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1985年に日本航空(JAL)のジャンボ機が墜落し、520人が死亡した事故から12日で40年となる。次男の健(けん)さん(当時9歳)を亡くした美谷島(みやじま)邦子さん(78)は公共交通の安全と、事故の被害者や遺族への支援を求めてきた。できる限り活動を続けることが、息子から課された宿題だと思っている。
「安全は過去の事故や被害者、家族の思いの積み重ねの上に成り立っている。その思いを忘れないでほしい」。7月下旬、美谷島さんは東京都品川区のJAL本社で講演し、こう訴えた。参加した社員ら約1100人に「一緒に安全をつくっていきましょう」と呼びかけた。
40年前の事故の日。健さんは初めての一人旅で、親戚のいる大阪に向かった。高校野球が大好きで、甲子園や阪神電車を楽しみにしていた。羽田空港まで夫婦で見送り夫が先に帰宅すると、健さんは「ママ、一人で帰れる?」と気遣ってくれた。その時つないでいた健さんの手は温かかった。
帰宅後、日航機の機影がレーダーから消えたというニュースを目にした。「なんとか助けてあげたい」。夫と一緒に翌日には群馬に入ったが、墜落した御巣鷹(おすたか)の尾根に登れたのは15日朝。登山道はなく、救助隊の足跡を頼りに4時間かけて泥だらけで現場にたどり着いた。
17日、健さんが見つかった。わずかの胴体と右手だけだったが、手のいぼと爪の形ですぐに分かった。火葬して残ったほんの少しの灰を骨つぼに入れた時、心が壊れていくような感覚に襲われた。一人で飛行機に乗せなければよかったと、自分を責め続けた。
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事故の2カ月後、健さんの隣の席だった女性の遺族から電話をもらった。苦しい胸中を語り合うと、「健は一人じゃなかった」と感じることができた。「悲しみを乗り越えようとするのではなく、心の中に悲しみの居場所をつくろう」と思った。
85年12月、遺族らは「8・12連絡会」を立ち上げ、美谷島さんは事務局長を務めた。支え合いながら、事故の原因や責任を追及した。機体の残骸や遺品の保存、啓発施設の設置をJALに働きかけ、実現させた。公共交通機関の事故の被害者と遺族に対する支援組織の設置を求め、2012年に国土交通省に支援室が設置された。
今年は10年ぶりに、遺族らの手記を集めた文集「茜雲(あかねぐも)」を発行した。命の尊さや安全の大切さを伝えるために学校や交通事業者で続ける講演は今も毎月実施する。当時を思い出すと心が痛むが、事故を忘れられる方がつらい。
連絡会の活動は共感を呼び、御巣鷹の尾根には、JR福知山線の脱線事故や東日本大震災といった他の事故や災害の遺族も集うようになった。美谷島さんは遺族同士の交流を大切にしている。励まし合うことはもちろん、事業者や国も含め「安全はみんなでつくるもの」と考えているからだ。
美谷島さんの40年の歩みは、この国の公共交通機関で安全文化が育まれた道のりと重なる。「失敗から学んで対策を考える。その繰り返しが命を守ることにつながる。遠回りだけれど、それが正解に近づく方法だ」。これからもあの夏のことを語り継いでいく。【福田智沙】
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日航ジャンボ機墜落事故
1985年8月12日午後6時56分ごろ、羽田発大阪行き日本航空123便が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客乗員計520人が死亡し、4人が重傷を負った。事故調査報告書によると、78年のしりもち事故の修理ミスが原因で、飛行中に圧力隔壁が損壊。垂直尾翼が吹き飛んで制御不能となった。単独機の事故の死者数としては現在も世界最多。
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