IT訴訟解説筆者が考える「セクシー田中さんドラマ化」問題と破綻プロジェクトの共通点――原因と再発防止案は?

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2024年07月03日 07:10  @IT

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 IT訴訟事例を例にとり、システム開発にまつわるトラブルの予防と対策法を解説する本連載。今回は特別編として「セクシー田中さんドラマ化」問題を取り上げる。「セクシー田中さんのドラマ化」を1つのプロジェクトと捉え、出版社&原作者をIT紛争でいうところのユーザー企業、テレビ局&脚本家をベンダーと位置付けてみると、ITプロジェクトの破綻と類似の原因が浮かび上がってくる。


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 契約書の内容や締結時期の不適切さ、プロジェクトスタート前の認識のすり合わせ不足、プロジェクト進行中のコミュニケーション不足、トラブルの予兆があった段階での立て直し策の甘さなど、プロジェクト破綻の原因となる事象と本来あるべき姿について、IT紛争の回避と解決のプロフェッショナルであり、IT小説のクリエーターでもある細川義洋氏に解説してもらう(編集部)。


●「セクシー田中さんドラマ化」問題概要


 2024年1月29日、漫画家の芦原妃名子さんが自ら命を絶たれました。本稿を書くに当たって代表作である『セクシー田中さん』を全巻拝読し、登場人物に寄り添い、内面を丁寧に描く姿勢に、創作者の一人として敬意を抱かざるを得ませんでした。芦原さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。


 なぜ芦原さんは死を選んだのか。その真因は分かっていません。ただ芦原さんは、「セクシー田中さん」のドラマ化を巡り大きな精神的負担を強いられ、さらに同ドラマの1〜8話までの脚本を書いた脚本家のSNSへの投稿に大きく傷つけられたことは確かなようです。無論、脚本家の投稿は芦原さんを非難するものでも中傷するものでもなかったのですが、どう受け取るかは受け取り手の心次第でもあり、大いに残念なことだったといわざるを得ません。


 この事件がSNSでも大きな話題となったため、ドラマを制作した日本テレビと原作の出版社である小学館はおのおのに調査し、ほぼ同時に調査報告書を公表しました。


 ドラマ自体は好評のうちに終了したとのことですが、その制作中には、「芦原さんおよび出版社」と「脚本家およびテレビ局」との間に大きな意識のズレや軋轢(あつれき)、そして不信が生じ、それが多くの関係者を疲弊させ、傷つけたであろうことは想像に難くありません。


 一方で、今回の事件は、IT開発の現場にも重要な示唆や教訓を与えるものであると私は考えています。


 今回の問題では、後述するように原作者が漫画に込めた思いとドラマを制作するテレビ局の企画意図がずれ、それが十分に調整されないまま脚本が書き進められたことに原因があります。そこには原作者、原作漫画の出版社、テレビ局のコミュニケーションや相互理解の欠如、役割分担、権利および契約の不備、契約および原作漫画をドラマ化するためのプロセス(旧来からの慣習)の不備といった問題があり、これは、そのままIT開発プロジェクトにも当てはまると考えられます。


 ユーザー企業とベンダーのコミュニケーションや相互理解の不足によりシステム化の目的に沿わない開発が行われてしまうこと、曖昧な契約や計画が双方の役割分担や権利を巡る紛争を引き起こしてしまうこと、開発プロセスが旧来の属人的な慣習によって進められるために発生する生産性の低下やITユーザーとベンダーの軋轢――「セクシー田中さんドラマ化」問題は、こうしたIT開発で頻繁に発生する問題とも通じる面があり、多くの示唆と教訓を与えてくれるものではないでしょうか。


 本稿では、そうした示唆、教訓を考えるべく、これらがなぜ起きてしまったのかを2つの報告書を基に検討していきます。


日本テレビ放送網:「セクシー田中さん」調査報告書(公表版)


小学館:調査報告書(公表版)


●プロジェクト開始前に必要な、関係者の目的意識共有


 さて、あらためて問題を引き起こした原因は何だったのかについて考えます。


 意見はさまざまにあると思いますが、私は「原作者抜きのドラマ企画」が原因の一つではないかと思います。本ドラマの企画は、もっぱらドラマを制作するテレビ局側で行われ、企画自体に原作者や出版社が参加しませんでした。原作者はドラマ化の企画に対して、ただ「作品の世界観を大切にしてほしい」と要望するのみで、ドラマのコンセプト、企画意図が原作とどれほどズレているのか、制作に入るまで分からなかったようです。


