斎藤佑樹が絶対に泣かないと思っていた鎌ヶ谷でのラスト登板で涙 「幸太郎のせいです」

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2024年07月01日 10:40  webスポルティーバ

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連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第57回

 2021年10月3日、鎌ヶ谷スタジアム──この日、斎藤佑樹はファイターズのユニフォームを着て、鎌ヶ谷で投げた。鎌ヶ谷スタジアムでの最後の登板だった。プロ11年目の斎藤はこの2年、一軍での登板機会がなかった。つまり引退間際の彼の主戦場はこの鎌ヶ谷で、現役引退を決めた斎藤にとって、この場所には特別な想いがあった。

【鎌ヶ谷でのラスト登板】

 プロ野球選手ですから一軍で投げなければダメなんですよね。つまりファイターズでは札幌で投げていないとダメなんだと、当然ながらずっと思っていました。でも残念ながら、僕は二軍......鎌ケ谷で投げることが多くなってしまいました。だからこそ、僕の心のなかの鎌ヶ谷にはいろんな想いがあります。たくさんの思い出が詰まった鎌スタで最後、登板の機会をいただけたことはものすごくありがたいことでした。

 あの日の登板は6回から、バッターひとりと決まっていました。5回が始まるとブルペンで準備を始めます。たぶん、40球近く投げたと思います。投げ終わった時、(柿木)蓮がタオルと水を手渡してくれました。リリーフピッチャーがブルペンを出て行くときって、他のピッチャー陣がつくってくれた花道を通り抜けて、拍手で送り出されるんです。ああ、これも今日で最後なんだなと思いました。

 それでもわりと冷静だったのに、マウンドに着いた途端、めちゃくちゃ感情を揺さぶられてしまいます。(早実の後輩、清宮)幸太郎のせいです(笑)。僕がマウンドに上がったら、幸太郎が泣きながら歩み寄ってきて、耳元で「楽しんで投げてください」って言うんです。このまっすぐな言葉に、絶対に泣かないと思っていたのに、涙が溢れてきちゃいました。

 幸太郎は試合が終わってから「結果に追われるスポーツだからこそ、最後くらいは思い切り楽しんでほしいなと思ったんです」と言っていました。ホント、幸太郎らしい言葉ですよね。引退することを決めてあらためて思ったのは、僕はいろんな人に恵まれたな、ということでした。プロで11年やってこられたのはそういうたくさんの人が周りにいてくれて、いろんな形で支えてもらっていたからだと、つくづく思います。

【現役引退を決断した理由】

 その約2週間前、僕は平塚でのベイスターズとの二軍戦(9月20日)で2番手として投げています。その日は試合前から特別に右肩が痛くて、右腕が肩のラインより上に上がりませんでした。上げようとすると痛いし、シビれてくる......そんな状態でも、僕に投げないという選択肢はありませんでした。

 プロ11年目の2021年は右ヒジを痛めていたのに契約をしてもらって、もし結果が出なかったら野球を辞める覚悟は持っていました。だからどんな形であってもシーズンの最後まで投げ続けなければいけないし、それがチームに対する僕の最低限の責任だと思っていました。

 2番手として3回からマウンドに上がったんですが、1イニング(21球)を投げて、覚えているのはストレートのスピードが意外に出ていたということです。痛み止めを飲んだらそれが効いたのか、ブルペンであんなに痛かった右肩がマウンドへ上がったら痛くなくなったんです。しかも平塚の球場はマウンドが軟らかくて土が掘れるから、体重が前に乗りやすくなって腕が振れる感覚になるんです。そのせいでスピードも球場の(スピード)ガンで138キロまで出て、「おっ、今日は行けそうだな」って、ちょっとだけ思っちゃいました。

 でも、そういうときこそ丁寧にいかなきゃいけないのに、腕が振れる分、コントロールがアバウトになって......そんなことを何度も繰り返していたんですけどね(苦笑)。たしか1点を取られたのかな(知野直人、田中俊太にツーベースヒットを打たれた)。試合後、病院で検査を受けた結果、右肩の関節唇と腱板が損傷していると言われて......なんとなく、そういう診断が下るんだろうなということはどこかで覚悟していました。

 ただ、気持ちのどこかで画期的な治療法があるんじゃないか、なんて期待する自分もいて......右ヒジの靱帯を手術せずに治せると言われたときのように、僕のこの肩をどうにかしてくれるんじゃないかという期待を一瞬、していました。

