インタビューに応じる元検事の中川清明さん=7月11日、東京都杉並区 乗客乗員520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から今年で40年。事故直後に現場に入り、4年後の刑事処分にも関与した唯一の検事がいる。現在は弁護士として活動する中川清明さん(66)=富山県出身。墜落事故のインタビューに初めて応じ、捜査共助を求めて渡米した経緯を語った。
任官2年目に前橋地検に配属され、4カ月がたった1985年8月12日の夜。仕事を終えて一息ついていると、羽田発の日航機が行方不明として「全員待機」の一報が入った。翌日から検事が交代で墜落場所の群馬県上野村に向かい、中川さんも1週間後、現場の尾根に立った。
「ここで生存者がいたのは奇跡だと思った」。四つんばいにならないと下りられないくらいのきつい斜面、遺体安置所での遺族の姿―。今でも目に焼き付いている。
米ミシガン大への留学を挟み、前橋地検の在籍期間が3年を超えた88年秋ごろ、地検の捜査が本格化。焦点は、製造元の米ボーイング社による圧力隔壁の修理ミスだった。89年1月に発足した東京、前橋両地検の合同捜査班に加わり、修理に関わった人物の聴取を米側に求めるため、同年5月に先輩検事と渡米した。
修理ミスについて、ボーイング社も米司法省も「刑事事件ではない」と考えていた。相手国で犯罪に当たらなければ、捜査共助の対象とはならないのがルール。そこで、日本の業務上過失致死傷は米国で刑事責任を問われる「重過失」に近く、万が一があれば重大事故が発生する航空機の修理に携わる人には、重い注意義務が課せられていると強く訴えた。「ゼロ回答では帰れないと必死だった」
朝から夕方まで説明に聞き入った米司法省の検事は「どんな手法があるか考える」と引き取り、翌日に「(修理に関わった人物への)質問状を出すようボーイング社に頼む」と告げた。捜査共助が実現した瞬間だった。
ただ、質問状を送ったボーイング社の修理チーム43人のうち、「私は機材を運んだだけで修理には関与していない」と答えた1人を除き、残り全員が黙秘権を理由に回答しなかった。
誰がなぜ、あのような修理をしたのか結局分からなかったが、贈賄側を免責し、収賄側を起訴したロッキード事件のように、不起訴を約束して証言を求める選択肢はなかった。「修理ミスに関係した者を免責するのは公平性に欠ける上、仮にボーイング社側から供述を得ても、直ちに日航や旧運輸省側の過失を決定付ける証拠になるとは限らない」からだ。
検察当局は89年11月、書類送検や告訴を受けたボーイングと日航、旧運輸省の関係者全員を不起訴処分とした。
「真相が十分に明らかにならなかったが、やれることはやった。米司法省の担当検事も、よく共助に応じてくれたと思う」。静かに振り返った。