 端的にいえば本ドラマは、原作者が大切にしたい作品の意図やメッセージが理解されないまま、あるいは重視されないまま企画され、ドラマ化が決定しました。ドラマの企画に原作者が参加しないことは、テレビ局としては珍しくなく、むしろ普通のことかもしれません。しかしその“普通”が、芦原さんをはじめとする関係者を苦しめる結果となったのではないでしょうか。


 そもそも原作者が「セクシー田中さん」で伝えたかったものは何だったのでしょうか。報告書にある原作者の言葉から私が推察するのは、「生きづらさを感じる女性のモヤモヤした思いと、それを乗り越え自分の枠を超えて新しい世界を見つける前向きな心」です。


 登場人物の朱里(あかり)は、仕事はもちろん人生に夢を抱くこともなく、婚活を続ける派遣社員です。自己肯定感が低く、自分に興味を持つ男性がいたとしてもそれは自分が若くてかわいらしくかつ扱いやすいからにすぎないと考え、うっすらとしたむなしさと不安と不満、そして諦めのような感情の入り交じった、モヤモヤした思いを抱えています。こうした感情は非常に重要な設定に思えますし、そこから徐々に変化していく“心”を描くことが、この漫画そのものといってもよいでしょう。コミカルに笑える場面も数多くありますが、このモヤモヤや生きづらさは、原作者として絶対に軽視してほしくない部分だったのだろうと思います。


 ところがドラマを制作する日本テレビの企画書には、本ドラマの企画ポイントが以下のように記されています。


1. “自分を縛る呪縛”から解放されたときのカタルシス


2. 真反対なふたりの女の友情がスゴイ!


3. 9笑って、1グッとくるドラマ


4. あらゆる世代に響く! 60代専業主婦の第一歩


5. 田中さんと笙野の恋の行方は!??


 「自分を縛る呪縛」は一見、原作者の意図と重なるようにも見えますが、そこで描きたいものが「カタルシス(恍惚〈こうこつ〉感)」であるなら、原作とは異なります。むなしい毎日を送る女性がベリーダンスのもたらすカタルシスに浸るというのは、確かにありそうな設定ではありますが、漫画の「セクシー田中さん」にはそうした場面はないように記憶しています。


 もっと気になったのは、「9笑って、1グッとくる」です。前述したように原作の最も大切な部分が朱里や田中さんの中にあるモヤモヤであるなら、9と1の間にそうした思いを入れ込む隙間はありません。そういうものは排除して、日曜日の夜に家族で見るのにふさわしい、楽しくてちょっと泣けるドラマにしたいという意図を感じます。


 もしも企画段階で原作者と出版社がテレビ局と納得いくまで話をしていたら、このズレが修正されたか、あるいは原作サイドがテレビ局の企画に乗ってしまうという選択肢もあったかもしれません。


 ズレが修正できなかったら企画がつぶれるだけで、その後の苦しみはなかったはずです。本作の場合、ズレの修正とはテレビ局が漫画の伝えたいメッセージを再度理解し、それを軽視しない企画に練り直すことに他なりません。報告書を見る限り、芦原さんがテレビ局の企画に合わせて原作の意図を縮退させたドラマ化を許可したとは思えないからです。


 このことは正に、ユーザー企業とベンダーがIT導入の目的意識を共有しないままプロジェクトが始まり、ベンダーが自分の思いだけで勝手にシステムの機能を作り込むような事態と同じといってよいでしょう。


 通常、情報システムの企画段階ではベンダーは参加しません。従ってベンダーは、システム開発における“企画意図”たるシステム化の目的を、最初は知らないわけです。そこでユーザーにはベンダーにシステム化の目的を十分に理解させる必要があるのですが、実際にはこれを怠り、機能や性能が足りないなどで業務に使えないシステムを作ってしまうという結果に陥ります。


 本作は、原作のドラマ化に当たって原作者が企画段階から参加しないまま脚本の執筆が進んだ結果、原作とは似て非なる作品を生み、原作者をはじめとする関係者を傷つけ苦しめることとなりました。


