「60歳までは生きられない」全身火傷の男性が生還後に目の当たりにした“現実” 一度は死を考えた彼が人生を謳歌できるようになるまで

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2024年06月17日 08:30  ORICON NEWS

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火傷を負い、切断するしかないと言われた両足。救命チームの現場の判断で残せるよう手術が行われた
 今から22年前、ガスボンベのガス漏れが原因の爆発事故に巻き込まれ、全身40%の火傷を負った濱安高信さん。当時の濱安さんの深刻な状態から奇跡的な生還、退院にいたるまでの様子はテレビ番組でも取材され話題に。植物状態から、無事に回復できたものの、退院後の暮らしは「何度も自殺を考えるほどだった」という。SNSで自身の辛い経験を投稿するにいたるまでにどんな軌跡があったのかを語ってくれた。

【動画カット】これぞ奇跡…「歩くのは無理」と言われた濱安さん、骨と皮だけになった細い足で階段を降りれるように

■寝たきりから少しずつ体が動いていく喜びと苦しみ「最初は1日の食事として氷の一欠片を溶かして飲むことから始まった」

 火傷が身体の30%を越えると危険だと一般的に知られていますが、火傷を負ってしまった部分によってだいぶ変わります。腕や足の火傷の危険度は幾分下がりますが、心臓近くや内臓のあたりに30%以上の火傷を負ってしまうとかなり厳しいと思われます。火傷には3段階のステージがあり、一番重いステージ3の火傷は、壊疽(えそ)という皮下組織が死滅してしまう場合が多いので、そこをどれだけ治せるかが生死を分けることになります。私は両足がステージ3で、このまま(足を)残していたら危ない状態でしたので、上層部の方から救命チームに「命を助けるには両足を切断するしかない」との判断が伝えられたそうでした。しかし、20歳のこれからの青年の両足を切ってしまったら将来を絶望してしまうだろうと、救命チームが判断を下した医局の上層部に逆らって、両足を残す手術をしてくれたおかげで今も(細いですが)足が残っています。

 当時、ご飯を自力で食べる映像が放映されましたが、そこまでは毎日毎分毎秒を必死に生きていました。最初は氷の一欠片が1日の食事で、溶かして飲むことから始まりました。ナースコールを押せる力が無かったので、始めのうちは動かせる舌をチッと鳴らしてナースコール代わりに看護師さんに合図を送っていました。動かせるのは指先からで、腕が動かないので、ナースコールを手に固定してもらい呼べるようになるまで恐怖との闘いでした。

 夜になると看護師さんの数が少なくなってしまいます。人工呼吸器は溜まった淡を取るために意外と簡単に外れてしまい生命維持装置が「ビビビ」と大きな音で知らせてくれますが、一歩遅れると手遅れになってしまうことがあるので、夜は寝ずに、朝方、看護師さんが増えて安心できるまで起き続けていました。植物状態の時に死ぬほど辛い経験を味わったので、今度は身体が徐々に動く喜びが大きく、少しでも何か動かせたり、自由になるだけで嬉しく感じていました。暗闇の時期から、目を覚まして久しぶりに太陽の陽射しを浴びた時、これまで当たり前だと思っていた全てのことが実は有難いものなのだと思うようになりました。

 当時のテレビ番組の放送では、別の病院へ転院して命が助かり、そこからさらに転院するまでが映されていましたが、その後のリハビリの方が大変でした。寝たきりの状態が長かった私はベッドの角度をあげていくだけで、すぐに貧血になってしまうほど、体重を支えることが出来ずにいました。

■退院後の周囲からの心ない言葉に「何度も自殺をしようと思った」

 そこからは血の滲む努力という言葉のごとく、血だらけになって歩く訓練をしました。総合リハビリテーションセンターの担当医からは「生涯車椅子の生活です」と言われてしまいましたが、命懸けで助けてくれた母や医療関係者の方にもう一度歩ける姿を見せたくて、リハビリの時間以外も諦めないで歩行訓練をしました。
これまで数えきれない程の多くのリハビリ患者を診て来られた義肢装具士の先生も「ここまで回復した人は1人しかいなかった」と仰っていました。

 辛かったのは、寝たきりの時にできてしまった床ずれが、両足や頭に出来てしまったことです。この床ずれが歩くたびに、膿ができたり、出血したりして1番の回復の妨げになってしまっていました。とはいえ、諦めるわけにはいきません。本当にもう一度だけ母に歩けるところを見せてあげたかったのです。

 先生からの「もうあなたはベッドの上の生活で立ち上がることは出来ませんよ」や「歩けるようにはなりません」などの言葉も悲しかったです。経験則や親切心から言ったのかもしれませんが、何気ないその一言でやる気を潰してしまうこともあります。それでなんとか自分の可能性を信じることで、苦しみを乗り越えることができました。寝たきりの状態から起き上がれるようになったり、握れなかった手が握れるようになったり。回復出来ることに幸せを感じて一つ一つ出来ることをやるだけの毎日でした。

 退院後、周囲から足に付けている装具が目立ち指をさされたり、黒くケロイドになってしまった腕を見て「気持ち悪い」とか「汚い」などの言葉で心が折れることもありました。せっかく命を助けてもらえたのに、こんな言葉を毎日受ける人生では幸せになることなどあり得ないのだと、何度も自殺をしようと思いました。