 でも、そんな魔法のような治療法があるはずもなく、すぐに、やっぱりダメなのかと......それでも頭の半分はそうやってもう無理だなと考えながら、もう半分では、シーズンが終わったら1カ月、地道にストレッチをして治療に専念すればどうにかなるのかな、なんてことをやけに現実的に考えていた自分もいたんです。

 希望と絶望の気持ちが行ったり来たりするなかで、最終的に引退のほうへ振り切れたのは(当時のファイターズのGMだった)吉村(浩)さんと話したからでした。何しろ吉村さんは魔法使いですから(笑)、何か画期的な僕の生かし方を提案してくれるかな、なんて人任せなことを期待していたのかもしれません。

 でも、結果を出せなかったら辞めることを覚悟してそのシーズンの契約をしてもらったというところに立ち返れば、自分で決めなきゃダメだと腹を括ったんです。だから吉村さんの顔を見ていたら、自然と「現役を引退します、今までありがとうございました」と伝えていました。

【最後の1年は野球の神様からのご褒美】

 引退を決めて、最初に浮かんだのは次に何をやるべきか、ということでした。ふつうなら過去を振り返ったり、懐かしんだりするんでしょうけど、そういう感じじゃなかったんです。もちろん野球人生、悔いはいっぱいありすぎて......そのいっぱいは、大きいのがいっぱいじゃなくて、本当に細かい、小さいことがいっぱい、という感じでした。

 ボタンを掛け違えてしまった感覚があったとするなら、最初にズレたのは夏の甲子園が終わって行ったアメリカ遠征です。あの時、技術的な感覚がズレてしまった気はしています。

 夏の甲子園の僕は、変化球はほとんどがスライダーでした。フォークはたまに投げるくらいだったのに、アメリカではフォークばっかり投げたんです。それはフォークの調子がものすごくよかったからでした。甲子園のマウンドはすごく軟らかいのに、アメリカのマウンドって土が硬いじゃないですか。その硬いマウンドに適した投げ方をすると、フォークがやたらと落ちてくれるんです。それでフォークの味を覚えてしまって......でも、いま思えば、それが落とし穴でした。

 僕のなかでは、「調子いいじゃん」ってくらいの感じだったんです。フォークも武器にできる新しい自分を見つけた、くらいに思っていました。甲子園ではストレートとスライダーだけで勝った、でもアメリカでさらにフォークを覚えた。大学からプロへ行くためには新しい変化球を増やさなくちゃいけないと思っていましたから、すごくうれしかった。でも、じつはあれで自分のリズムが変わって、歯車がズレ始めていたんだろうなと今ならわかります。

 今はトラックマンのようなツールのおかげで、いろんなデータを見ることができるようになりました。そこで僕の得意球は何だろうというふうに見ていたら、フォークの回転数と回転軸がすごくいい感じだという数字が出ていました。そうか、フォークがいいのか、と思って投げていたら、いい数字が出たときって肩に負担がかかる感じがあるんです。

 そういえば......と思い返してみたら、フォークを落としにいくための投げ方をして、実際にすごく落ちているときって、アメリカの硬いマウンドに適した、負担のかかる投げ方をしていました。トラックマンのデータがなかったら気づかなかったことかもしれませんけど、それがいっぱいあった小さな悔いの最初だったのかもしれません。

 それでも最後の数年は本当に楽しく野球に向き合うことができました。とくに2021年は自分で考えて、投げて、トライアンドエラーで、でも、こうやったら打ちとれるんじゃないか、こうすれば結果は違ってくるんじゃないかということを、データを見ながら、あるいは自分のフォームを撮影して動画で見ながら、いろいろ考えてやってきた感じはします。それが頭の中で整理できたときには身体が言うことを聞かなくなっていて......すべてを合致させるのは難しいものですね。

 とはいえ、僕はやり尽くしたというふうには思っていました。本当は2020年のオフも、そういう気持ちになれていたんです。それが、さらに1年、余計にチャンスをもらえた......それは野球の神様からのご褒美だったのかなって、今はそんなふうに思っています。

*     *     *     *     *

 鎌ヶ谷のファンに別れを告げた斎藤は、札幌のファンにも想いを伝えるべく、引退試合に臨む。2021年10月17日、札幌ドームのバファローズ戦にリリーフとして登板、試合後には引退セレモニーが予定されていた。その斎藤を最後のマウンドへ送り出すのは栗山英樹監督だった。斎藤は栗山監督の言葉を聞いて、札幌でも涙で頬を濡らすことになる。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している

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