京急大師線・空港線を歴史散歩 - 小島新田駅から羽田エリアへ探索

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2019年03月02日 07:02  マイナビニュース

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画像提供:マイナビニュース
●小島新田駅周辺は歴史と最先端が交差する街に
今年以降、京急大師線で大きなイベントが相次ぐ。1月21日には、大師線が京急電鉄の創業路線であることから、「京急電鉄 開業120周年記念式典」が京急川崎駅の大師線ホームで執り行われた。3月3日には東門前〜小島新田間が地下化される。2020年3月には、同社の他の駅とともに産業道路駅の駅名が変更され、「大師橋駅」となる。

しかし、これだけ話題に上るものの、通勤・通学利用者や沿線に住む人を除けば、京急大師線を全線乗り通す機会は少ないのではないか。また、終点の小島新田駅の先に広がる臨海部には何があるのかなど、意外と知られていないことがたくさんあるように思う。

今回は京急大師線の歴史に触れつつ、小島新田駅から臨海部を歩き、多摩川を渡った先にある京急空港線・東京モノレールの天空橋駅まで探索してみることにした。
○■京急大師線は現在より長い路線だった

京急大師線は京急川崎駅を起点に小島新田駅までを結ぶ約4.5kmの路線だが、かつて、いまより長い路線だった時期があるという。

大師線が六郷橋〜大師間の営業距離約2kmで開業したのは1899(明治32)年1月21日であり、開業から3年後の1902(明治35)年には、官鉄(現・JR)の川崎駅近くまで延伸された。

その後、明治の終わりから大正の初め頃、当時の京浜電鉄は大森山谷(現・大森町駅)から鶴見の總持寺を結ぶ「生見尾(うみお : 生麦、鶴見、東寺尾が合併してできた村名)支線」を敷設しようと計画したが、「同支線敷設に伴う既設線への悪影響を理由」(『京浜急行八十年史』京急電鉄編) に却下された。そこで方針を変え、東京府内の路線建設を断念し、海岸電気軌道という子会社を設立。1925(大正14)年、当時の大師線の終点である大師〜生見尾(總持寺)間に軌道を開通させている。

この路線を現在の地理で説明すると、川崎大師駅を出た後、産業道路駅の手前でカーブを描きながら南下。産業道路を走り、弁天町のあたりで産業道路と分かれて北西に進み、鶴見川を渡って総持寺駅(京急鶴見駅と花月園前駅の間にあった)に至っていた。

しかし、海岸電気軌道は昭和恐慌のあおりを受けるなどして経営難に陥り、鶴見臨港鉄道(後の鶴見線)に合併されるなど、紆余曲折をたどる。そして産業道路の拡幅整備を機に、1937(昭和12)年に廃止された。産業道路駅南側の出来野交番裏手のカーブした道や、總持寺駅のあった場所という鶴見区の本山前桜公園が、わずかに残る海岸電気軌道の名残りといえる。

その後、大師線が再び延伸されるのは、1944(昭和19)年から翌年にかけてだ。戦時中の陸上交通事業調整法による、いわゆる「大東急」体制の下、軍需生産で活況を呈する臨海部の工場地帯への工員輸送をおもな目的として、川崎大師駅から桜本駅まで開業した。

戦後、1948(昭和23)年に京浜急行電鉄として独立した後、1952(昭和27)年、川崎市電を運行する川崎市に塩浜〜桜本間を譲渡。1964(昭和39)年、国鉄塩浜操作場駅(現・川崎貨物駅)建設のために小島新田〜塩浜間が休止となり、1970(昭和45)年に正式に廃止された。こうして現在の京急川崎〜小島新田間の路線が確定した。
○■近未来的な風景や斬新なデザインのホテルも

京急大師線の終点、小島新田駅の改札を出て左手から貨物線の線路を渡る跨線橋の階段を上ると、川崎貨物駅を一望できる。跨線橋を渡ったら、その先の「小島新田児童公園前」交差点を左手(北)に向かって歩いて行こう。

やや距離があるので今回は省略するが、この交差点を右手(南)に20分ほど行くと、「夜光町」交差点の近くに川崎大師の創建にまつわる物語が記された「夜光町の由来の記」の説明板があることもお伝えしておきたい。

さて、多摩川の土手をめざして北に歩を進め、首都高の下をくぐると、その先にはライフサイエンス・環境分野を中心とした研究施設などが集まる「殿町国際戦略拠点 キングスカイフロント」の近未来的な風景が広がる。このエリアの一角に、昨年6月1日にオープンした「川崎キングスカイフロント東急REIホテル」という特徴的なホテルがあるので、立ち寄ってみた。

同ホテルは「倉庫」を意味する「The WAREHOUSE」をコンセプトに、まるで京浜工業地帯に昔からあった倉庫が生まれ変わったような、ありのままの素材感が「味」となる斬新なデザイン空間が特徴となっている。

また、ただ泊まるだけのホテルではなく、サイクリングやランニングといったリバーサイドアクティビティと気分転換のエクササイズ、多摩川を眺める大浴場でのリフレッシュ、羽田空港の夜景を一望するレストランテラスや客室など、「ライフスタイルに合わせた滞在が楽しめる機能」を備えているという。

さらに、川崎市周辺で回収された使用済みプラスチックを原料に作られた低炭素水素を工場からホテルにパイプラインで送り、純水素燃料電池により、ホテル全体の約3割の電気や熱などをまかなっている。これはホテルとして世界初の試みだ。

羽田空港へのアクセスは現在、車で10分ほどかかる。しかし、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて工事が進められている「羽田連絡道路」(川崎区殿町三丁目〜大田区羽田空港二丁目)が完成すれば、徒歩約15分または車で5分で空港にアクセスできるようになるという。今後は羽田の早朝便・深夜便利用時などにありがたい存在となりそうだ。

