いぶし銀・吉田光範とオフトの間にあった信頼関係「監督はこういうことまでやるんだ、と思った」

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2024年07月04日 10:30  webスポルティーバ

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第27回
全5試合出場のいぶし銀が体感した「ドーハの悲劇」(1)

「どこも日本をマークしてくる。初戦から非常に難しいゲームになるな」

 1993年10月に行なわれたアメリカW杯アジア最終予選。カタールの首都ドーハに入る前、日本代表のボランチ、吉田光範はそう思っていたという。

 当時のW杯最終予選は現在のホーム&アウェー方式とは異なり、ドーハでのセントラル開催だった。6カ国による総当たりのリーグ戦で、上位2カ国がW杯の出場権を得るというレギュレーションだった。

 日本代表は1992年3月に就任したハンス・オフトが指揮。それ以前にJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハやマツダで指導していたオフトは、日本人のメンタリティや国民性をよく理解し、チームとしての約束事を徹底。「トライアングル」「アイコンタクト」「スモールフィールド」といったキーワードを巧みに使って、チーム作りを着々と進めていた。

 そして、1992年夏のダイナスティカップで優勝。10月〜11月に日本で行なわれたアジアカップでは、決勝で強敵サウジアラビアを破って初優勝を遂げた。

 それまで、アジアにおいても中東の各国や韓国の後塵を拝してきた日本だが、プロサッカーリーグ(Jリーグ)の発足を目指すと同時に代表強化にも本格的に着手。初の外国人監督を招聘し、1993年のJリーグ開幕を前にして、代表のチーム力は右肩上がりで伸びていった。

 そんななか、地元開催のアジアカップで優勝。Jリーグ開幕で国内のサッカー熱も高まって、アジア各国は日本への警戒をかなり強めていた。

 迎えたW杯最終予選。日本の初戦の相手はサウジアラビアだった。

「サウジとはアジアカップの決勝で対戦していたので、どんな相手なのかはだいたいわかっていたんですけど、最終予選は中東での開催。相手にとっては、ホームみたいなものじゃないですか。何をしてくるのかわからない怖さがあったので、チーム内は結構緊張感が漂っていました」

 最終予選を戦うにあたって、日本は決して万全な状態ではなかった。不動の左サイドバック、都並敏史が故障から復帰できていなかった。

 その穴埋めとして、大会直前のスペイン合宿では江尻篤彦や勝矢寿延が起用されたが、オフトは満足せず、最終予選を目前にして三浦泰年を招集した。本職はボランチだが、守備力には定評があった。また、カズ(三浦知良)の兄であり、読売クラブでのプレー経験があったので、ラモス瑠偉や柱谷哲二ら主力とのコミュニケーションにも問題はなく、チームにもスムーズに溶け込めるだろうという読みもあった。

 カタール入りする直前のアジア・アフリカ選手権、コートジボワールとの試合で三浦泰は起用された。試合は1−0で勝利し、三浦泰の出来もまずまずだった。

 だが、主力不在の相手に苦戦を強いられ、チーム全体としては調子の上がらない状態にあった。

「ヤス(三浦泰)は慣れないポジションでいきなり試合に出て、しかも最終予選に出るわけですからね。精神的な負担は大きかったと思います。でも、もうヤスしかいない状況でしたから、僕は彼の動きを見ながら、まずは守備面で(彼を)しっかりサポートしていこうと思っていました」

 サウジアラビア戦、吉田は開始5分ほどで「アジアカップの時とは違うな」と感じた。サウジアラビアが守備的な布陣を敷いてきて、なおかつ、カズとラモスを異常なほど警戒し、日本の攻撃のホットラインを分断すべく、厳しいマークをつけてきた。

「まあ、そうくるだろうな、と。ある意味、それは想定内でしたね。ふたりへのマークが厳しいなら、他の選手が動けばいいだけの話で、僕は福田(正博)と(ベンチスタートの)キーちゃん(北澤豪)の運動量と攻撃力がポイントになると思っていました。

