【白球つれづれ】伝説の名投手とその時代

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2017年03月21日 17:12  ベースボールキング

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◆ 白球つれづれ2017 〜第3回・沢村栄治〜

 これも運命のいたずらというやつか? 小久保裕紀監督率いる侍ジャパンが今月22日(日本時間)にWBC準決勝に挑む。これと時を同じくして日本国内では沢村栄治の生誕100周年記念と銘打たれた巨人と日本ハムのオープン戦が行われる。場所は沢村の出身地である三重県・宇治山田(現伊勢市)の倉田山公園野球場だ。

 沢村栄治と言えば、ほとんどの野球ファンなら名前は聞いたことがあるはずだ。野球草創期の剛腕にして、伝説の名投手。今でも先発完投型の最優秀投手に贈られる「沢村賞」に名が記されている。


◆ アメリカが認めた侍

 なぜ、侍ジャパンと沢村のことを引き合いに出したかと言えば今から83年前にさかのぼる。17歳の少年は米国からやってきたベーブルースやルー・ゲーリッグといったメジャーのスター軍団を相手に胸のすく快投を演じている。

 ゲーリッグに一発こそ浴びたものの0−1の完投。被安打5、9奪三振の内容には時の米国代表監督が「連れて帰りたい」と語ったという逸話が残っている。当時の日米の野球レベルは今よりはるかに大きな差があった。さしずめ今回のWBCに置き換えるなら決勝を完封するくらいの衝撃だろうか。

 史上最高の投手とうたわれる。どの程度の怪腕だったのだろうか? 何せ生誕100年ともなれば証言者も限られる。そんな中で最も説得力があるのは機械による投球の解析ではないだろうか?

 当時の映像から分析した結果、そのスピードは最速159キロを弾き出している。用具の発達やトレーニング法が現代とはまるで違うのだから比較は難しいが、現代に置き換えれば大谷翔平(日本ハム)の165キロに匹敵する数字だろう。


◆ 悲運と伝説

 1936年、プロ野球誕生と同時に東京巨人軍(現読売巨人)に入団すると史上初のノーヒットノーランを樹立するなど数々の伝説を残したが生涯成績は63勝22敗と100勝にも満たない。それでも完封が20を数え、防御率1.74はさすがというしかない。

 だが、わずか9年後の44年には巨人を解雇されている。原因は戦争だった。

 飛ぶ鳥を落とす勢いの38年に徴兵されて陸軍入隊。日中戦争で手榴弾を投げすぎて右肩を痛めている。その後、グラウンドに戻った時には本格派右腕はサイドスローでしか投げられなくなっていたのだ。

 さらに2度目の応召と復帰後はアンダースローに。解雇された44年秋には3度目の出征をし、屋久島沖で戦死している。27歳の名投手は悲運と伝説を残して消えていった。

 「手榴弾は投げるなよ」巨人時代、後輩たちに残した言葉だと言われている。


◆ 受け継がれた伝統

 背番号14は、巨人の永久欠番。左足を高々と上げる独特の投球フォームは印象深い。その沢村にゆかりの人物がいる。遠縁にあたり同じ三重出身で巨人に入団したのが中村稔だ。

 V9時代の投手であり投手コーチも務めた中村は沢村の独特のフォームを「理にかなったもの」として後進に伝授。その中からエースとして成長したのが江川卓と両輪を形成した西本聖である。

 22日のオープン戦。巨人は監督の高橋由伸以下、コーチ、選手も全員が背番号14のユニフォームを着てグラウンドに立つ。同ユニフォームはその後、沢村の母校・明倫小学校らに寄贈されるという。

 この2年、覇権から遠ざかっている巨人にとって今季は優勝が絶対の使命でもある。オフにはDeNAから山口俊、日本ハムから陽岱鋼、ソフトバンクから森福允彦らをFA補強。巨大戦力がいかに機能していくかがペナントの命運を握る。伝説の男も泉下から見守っているに違いない。


文 = 荒川和夫(あらかわ・かずお)

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  • 靖国神社に眠っておられるんだろうな…
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