パリ五輪まで1カ月 山口香が考えるオリンピックの今とこれから「スポーツのいいところは、『ああいう世の中だと生きやすい』と思えるところ」

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2024年07月02日 17:10  webスポルティーバ

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「オリンピックの意義を考える」山口香インタビュー後編

 フランス・パリで行なわれる今夏のオリンピックは、開会式は7月26日に開会式を迎える。前回の東京五輪の際には開催意義が日本国内で大きな議論になり、さまざまな不祥事や醜聞が次々と露見したことは、今も記憶に新しいが、オリンピックの存在意義は何なのか? 札幌五輪招致において、日本人が「No」と突きつけたのはどのような理由があったのか? JOC(Japanese Olympic Committee:日本オリンピック委員会)理事を2011年から10年間務めた筑波大学教授の柔道家、山口香氏は、われわれが目にする競技の裏にあるオリンピズム・オリンピックムーブメントの地道な啓蒙の濃淡にあると分析する。

【JOCの問題は日本社会の縮図】

――オリンピズム・オリンピックムーブメントは、近代オリンピックが始まった当初から掲げてきた理想があったと思います。ただ、その理想も時間とともに変わってくるのが当然だとも思うのですが、その議論が置き去りになったまま、商業イベントとしての側面のみが肥大していった印象があります。

山口:オリンピックムーブメントがなければ、ほかのエンターテインメントと同じになってしまうんです。だからオリンピックは「各競技の世界選手権やワールドカップとは違って、もっと崇高な理念のもとに実施しています」と主張しながら連綿と4年に一度開催してきたわけです。ただ、ある時期以降はエンターテインメント色がかなり前面に出ることになった結果、現在ではその理念が伝わりにくくなっている、というのが私の実感です。だから、皆さんから「そんなにお金をかける必要はないでしょう」「今やることはもっとほかにあるでしょう。優先順位が違うんじゃないですか」と言われてしまうと、反論できないわけです。

 札幌招致の気運が盛り上がらなかったことは、ある意味ではオリンピックに対する「No」ということですよね。パリ五輪が始まると日本でも盛り上がると思いますが、それはオリンピックだからというよりも、エンターテインメント性の高いスポーツ大会として見て感動しているからだと思います。だから、観戦する人々にとってオリンピックは、ワールドカップなどの世界大会と何ら変わるものではないんですよ。

――オリンピックの商業主義化は以前から指摘されていることですが、3年前の東京五輪で拒否反応が大きくなったのは、パンデミック下での開催という状況に加えて、IOC(International Olympic Committee:国際オリンピック委員会)の功利的な面が露骨に見えたからという理由も大きいように思います。

山口:だからこそ、私たちスポーツ関係者やJOC、アスリートたちは、たとえきれいごとであっても、ムーブメントを続けていかければならないんです。今後10〜20年、あるいは私の生涯でオリンピックがなくなることはないかもしれませんが、このままだと持続可能とは言えないと思います。なぜかというと、今のオリンピックは予算規模などを考えると、もはや大都市でしかできない状態で、パリの次はロサンゼルス、その次がブリスベン。その後はまだ決まっていないですよね。立候補する都市がどんどん減っているのも、「別に自国で開催しなくてもいいんじゃないか」と考えている人が多いからではないでしょうか。

【オリンピズムの普及啓蒙の価値と意味】

――JOCとIOCの関係で言えば、正直なところJOCは、まるでIOCの上意下達機関のような印象もあります。というのも、東京五輪の際には五輪憲章規則50(政治的プロパガンダの禁止などを定めた項目)の解釈について、選手たちの意思表示をどこまで許すのかという観点からイギリスやアメリカ、オーストラリアなどの各国委員会はIOCに異議を表明して闊達な議論を行なっていたようですが、JOCは唯々諾々とIOCの決定に従っているようにも見えました。

山口:日本はそもそも、権威に弱いですからね。だから何度も言いますけれども、それは日本社会の縮図なんです。スポーツの現場なら弱小チームが優勝候補を倒すジャイアントキリングだって起こりえますが、そこで活躍した人たちが組織に入ってヒエラルキーのなかに組み込まれてしまうと途端におとなしくなってしまう、ということが日本では残念ながら往々にして発生します。だから多分、日本の社会が変わらなければスポーツ組織も変わらないし、若い人たちも社会で活躍できない。

 スポーツのいいところは、「ああいう世の中だと生きやすいだろうな」と思えるところですよね。お互いにファーストネームで呼び合い、一軍やレギュラーの選手はリザーブ選手に敬意をもって接する。つまり、無駄な選手はいないという考え方です。だけど、日本の社会は「上の人たちだけがんばってください」という雰囲気だから、そもそもの発想からして違っています。

――近年ではバレーボールの「監督が怒ってはいけない大会」など、スポーツのトレーニングや競技参加の雰囲気も少しずつ変わりつつあるようですね。

山口:そうやってスポーツが変わっていくことで、じわじわと社会にも影響していく。スポーツが自分たちの姿を見せていくことによって、やがて社会も変わっていけばうれしいですよね。