 ドラマの企画に当たっては、原作者の意図を知り、原作者の理解を得るために企画段階からの原作者の参加を求めるべきだったといえます。企画にベンダーが参加することが難しいITの現場では、RFP(提案依頼書)の提出や提案、プロジェクト計画などを行いながら、ユーザー企業とベンダーが目的を共有し、1つのチームになることが大切です。


 またプロジェクトの開始後も、そうした目的の再確認や、そこから外れる要件の調整、システム構成の見直しなどが必要ですが、そうしたことが不十分だったドラマ「セクシー田中さん」は、IT開発の視点から見ても、一つの「反面教師」と言えるでしょう。


●原作者サイド=ユーザー企業の協力義務と心構え


 「セクシー田中さんドラマ化」問題は、ユーザー企業がシステム開発に臨む上で必要な心構えと協力についても大切なことを教えてくれているように思えます。


 2つの報告書を読むうちに私は、原作者の方にも、ドラマ化を受けるに当たって自らの心を守るために幾つかの心構えが必要だったように思いました。


 これは私自身が登場人物を設定した物語を書く身であることからの考えですが、「自分の作品を忠実にドラマ化するのは、テレビ局だけでは無理である」という考えがどうしても必要です。


 ドラマ制作にはいろいろな制約があることは報告書にも書いてあった通りです。時間的な制約もありますし、連続ドラマなら1話ごとに何らかの盛り上がりを作る必要もあります。放送時間帯や視聴者に合わせてテイストを変える必要もあります。だからこそ、前述したようにドラマ「セクシー田中さん」の企画意図は原作とズレたものになってしまったのでしょうが、それはドラマの制作上、ある意味避けられないことだったのかもしれません。


 ですから、原作者がそうした制約の中、それでも原作の意図を再現してほしいと考えるなら、ドラマ企画から撮影の終了まで、積極的に打ち合わせに参加し、自分なりの意見を述べることが必要となります。その結果出来上がるのは、恐らく原作の意図をくみながらも、さまざまな設定やストーリーを変えた「新しい作品」になるはずです。それでも原作者が十分に自分の意見を通せるなら、今回のように原作者が苦しむことはなかったのではないでしょうか。


 ドラマ化とは「新しい作品をテレビ局や脚本家と一緒に作る活動」だという考えが必要だったように思えます。無論、そうさせなかったのはテレビ局のドラマ制作プロセスや出版社とテレビ局の担当者が原作者と脚本家の間に入るというコミュニケーションの方法に問題があったからなのでその点は後述しますが、いずれにせよ、テレビ局、出版社、脚本家と共にチームに参加して新しい作品を作るという心構えと責任分担が必要であるように思えます。


 これはIT開発の現場でユーザー企業の積極的な参加が求められるのと同じです。ユーザー企業は要件をベンダーに示した後でも、ベンダーの作業にさまざまな意見や提案をしなければいけません。


 開発中に必要となる情報や意志決定はプロジェクトの完了まで続きますし、要件定義書では示しきれなかった細かい要望もたくさんあります。こうしたことを小まめに伝え、ベンダーと調整し、あるときは妥協しながらもシステムを作っていくのがユーザー企業の役割であり、いかに多忙でも欠かせない行動です。ユーザー企業には厳しい話かもしれませんが、自社を守るためにこそ必要な心構えだと思います。


●トラブル発生時に必要なふるまいと、コミュニケーションの重要性


 本作の場合、企画段階での話し合いは持たれず、ズレた意識の修正がないまま、脚本の執筆が開始されました。この段においても、やはり話し合いの不足が影を落とします。原作者と脚本家の意識とズレと、そこからくる不信感です。


 報告書を読む限り、原作者と脚本家は対面することなく、その意思伝達はテレビ局および出版社の担当者によって行われました。脚本家は、原作者の意図や大切にしたい思いを受け取ることなく、テレビ局の意図に従って執筆を続けていったようです。その結果、脚本は原作者の意図とはズレたものになりました。


 原作は、朱里が田中さんと過ごすうちに徐々に自らを囲む枠を超えて新しい自分を獲得する様をさまざまなエピソードで描きますが、そこには順序も必要です。人の心が徐々に変わっていくエピソードですから、最初は小さく、徐々に大きくといった展開が必要です。これを心が変わっていく過程ではなく単なるエピソード集と捉えて、順番を変えたり、新たなエピソードを加えたりすると、原作の意図が壊れかねません。


