甲子園出場ゼロの無名の進学校、入学当初は球速110キロ...今永昇太はいかにしてメジャーリーガーへと上り詰めたのか

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2024年07月02日 10:31  webスポルティーバ

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今永昇太の原風景〜無名だった北筑高校時代(前編)

 福岡県北九州市八幡西区に所在する北筑高校。目前にそびえる皿倉山、権現山、帆柱山、花尾山からなる帆柱連山が生徒たちを優しく見守る。標高622メートルの皿倉山展望台から一望できる市内の景色は「100億ドルの夜景」と称され、2003年には奈良市の若草山、山梨市の笛吹川フルーツ公園と並び「新日本三大夜景」に選定された。校歌も「皿倉山の青あらし」から始まるなど、自然の息吹を身近に感じながら3年間を過ごすことができる。

 今永昇太は、そんな緑に囲まれた環境のなかで育った。横浜DeNAベイスターズのエースとして活躍したのち、今季からシカゴ・カブスと4年総額5300万ドル(約84億円)、最大で5年8000万ドル(約126億円)とも言われる巨額契約を結び、メジャーデビューから先発9試合で防御率0.84という歴代最高記録を打ち立てた。今や故郷の夜景と同様にまばゆい光を放つ左腕は、どのような高校時代を送り、その土台を築き上げてきたのだろうか。

【入学時の球速は110キロ程度】

 北筑は1978年の創立以来、甲子園に出場したことはない。ラグビー部や陸上部が使用する第1グラウンドと、野球部、サッカー部が使用する第2グラウンドがあるなど、部活動は盛んだが、県立の進学校として勉学にも力を入れており、19時30分には完全下校となる。今永が卒業したあと、2014年夏の福岡大会ではノーシードから初めて決勝に駒を進めたが、九州国際大付に16対0と私学の分厚い壁に阻まれた。

 県立高ゆえ、通学区も限られており、そのなかでもトップクラスの実力を持つ選手はほかの強豪校へと進む。今永も永犬丸(えいのまる)中学時代は、軟式野球部で3番手投手ほどの実力。2009年、北筑に入学した頃は、腕立て伏せ10回もできず、球速も最速110キロほどだったという。

 たが、2011年4月から野球部の副部長となった白石始(はじめ)さん(現・部長)は、最上級生になった今永を見て「びっくりした」という。

「衝撃を受けましたね。140キロちょっと出ていましたよ。軽く投げるのに、球がものすごく伸びるんです」

 白石さんは、2003年まで同校野球部の監督を務め、八幡高に転任したあと、2008年より北筑に戻り、2011年から副部長として野球部のグラウンドに帰ってきた。監督時代に、今永と同じ左腕で法政大学に進んだ選手がいたが、「その比じゃなかった」と言う。
 
「ヒジの使い方がうまいんですよ。ああいう柔らかさは教えてできるものじゃありません。柔らかすぎて故障するんじゃないかと思うぐらいで、あれは天性のものです。2年の夏に1回戦で負けて、先輩たちに申し訳ないという気持ちもあって、考え方が変わったと思います。一生懸命練習していましたね」

 4、5月に行なわれた北九州市長杯で3試合連続完封の離れ業を演じ、4試合39回を投げ、わずか1失点。マウンドで圧倒的な存在感を放つ今永は、白石さんが見てきた選手のなかで間違いなく一番の素材だった。

「キャッチャーが捕れないんです。それで負けた試合もありました。打たれたらカッとなるタイプで、ちぎっては投げ、ちぎっては投げになるので、バッターからしたらタイミングが取りやすいじゃないですか。だから、間の取り方を言ったぐらいで、ほとんど何も指導していないです」
 
 ただ、甲子園には遠かった。初戦コールド負けに終わった2年夏の雪辱を期して臨んだ3年夏。17年ぶりに県大会へ進出し、4回戦の小倉戦で144キロを叩き出すも、1対2で逆転負けし、高校野球生活に幕を下ろした。

「野球は本当に真面目でしたね。ただ学校のなかでは、ひと言で言うと、調子に乗って遊んでいるタイプでした。今みたいに『投げる哲学者』というイメージはないです(笑)」(白石さん)

【高校2年から理系クラスを選択】

 今永が2年時の担任だった男性教諭が、学校での様子を明かしてくれた。

「教師に対しては真面目で礼儀正しい、そういう接し方をする生徒だったという印象です。ただ、彼の同級生から聞いたのですが、クラスではムードメーカー、そしてギャグメーカーで、とにかくギャグを連発して、もうみんな大笑いだったようです。随分態度が違うなと思っていましたね(笑)」

 北筑は2年から文系、理系にクラスが分かれるため、1年の2学期頃にはどちらかを選択しなければならない。今永は理系クラスへ進んだという。

「私は数学を受け持っていたので、7月の三者面談で、何で理系に来たのか、彼に聞いたことがあるんです。すると『将来の進路、就職のことを考えて理系を選びました』と言っていました。1年生の時からプロを考えていれば、きっと理系は選んでいなかったでしょうね。12月の三者面談では、完全に野球で先に進むという感じでしたが、3年生でも理系のままでした」
 
 同じく副担任だった女性教諭は「授業では絶対に寝ることはありませんでした」と当時を振り返る。

「真面目か? と聞かれたら、そうではありません。だけど、ちゃんとしないといけないと意識しているような真面目さでした。当時の監督さんからは『おまえはずっとエースじゃないといけない』と言われていたようなので、いま思うと、意識的にちゃんとしていたんだろうなと思います」

 学内でもエースたる振る舞いを忘れなかった。3年冬。自身が駒澤大学への推薦入学が決まったあとも、一般受験を控える友人たちを励ましていたという。今年4月、半裸で応援する熱狂的な男性ファン6人に「S」「H」「O」「T」「A」「!」と一文字ずつ入った特製Tシャツをプレゼントする粋な計らいを見せたが、そういう気配りは高校時代から変わらなかった。

「エースだからといって、お高くとまっているということもなく、黙っていても誰かが自然と寄ってくる感じでした。最後の夏も、近くの球場で試合があったので、(今永と同じ)3年生の生徒たちが学年主任に直談判して、歩いて球場まで応援に行ったのを覚えています。その試合では、今永が投げて、今永が打って試合を決めていました。みんなから愛されていましたね」

 そう語る白石さんは、海の向こうにいる教え子と今でも連絡を取り合っているという。

「メールをしたら、返信が親指を立てた"グッド"の絵文字ばっかりなんですよ。なめていますよね(笑)」

 そして、最後にこう続けた。

「(自身の)長い野球人生のなかで、お目にかかれただけでありがたいです。一生に一度、あるかないかでしょう。私学にだって、あんなピッチャーはいませんよ」

 恩師や仲間に愛された3年間。今永昇太は、米国でも変わらず愛され続けている。

後編につづく>>

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