 そういったことを乗り越えられたのは、ずっと諦めないでいてくれた両親のおかげです。また、リハビリ通院時に階段を1人で一段ずつ登っている私の腕を支えて上まで一緒に上がってくれた女性の存在も大きかったです。最初は交代で来られた私服の看護師さんなのかと思っていましたが、実際には入院されているご家族か知人の面会に来られていた一般の方でした。「汚い」と言われ続けていた私の腕を持って階段を一緒に登って下さった名前も分からない優しい方のおかげで、まだ生きていて良いのかなと思えるようになれました。その出来事がなければ差別の言葉を耳にしたくないと家に引きこもってしまっていたと思います。

■事故後の内面の変化 苦手だった勉強に挑戦し、念願の大学生に

 火傷の前後では私自身の性格も全く違ったものとなっています。600人分もの数え切らないほどの多くの方の献血で命を助けていただき、元の自分にあった血液は全て入れ替わりました。

 それで性格が変わったのかは立証のしようがありませんが、優しくしてもらったり、命を助けてくださった方が目の前の人かも知れないと思うと、人に優しく接することができる人でありたいと思うようになりました。

 特に障害を持ったり、年配であったり、社会的弱者と呼ばれている方へは何か自分にできることはないか? 役に立てることは何か? を考えるようになりました。これは自分が障害者になってから、優しい方にたくさん助けてもらったからこそ変化した心の持ちようだと思います。

 植物状態となった時、「今夜亡くなる」と告げられてから、色々なことに挑戦してこなかった後悔がものすごく大きかったので、これからは挑戦と人への感謝を忘れずに生きようと決めました。その1つが勉強です。もともと勉強が苦手で高校を中退してしまったのですが、自分への挑戦として、誰もが聞いたことのある大学に入りたいと決意して、勉強をし直した結果、大検(現在の高卒認定試験)に合格。現在は、慶應義塾大学の通信で経済学部に入学し、現役の大学生になることができました。

 事故から22年が経過しましたが、当時は「60歳までが生きられる限界だろう」と先生に言われました。残り18年の命だとすると無駄に過ごせる日など1日もありません。皮膚移植をした両足の装具は歩き過ぎると擦れて破けてしまい、出血し、歩けなくなってしまうこともありますが、ご飯もちゃんと食べられますし、体調は良いほうだと思います。出来る限り助けていただいた命を大切に長く生き抜いていこうと思っています。

 怪我や病気になってはじめて健康は大切なのだと、バカな自分はいつも思い出させてもらっていますが、今生きていることに感謝を持って暮らしています。

■SNSで事故当時の自分を思い切って投稿 多くの反響に驚き

 最近はSNSの投稿もはじめました。生きた証として日常をSNSに残す意味もありますが、何より、“障害を持っていたり、不自由な身体でも前向きに頑張っている人間がいるのなら、私ももうちょっとやる気を持ってみようかな”という気持ちに繋がってほしいというのが1番の思いです。

 私の事故当時の様子を投稿した動画がTikTokで360万回以上再生されるなどの反響は、これまで火傷で「気持ち悪い」と避けられてきた自分にとっては驚きです。
私の投稿を見てくださった方々に「頑張る勇気を持てた」「実は自殺を今日考えていたけど濱安さんの話を知って死ぬことをやめました」のお言葉やメッセージをもらえていることは何より嬉しく思っています。辛い過去を思い出して投稿することは、勇気がいることで、当時の映像を見て思い出し泣きながら、投稿したこともありました。しかしながら、誰かにとっての希望の欠片や生きる勇気に繋がっている事実は、私にとって言葉にならないほどの幸せです。

 私にとって生きる意味は、動かせる身体がある限り、どんなことにも悔いなく挑戦すること。ただ、漫然と日々を過ごすことは、生きていないのと同じように思っています。

 そのためには人と比べることをなくした方が幸せだと思います。こちらは筑波大の名誉教授をされていた方のお言葉ですが、どんなにすごいと思う人もそうでないと思う人も99.5%の遺伝子暗号では同じになっているそうです。人間の設計図を書かれた時点で特定の1人だけに差をつけるようなことはあり得ないので、そのたったの0.5%の違いを比べて「あの人は○○だから良い」とか「こちらは△△だからダメ」とか思い込まないでご自身にとって幸せを追求して、最後まで生き抜いて欲しいと思っています。

 人生ですから、辛いことや悲しいことも必ず起こりますが、どうか気持ちが落ち込むことだけに時間を費やさないでほしい。出来るだけ幸せを感じて生きて欲しいと願っています。

PROFILE/濱安 高信(はまやす たかのぶ)
二十歳の時に重度の火傷を追い、余命0日の宣告をうけるも、 600名ほどの輸血により奇跡的に助かる。車椅子から立ち上がれないと医師から告げられたが、リハビリにより装具を着けて歩けるように。書籍『余命1日の宣告』(パブフル)著者。高等学校卒業程度認定試験合格を経て、現在は慶應義塾大学経済学部通信部在学。
命の大切さを伝える講演活動も行っている

このニュースに関するつぶやき

  • 20歳のときやけど?それから大検?高校も行かずに20歳まで何やってたか知らないけど、やけどしなきゃ大学に行ってないんだからやけどに感謝しないと。
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