――スポーツが世の中に与える影響をオリンピックに即して言うのならば、オリンピックムーブメントやオリンピズムの普及啓発、ということなのでしょうね。

山口:そうです。だからオリンピックは、世界のさまざまなスポーツが一堂に会し、世界中の人々を巻き込んで行なうイベントであるところに意味があるんです。

 たとえば今回のパリ五輪では、イスラエルとパレスチナの問題にどう対応するのかということや、あるいは個人資格参加とはいってもロシアの選手が出てきて、ウクライナの選手と同じ競技場に立つ場合もありえるでしょう。オリンピックはそれにどう向き合って対応するのか。予断をもって語ることはできませんが、きっとさまざまな難しい状況に直面すると思います。当事者の選手たちや他国の選手たちはもちろん、見る側の私たちはそれをどう受け止めるのか。今の世界について考えるための、ある意味でとてもいい〈教材〉がそこで示されると思います。

 開会式はセーヌ川というオープンな場所で行なうことが決定していますが、フランスは自国の誇りにかけても安全を徹底して確保し、細心の警備体制を敷くでしょう。その張り詰めた緊張感や重い責任感は、コロナ禍で東京五輪を経験した私たち日本人だからこそ、なにか感じることができるものはあるはずです。そんなふうにパリ五輪が私たちに見せてくれる〈教材〉から感じ取ることができるものを、解説してくれる人が出てくるといいなと思います。

 そして、これからいよいよオリンピックが近づいてくると、誰が選ばれたとか金メダル候補だということに大きな注目が集まり、競技が始まると「メダルをいくつ取った、日本の選手たちは皆がんばった、感動した」というニュースで埋め尽くされるでしょう。

 その一方で、このままだと日本でオリンピックが開催されることは未来永劫ない、とも私は思います。札幌五輪の招致断念を見ればわかるように、世間の人々はオリンピックに対する反感や嫌悪というよりも、「自国ではいらない」と言っているわけです。それって、ある種のオリンピック否定じゃないですか。本当にいいものなら、もっと身近で見たいし経験したいと思うでしょうから。これがたとえば、サッカーやラグビーのワールドカップならどうでしょう? 招致の機運はもっと盛り上がるだろうと思いませんか。だから、こんなにオリンピックが好きな日本人が札幌に「No」と言ったことの意味、つまり、オリンピックムーブメントが充分に広く浸透していないことの重みを、JOC関係者の方々にはしっかりと受け止めていただきたいですね。

【これからのオリンピック像】

――JOCなどの組織の意思決定は、これは社会全般に言えることなのかもしれませんが、もっと若い人々の手に委ねていったほうがいいのでしょうね。そうしないと、いろんなものが刷新されていかないのかもしれません。

山口:そこでもやはり、スポーツはいい例を見せてくれていますよ。今ではサッカーや野球もそうですが、スケートボードなどのアーバンスポーツで活躍している若い子たちは、世界と日本の垣根なんておそらく意識していないと思いませんか? 私たちの時代のような「世界の舞台で挑戦するんだ」という必死の思いは特になくて、ちょっと国境をまたいでみた先にたまたま世界の舞台がありました、くらいの気軽さで、しかもそこで戦う人たちと気さくに仲間になっていくように見えますよね。あの子たちは世界と仲良くするとか国境を越えるとか、わざわざ言う必要がないわけです。それが当たり前だからです。そういう人たちがリーダーになると、きっと日本の組織や社会も変わっていくでしょうね。

――その話をオリンピックに引き戻すと、大会のあり方も変わっていかなければならない、ということでしょうね。たとえば複数都市開催なども視野に入れていかなければ、先ほどの話でも出てきたように、現状の方法だともはや持続可能ではないでしょうから。

山口:パリ五輪でもサーフィンはフランス国内ではなくタヒチで行なうそうなので、IOCは今の状態から飛び越えていくための伏線を少しずつ敷いているのかもしれませんね。

 だからそういうもの、既成の制度を超えてゆく力がスポーツにはあるんです。そして、そうやって安全であることを皆が享受できる社会っていいね、と感じられることがオリンピズムであり、それを伝えることがオリンピックムーブメントなんですよ。でも、そのオリンピズムやオリンピックムーブメントはただ競技を見ているだけではわからないから、説明しなければいけない。今の日本はそうなっていますか? その方法を考えて伝えていくのがIOCやJOCの役目であり仕事なんです。

――それを提示し、理解を促進していくことがIOCとJOC、そしてスポーツ界にできるのかどうか、ということですね。

山口:やってくれるであろう、と期待をしたいと思います。「スポーツは力がある」「スポーツには夢がある」という人はスポーツの世界にもたくさんいますよね。ではその力や夢とはいったい何なのか、具体的に言語化してほしいんですよ。ふんわりとした雰囲気だけを語るのではなく、その意味するところをきっちりと示して問いかけることができるようになれば、聞いている側も理解できますよね。その理解の共有が、スポーツが文化として定着しているということです。その意味では、欧州の豊かなスポーツ文化と比べると、日本ではまだまだスポーツが文化として定着していないように思います。その一環であるオリンピックムーブメントの普及や理解も、これからの大きな課題でしょうね。

【Profile】山口香(やまぐち・かおり)/筑波大学体育系教授。現役時代は柔道52kg級の日本代表として多くの国際大会に出場し、1984年ウィーン世界柔道選手権優勝、1988年ソウル五輪で銅メダルを獲得。現役引退後は日本オリンピック委員会在外研修制度で1年間イギリスへ留学するなど見識を高め、指導者、大学教員の道に進む。一方で2020年6月まで10年間務めた日本オリンピック委員会理事をはじめさまざまな団体・協会で要職を務め、女子選手、日本のスポーツ環境の改善に尽力。東京五輪・パラリンピック時は「中止すべき」と意見を明言する一方、東京大会を取り巻くさまざまな課題点について積極的に発言を行ない、問題提起を行なってきた。

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