「エレベーター選手」森福允彦が球界屈指の左腕になれたワケ 高山郁夫が語る「SBM」結成以降のホークスリリーフ陣

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2024年07月03日 10:20  webスポルティーバ

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高山郁夫の若者を輝かせる対話式コーチング〜第8回

 オリックスのリーグ3連覇など、数々の球団で手腕を発揮してきた名投手コーチ・高山郁夫さんに指導論を聞くシリーズ「若者を輝かせるための対話式コーチング」。第8回はソフトバンク投手コーチ時代、最強の勝ちパターン「SBM」結成以降の投手運用と盟友・秋山幸二氏との関係について語ってもらった。

【投手運用の難しさ】

── 前回は2009〜2010年ソフトバンクの必勝投手リレー「SBM(攝津正、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩)」の誕生秘話をお聞きしました。

高山 2008年にはいなかったリリーフの核ができて、投手陣全体に厚みが出てきました。その後も甲藤啓介、金澤健人、森福允彦、柳瀬明宏といったリリーフ陣が台頭してくれました。

── 金澤投手は2010年途中から加入した中堅でしたが、自身4球団目となるソフトバンクで活躍しました。何が変わったのでしょうか?

高山 他球団にいた頃はムラがあって、コントロールが不安定という話を聞いていました。移籍当初も結果を求めるあまり、コースを狙い過ぎて、かえってカウントを崩していました。彼は変化球のキレと腕の振りがいいので、「ゾーン勝負で、ファウルでカウントを進めよう」と話した覚えがあります。凡打コースは、チャートで確認すると甘いんですけど、腕を振りきれるようになったので結果がついてきたのでしょうね。逃げない姿勢がベンチに勇気をくれました。

── 森福投手は2010年に一軍に定着すると、翌2011年に34ホールドをマークするなど左の中継ぎとしてなくてはならない存在になりました。

高山 2年目までは特徴に乏しく、一軍と二軍を行ったり来たりする、いわゆる「エレベーター選手」でした。でも、厳しいプロの世界で生き残るために、自ら試行錯誤していました。投球フォームをサイドに替え、投げ込み量を増やして、必死にフォームを固めていました。独特の軌道のスライダーを武器にして、左バッターにまともなスイングをさせないところから、一軍に定着し始めて。さらに右打者にも対応できるようになり、リリーフの中心的存在になっていきました。フォームを変えることはすごく勇気がいるのですが、その決断と行動力が彼の野球人生を大きく変えたと思います。武器を手に入れて、チームに欠かせない選手に成長してくれました。

── 甲藤投手も2010年には65登板、15ホールドと健闘しました。

高山 なかなか芽が出なかった投手でしたが、とくに「SBM」の誰かが休養の日、森福らとともにしっかりカバーしてくれました。ありがたい存在であったと同時に、登板ごとに成長し、自分のポジションを確立していきました。

── リリーフ陣がしっかりしていると、戦いやすくなりますね。

高山 秋山幸二監督の狙いは、まさにそこにありました。ゲームの中盤以降、相手チームに相当なプレッシャーをかけられたと思います。大黒柱だった斉藤和巳が肩の故障でつらい時期に入ってしまい、杉内俊哉、和田毅の両エースが中心となってチームを引っ張ってくれていましたが、新しい先発投手を育成するのも喫緊の課題でした。

── 投手運用で苦心した点はありますか?

高山 当時、先発投手陣のなかで年間通して計算できたのは、杉内、和田のふたりだけでした。ほかの中堅、若手投手たちを、勝ちながらどう育成していくか。できるだけ競争原理も崩さないよう、秋山監督と密にコミュニケーションをとっていました。とくに実績のない若手投手には、身体的な故障はもちろん、心を潰さないように注意を払っていました。1年トータルでチームの勝率を上げるため、若手に勝ち星と自信をつけさせるため、リリーフを充実させる戦術をとりながら、運用していました。時にリリーフの休養、運用を巡って、監督との口論がたびたびありましたが、あとを引くことなく、前に進めました。

── 2011年は攝津正投手を先発に回すと、14勝と活躍。チームは88勝を挙げて圧倒的な力で優勝しました。

高山 あの年は、内川聖一や細川亨といったFA選手の加入により、かなり戦力がアップしました。内川の打撃はもちろんですが、投手陣からすると、細川の大胆なインサイドワークが新鮮でした。たまに大胆すぎて、監督に雷を落されたこともありましたが(笑)。彼のリードに助けられ、私もあらためて勉強させてもらいました。森福らリリーフ陣のレベルが上がり、攝津を先発として起用できるようになり、先発とリリーフのバランスがよくなったことも、完全優勝のひとつの要因でした。

【落合監督の中日を破り日本一】

── 当時のソフトバンクは、ポストシーズンで苦しむ印象がありました。

高山 みんな金縛りにでもなったように苦しんでいました。ポストシーズン敗退が続いていて、責任感の強い人間ほど、体と頭が一致してない雰囲気がありましたね。

── 2011年のクライマックスシリーズはいかがでしたか?

高山 シーズン独走でのクライマックスシリーズだったので、また強烈なプレッシャーでした。乗り越えられた要因のひとつは、その重い空気を吹き飛ばしてくれた内川、細川の存在だったと思います。ホークスの呪縛を知らない戦士だったので。日本シリーズも紙一重の戦いでしたが、落合博満監督、森繁和ヘッドコーチの中日から勝利できて、すごく自信になりました。長い1年でしたけど、最後まであきらめずに戦ってくれた選手たちには、感謝しかありませんでした。

── 盟友の秋山監督からはねぎらいの言葉はありましたか?

高山 「お互いにしんどかったな」と笑顔で握手したのを覚えています。私がこの世界に戻ってこられたのも、すべて彼のおかげ。少しでも彼の力になれたかなと思った瞬間でした。

── その後、2013年シーズン後に高山さんはオリックスに移籍。2014年はオリックスとソフトバンクがリーグ最終戦まで優勝を争う、壮絶なシーズンになりました。

高山 2014年のオフ、秋山の奥さんが3年あまりの闘病の末に他界されました。2011年のオフに奥さんが病に倒れて以降、誰にもその事実を語らず、弱音も吐かず、凛として監督業をまっとうしていました。早い段階でその事実を伝え聞いていた私は、常に秋山の体調が気になって心配でした。

── 同年のソフトバンクはリーグ最終戦でサヨナラ勝ちを収めてリーグ優勝。ポストシーズンも勝ち上がって、阪神との日本シリーズも制して3年ぶりの日本一に輝いています。同年限りで秋山監督は退任しました。

高山 優勝を宿命づけられた球団で、現場の先頭に立つ監督は、本当に大変で、孤独との闘いでもあったと思います。秋山幸二の下で、一緒に仕事ができて光栄でした。

(つづく)


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した

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