●新駅名に採用「大師橋」から天空橋駅まで
○■大師橋のたもとには渡し船の跡が

ホテルを出た後、上流に見える大師橋をめざし、多摩川の土手の上を歩く。大師橋は現・産業道路駅の新しい駅名にも採用される予定だ。

大師橋のたもとには「羽田の渡し」跡の標柱が立っている。この渡し船は、江戸時代の末には川崎大師と穴守稲荷神社を行き交う参詣客で大変繁盛し、本街道(東海道)の「六郷の渡し」の客足が減って困った川崎宿が幕府に「羽田の渡し」の通行禁止を願い出たほどだったという。しかし1939(昭和14)年、大師橋が開通すると廃止された。

ここで疑問に思うのは、渡し船の名前にもなっている「羽田」という地名はいつ頃から存在したのかということだ。あまりにも空港にふさわしい地名であるため、空港ができた後に付けられたと考える人が多かったのではないかと思うが、そうではない。

江戸時代の文化・文政期(1804〜1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』に「羽田」の地名が見られるので、少なくともそれ以前から存在したことになる。一方、立川を軍用機専用の飛行場とするために、民間機用の「東京飛行場」が羽田に開港したのは1931(昭和6)年のことであり、空港のほうがずっと後にできた。

地名の由来については、もともと海老取川を挟んで2つの島になっており、海側から見ると鳥が翼を広げたように見えたという地形由来説をはじめ、諸説あるようだが、はっきりしたことはわからない。
○■戦前の穴守稲荷はどこにあった?

大師橋を渡ると、すぐ左手に羽田の氏神として航空会社各社も参詣するという羽田神社がある。神社前の通りをさらに700mほど進むと、環八通りとの交差点に地下駅である京急空港線大鳥居駅の入口がある。

ところで、駅付近を見る限り大きな鳥居が存在しないのに、なぜ「大鳥居」駅なのだろうか。その答えは駅構内に掲げられている金属製のレリーフを見ればわかる。大鳥居駅が開業したのは1902(明治35)年6月だが、「穴守稲荷神社から稲荷橋まで鳥居が連なっており、その最初の大きな鳥居が近くに有ったことが駅名の由来」になったという。

当時、穴守稲荷神社は風光明媚な景勝地であり、鉱泉も発見されるなどして大変なにぎわいを見せていたそうだ。「川崎大師の参拝をすませると、多摩川をはさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝を兼ねて、遊びに行くという人が多かった」(『京急グループ110年史 最近の10年』京急電鉄編)という。当時の京浜電鉄はこうした参詣客を取り込むため、1902(明治35)年に穴守線(現・空港線)を開業させたのだ。

ちなみに、穴守稲荷神社は戦前まで、現在地とは海老取川を挟んだ対岸の、現在の羽田空港B滑走路の南端付近にあったという。戦後、GHQ(連合軍総司令部)が飛行場の拡張のため、海老取川東岸に存在した羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町という3つの町を強制退去・接収した際に神社も取り壊され、現在地へ移転した。
○■街の変遷を見つめる羽田の大鳥居

穴守稲荷神社を参拝した後、最後は天空橋駅周辺を探索しよう。まずは駅の西側を流れる海老取川に着目。駅北側に架かる穴守橋と、駅の真西に架かる天空橋(人道橋)の間に、「稲荷橋」という赤い欄干の橋が架かっている。

この稲荷橋は東岸側(駅側)が行き止まりになっており、いまは橋として機能していない。しかし、昭和初期の地図を見ると、この稲荷橋こそが穴守稲荷神社の参道として使われていたことがわかる。つまり、この橋の延長線上にある羽田空港の敷地内に、戦前まで穴守稲荷神社が鎮座していた場所があるのだ。

次は、海老取川沿いを南に進もう。多摩川との合流地点に近づくと、大きな赤い鳥居がポツンと立っているのが見えてくる。この大鳥居は「穴守稲荷神社が羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立された」(鳥居脇の説明板)そうだ。

GHQは神社を取り壊す際、この鳥居も取り壊そうとした。しかし、ロープで引きずり倒そうとしたところ、ロープが切れて作業員がケガをし、工事を再開すると工事責任者が病死するなど、変事が相次いだ。「穴守さまのたたり」という噂も流れたという。

結局、この鳥居だけは取り壊しを免れて、長い間、空港内旧ターミナル前の駐車場に残された。その後、「昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、(中略)新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされ」たが、「元住民だった多くの方々から大鳥居を残して欲しいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関連企業の協力の下で、現在地に移設された」(鳥居脇の説明板)という。

さて、空港沖合展開事業によって生じた天空橋駅周辺の「羽田空港跡地」も、今後の整備が進むことで、周辺の景色も大きく変貌を遂げることだろう。昔も今も、そして未来においても変わらずに街の様子を眺め続けているのは、海老取川の流れと羽田の大鳥居だけかもしれない。そんなことを考えながら、今回の散歩を終えた。

○筆者プロフィール: 森川 孝郎(もりかわ たかお)

慶應義塾大学卒。IT企業に勤務し、政府系システムの開発等に携わった後、コラムニストに転身し、メディアへ旅行・観光、地域経済の動向などに関する記事を寄稿している。現在、大磯町観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員、温泉ソムリエ、オールアバウト公式国内旅行ガイド。テレビ、ラジオにも多数出演。鎌倉の観光情報は、自身で運営する「鎌倉紀行」で更新。(森川孝郎)

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  • 廃線探訪・鉄道史は鉄道趣味ではそろそろディープな部類ですよ
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