 ドラマと漫画を見比べると、確かにエピソードの順番が変わっています。もっとも、ドラマは原作者の要望でかなりの部分を修正した脚本を基に制作されましたので、放映された部分にある変更は原作者の許容範囲だったのかもしれません。


 ただ報告書には、大量の変更要望を出さざるを得なかった原作者が脚本家への信頼を失い、また疲弊しながら、9、10話を自分で書かざるを得ない状況に追い込まれたことが記されています。脚本家も、度重なる修正に疲弊した上で、自身の脚本は途中で打ち切られ、クレジットにも名前が載らない(9話)という屈辱を味わいます。結果、脚本家が不満をSNSに投稿し、原作者を深く傷つけたことは周知の通りです。


 やはり原作者と脚本家が直接対面して、原作意図の共有と各場面に込められた思い、ドラマ化に当たっての制約なども含めて話し合うというプロセスが必要だったのではないでしょうか。


 IT開発でいえば、ユーザー企業とベンダーが頻繁に対面しながら徐々にモノを作り上げていくアジャイル開発に似ているでしょうか。無論、アジャイル開発は、多くの場合、ウオーターフォール開発と比べてユーザー企業の負担が大きくなる開発方式です。脚本の執筆についても、頻繁に面談することは、原作者にも脚本家にも負担がかかります。


 加えていうなら、私も含めたモノを書く人は、執筆中にいろいろな注文を受けることが嫌いですし、自分の作品を他人によっていじられるのも良い気分ではありません。


 しかし、そこでは前述した「みんなで新しい作品を作る」という意識が大切に思えます。自分も参加して新しいモノを作るという意識であれば、おのおのの負担も必要な役割分担であると思えますし、結果として、原作の意図とテレビ化の意図がうまくマッチした良作につながるのではないでしょうか。


 今回のように原作者と脚本家が直接会話をせず、テレビ局や出版社の担当者が間に入るやり方は、あまり良い方法とは思えません。これがドラマ制作の当たり前だとすれば、変革が必要なのではないでしょうか。


 報告書によると、テレビ局の担当者は脚本制作の最終段階まで原作者が込めた意図を理解していなかったように思われます。


 本作は脚本執筆段階ではまだ完結しておらず、終盤はドラマオリジナルの脚本となることは最初から決まっていました。最終的に脚本家は外され、原作者が脚本を書くことになったのですが、その前にテレビ局からストーリーの提案がありました。朱里が最後は、田中さんと同じベリーダンサーになるというものでした。


 原作者はこのストーリーを受け入れられませんでした。作品の意図からすると、朱里は自分の周りにあった枠を超えて新しい世界に飛びこむことが必要です。しかしベリーダンサーになるのでは、単に田中さんに憧れて後を追っているだけに見えてしまいます。


 私見ですが、これでは“新しい世界”が薄まり、モヤモヤから一歩抜け出すという大切な部分が理解されづらくなるのではないでしょうか。この提案は、作品に対する理解不足だと私は感じました。


 これは、テレビ局や出版社の担当者の能力の問題ではありません。企画から執筆に及ぶプロセスにおいて、原作者の意図を反映させたり、原作者の理解を得るように努力したりしない、これまでの慣習が原因だと私は考えます。


 ITのアジャイル開発はその時々の状況に応じてさまざまな機能が付け足されたり、削除、変更されたりしながら進められます。その結果、当初想定していたシステムとは全く違うものになることも珍しくはありません。


 ただその際にも、変えてはいけないものはあります。それは「開発が完了したときの新しい業務の姿」です。システムの機能はどうあれ、「今までは会社でさまざまな業務を行っていたが、今後はリモートでどこにいても業務をできるようにして、皆のライフスタイルが改善する」というような夢は譲ってはいけないわけです。


 この夢が実現できるなら、システム実現方法は会社のPCにSIMを入れるでも、スマホを業務に使えるようにするでもよいわけです。ドラマの脚本がどう変わっても、その意図するところは変えない。そうした考えはとても大切です。設定やストーリーを変えても、朱里がそれまでの枠を破ってモヤモヤ感を払拭(ふっしょく)することが大切という線だけは外せないと原作者が考えていたのと同じです。


