児童文学に学ぶ、“ジェンダー問題” 子どもたちに今、伝えるべきメッセージとは?

6

2021年04月02日 12:01  リアルサウンド

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

リアルサウンド

『わたしの気になるあの子』

 「どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかってスローガン的にかかげてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」というセリフが物議を醸している報道ステーションのウェブCM。好意的に解釈すれば「ジェンダー平等なんて、もはやわざわざ言うまでもなく当たり前に浸透している」ということだったのだろうが、実際問題、浸透なんて全然していないし、若い世代が男女区別をあまり感じなくなってきているのだとしたら、それは不平等に疑問を抱いた先人たちが何度も何度もくりかえし「言う」ことによって、新しい価値観を醸成していったからにほかならない。と、ポプラ社から刊行された小説『わたしの気になるあの子』(朝日奈蓉子)を読んで思う。


参考:【画像】『きみの存在を意識する』、『ライラックのワンピース』書影


■当たり前からこぼれ落ちて見過ごされている人たち


 『わたしの気になるあの子』の主人公・瑠美奈は小学6年生。1年生の弟・たけるの入学式にあわせてやってきた祖父は、たけるを跡継ぎだともてはやし、女性が強い態度に出るのをいやがる、典型的に保守的な老人だ。「今時、こんなじいさん、いる?」と思うほどあからさまな男尊女卑に、冒頭からイライラしてしまうのだけど、よく考えてみれば失言で世間を騒がせている男性たちは、孫どころかひ孫がいてもおかしくない年代だ。瑠美奈のクラスメートでとにかく“女の子らしさ”にこだわる沙耶も、発言の端々に保守的な祖母の影響が感じられる。


 「そんなのおかしい」と強く言う人がいなければ、彼女たちはその価値観を“そういうもの”として受け取ってしまう。瑠美奈は祖父のことがきらいだけれど、沙耶はたぶん、祖母が好きだ。好きな人の言うことは、信じたい。瑠美奈だって、大好きな母や父が反論せずにいることを、覆してまで異議を唱える勇気はない。そうやって、みんな、黙る。黙って、不平等な価値観が脈々と受け継がれていってしまう。


 だが物語ではそこに、詩音が現れる。突然、ボブカットを坊主頭に変えて、スカートではなくズボンを履いて登校してきたクラスメート。“女の子らしさ”から逸脱した詩音は孤立し、いじめに近い仕打ちを受けるけれど、わけも話さず、不機嫌そうに口を閉ざしたまま。そんな彼女に戸惑いながらも、瑠美奈は興味を惹かれ、少しずつ歩み寄っていく。


 詩音が坊主にしたのは、理不尽な校則でしばる女子高の体質に反抗した姉に倣ってのことなのだけど、それを読んだときふと思い出した情景があった。中学1年生のとき、やはり女子校で先生に身なりを注意された先輩が、翌日、坊主頭にして登校してきたのだ。あわてふためく先生たちを見て、先輩は笑っていた。……衝撃を受けた。女の子が坊主になる、という選択肢があること。坊主になったところで、先輩のかわいさとカッコよさはなにひとつ揺るがないということ。そうやって、自分を貫いて戦うことは、誰しも等しく許されているのだということ。そのすべてに。


 作中では、詩音もその姉も、もうちょっと苦境に立たされる。けれど、瑠美奈が詩音に触発されて“自分”を芽生えさせたように、物語に書かれていない場所で、彼女たちに勇気をもらった少女たちはいたはずだ。もちろん、読者のなかにも。


 だから「言う」こと、そして「知る」ことが何より大事なのだ。この世には、当たり前からこぼれ落ちて見過ごされている人たちがいること。自分だって、いつその立場に陥るかわからないくらい、その境界線は曖昧だということを。


■誰もが納得して生きるために必要なもの


 梨屋アリエ『きみの存在を意識する』(ポプラ社)には、人には気づかれにくいさまざまな困難をもった中学生が登場する。言葉を耳で理解するのは簡単なのに、どうしても長い文章を読むことができない子。自分に「性」があることに違和感を覚えている子に、化学物質の入ったにおいに敏感すぎて体調が悪くなってしまう子。


 全部ができないわけじゃない。特定のことだけだから、本人すら「自分の努力が足りない」「我慢が足りない」と責めてしまうし、周囲からは馬鹿だと思われてしまうし、特別措置をとれば「ずるい」と責められる。けれどそうではなく、世の中には思いもよらぬ、どうにもならない困難がさまざまに存在し、最善の選択肢はそれぞれ違うのだと教えてくれる『きみの存在を意識する』だが、「できない人には寄り添いましょう」というのではなく、ずるいと思ってしまう側の気持ちも丁寧に掬いとっているのも、とてもよかった。


 実際問題、輪を乱されて、迷惑をかけられて、自分だって我慢して一生懸命やっていることを、障害だからといって特別扱いされて、免除されているのを見たら、腹も立つだろう。ちゃんと手を差し伸べたいし、“いやな人”になんてなりたくないのに優しくできない、そんな自分に“させられる”ことでよけい、相手にむしゃくしゃしてしまう。どうしてちゃんとできないの? といっそう、責めてしまう。そんな黒い感情に、覚えのある人は多いはずだ。本作は、異なる他者がともに生きることのとほうもない難しさをきれいごと抜きで描き出し、かつ、どうすれば手をとりあえるのかを真摯に問いかけてくる。


 前2作が少女たちを中心に描かれるのに対し、ポプラズッコケ文学賞新人賞大賞受賞作の『ライラックのワンピース』(小川雅子)は、サッカー少年かつ裁縫少年のトモが主人公。とある女の子の大切なワンピースをリメイクする大役と、サッカーの大事な試合が重なってしまい、どちらを優先すべきか迷うところも読みどころ。個人的には、大学で学ぶ夢をあきらめクリーニング職人になったトモの祖父が、結果的にふたつの夢をつなげて、自分に誇れる“今”を生きていた、というエピソードがとてもよかった。誇れるのは、すべて祖父が自分で納得して選んだ道だからだ。


 誰もが納得して生きるためには、女だからとか男だからとか、みんながそうしているからとか、そんな誰かが決めた基準で、選択肢を奪われるようなことがあってはならない。けれどうっかりすれば自分も、勝手な思い込みで誰かの選択肢を奪ってしまいかねない。だから、誰かが訴えかける言葉をこうして物語の形で受けとり、自分の知らない誰かが存在することを知っていかなければならないのだと思う。


■立花もも
1984年、愛知県生まれ。ライター。ダ・ヴィンチ編集部勤務を経て、フリーランスに。文芸・エンタメを中心に執筆。橘もも名義で小説執筆も行う。


このニュースに関するつぶやき

  • 米国民主党左派による世論誘導の賜物。性別が創られたのには意義がある。トランプ劇場によってNHKからアカヒ迄、DS側の世論誘導が明らかになった。
    • イイネ!0
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(3件)

前日のランキングへ

ニュース設定