●求められるドラマ化のプロセスと契約の改善


 私には本問題のもう1つの原因は、原作者、出版社、テレビ局、脚本家のコミュニケーション不足と、それによるドラマ化の方向性の不統一にあるように思えます。


 一緒に新しい作品を作り上げるという意識の変化と環境作りがあれば、原作者にも脚本家にも多大な負担をもたらし、双方のプライドを傷つけることはなかったのではないでしょうか。


 そして、このコミュニケーション不足をもたらした原因は、テレビ局および出版社のドラマ制作に関する既存のプロセスと契約にあるように感じます。企画から放映までの期間が限られているのかもしれませんが、やはり、企画時点、脚本執筆時点での原作者との話し合いは重要でしょう。私はテレビ業界の人間ではありませんが、本作のようなプロセスが慣習化、制度化しているのなら、これを機に改めるべきと考えます。


 契約も改めるべきです。通例で原作者などとの契約は、企画が終わり脚本も確定してから締結するようです。しかし本来は、「原作者、出版社」と「テレビ局、脚本家」の役割分担や諸権利を脚本執筆段階までに決定していなければなりません。


 原作に意図しない改変が加えられそうなとき、原作者には何をどこまで守る権利があるのか、逆に原作を守るための打ち合わせへの参加をどこまで義務付けるか、脚本家はどこまで原作者の意見を入れるべきか、原作者や脚本家のクレジットの出し方はどうすべきかなど、執筆終了後に決められても何ら意味のないことです。


 契約を脚本執筆前に締結すること、契約の前提条件としてドラマの意図を両者が合意していること、原作者と脚本家の対話と協力をできるだけ具体的に契約条項としておくことは、今回のような問題を防ぐ意味で一定の効果があるのではないでしょうか。


●全てのプロジェクトに健全なプロセスを


 これまで述べてきたように「セクシー田中さんドラマ化」問題は、ITの開発にもさまざまな示唆と教訓を与えてくれるものでした。


 良いシステム作りの上では、ユーザー企業とベンダーが1つのチームとなり、1つの目的を共有し、開発の開始から終了まで話し合いを続けること、システムの機能は変わってもその意図は外さないこと、そうしたことを実現する開発プロセスと役割分担、コミュニケーション、そして契約が大切であることを今回の問題では再認識した思いです。


 最後になりましたが、ここからはITの関係者というより一人の作家としての危惧を、蛇足とは思いながらも申し述べたいと思います。


 文中でも触れましたが、作品のドラマ化に不満を覚える原作者は多いようです。芦原さんの死を契機にそうした声が改めて上がっていますし、著名な作家が特定のテレビ局に作品を提供しないと決めているという話も聞きます。こうしたことが続けば、やがて多くの原作者がドラマ化を敬遠することにもなりかねません。


 文中でも申し上げたように、ドラマは原作とは異なる一つの作品だと私は思います。原作のあるドラマを制作する機会が減ってしまうなら、それは一つの文化的損失ですし、テレビ局や出版社にも負の影響をもたらすことでしょう。今回の問題を機に、強者であるテレビ局にはプロセスと契約の在り方を真剣に検討いただきたいし、原作者サイドもドラマが新しい作品であるという意識を持って、ドラマ化に積極的に関わるべきではないか。そんな思いを持ちました。


●細川義洋


ITプロセスコンサルタント。元・政府CIO補佐官、東京地方裁判所民事調停委員・IT専門委員、東京高等裁判所IT専門委員NECソフト(現NECソリューションイノベータ)にて金融機関の勘定系システム開発など多くのITプロジェクトに携わる。その後、日本アイ・ビー・エムにて、システム開発・運用の品質向上を中心に、多くのITベンダーと発注者企業に対するプロセス改善とプロジェクトマネジメントのコンサルティング業務を担当。独立後は、プロセス改善やIT紛争の防止に向けたコンサルティングを行う一方、ITトラブルが法的紛争となった事件の和解調停や裁判の補助を担当する。これまでかかわったプロジェクトは70以上。調停委員時代、トラブルを裁判に発展させず解決に導いた確率は9割を超える。システム開発に潜む地雷を知り尽くした「トラブル解決請負人」。2016年より政府CIO補佐官に抜てきされ、政府系機関システムのアドバイザー業務に携わった


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