 福田には縦のスピードがあるし、キーちゃんは前で自由自在に動き、ゴール前にも飛び込んでいける力がある。それぞれ持ち味が違うけど、僕は密かに彼らに期待していました」

 実際、福田は前半20分に決定的なチャンスを得たが、決められなかった。それが、この試合における日本の最大のチャンスだった。

 後半はサウジアラビアが巻き返し、カウンターから何度も日本のゴールを襲った。

 吉田はアンカーにいる森保一の位置を確認しながら、ロングボールを放り込んで飛び込んでくるサウジアラビアの選手の対応や、セカンドボールの回収に追われた。吉田は自らの強みを存分に発揮し、日本は最後まで守備が破綻することはなかった。

「僕の持ち味は、ポジショニングのよさだと思っています。自分の後ろ、最終ラインにはテツ(柱谷哲二)と井原(正巳)がいるので、安心はしているんですけど、(相手の攻撃に対して)毎回ダイレクトに彼らに仕事をさせるわけにはいかない。

 彼らの前のゾーンで、何とか相手の攻撃を抑えること。あとは、中盤のバランスを整え、シンプルにプレーを早くすること。(トップ下に)福田がいる時は(彼の)守備の負担をできるだけ軽減させて、彼のよさを発揮できるようにするのが、僕や森保の役割だった。守備的な守備ではなく、攻撃的な守備をやろうといつも心がけていました」

 試合前など、吉田は森保や柱谷らとしっかりコミュニケーションを取っていたが、守備面において細かいことを詰めて話すことはなかった。長く代表で一緒にプレーし、お互いに信頼しており、各々のプレーや能力について熟知していたからだ。

 監督のオフトからも、特別に何か言われることはなかった。吉田とオフトの間には、確固たる信頼関係があった。

「僕はオフトが監督になって代表に呼ばれるようになったんですが、最初の頃はスタメンじゃなかったんです。アジアカップ準決勝の中国戦とかも、ベンチでした。

 ただその時、オフトから全体ミーティングの前に電話がかかってきて、そこで(自らに代わって出場する)北澤の起用と、その戦略的な根拠を教えてくれたんです。

 それで(自分が外れる)理由がわかったので、僕は『次の準備に入ります』とオフトに伝え、すぐに気持ちを切り替えることができました。その際、オフトの自分への信頼が伝わってきましたし、監督はこういうことまでやるんだ、と思いました」

 オフトは、いぶし銀の働きを見せる吉田を高く評価していた。最終予選では全5試合、すべてスタメンで起用した。

 サウジアラビアとの激戦は、吉田と森保の奮闘、さらに最終ラインの踏ん張り、GK松永成立の好守などもあって、なんとか0−0の引き分けで乗りきった。

 オフトは試合前、「全力で勝ちにいく」と述べていたが、初戦のドロー発進にはまずまずといった表情を浮かべていた。吉田も引き分けという結果は悪くないと思っていた。

「福田の決定的なシュートがあったり、僕も『入れておけば......』というシュートが1本あったんですけど、勝ち点1というのはスタートとしてはまずまずですし、内容的には悪くないと思っていました。ただ、初戦を引き分けたので、次のイラン戦は勝たないといけないというのは、僕だけではなく、みんな、そう思っていたと思います」

 試合後のロッカールームの雰囲気も悪くなかった。しかしながら、スタメン11人で90分間フルに戦って、オフトは交代枠をひとりも使用しなかった。その後、中2日か中3日で連戦が続くことを考えると、選手の疲労蓄積が危惧された。

 それが、最終戦のイラク戦で表面化するとは、この時、吉田は微塵も思っていなかった。

(文中敬称略/つづく)◆吉田光範が明かすオフトジャパンの裏話>>

吉田光範(よしだ・みつのり)
1962年3月8日生まれ。愛知県出身。刈谷工高卒業後、ジュビロ磐田の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハに入団。当初はFWでプレー。その後、中盤にポジションを移しても高い能力を発揮。攻守に安定したプレーを見せて、ハンス・オフト率いる日本代表でも活躍。1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年W杯アジア最終予選でも全試合に出場した。現在はFC刈谷のテクニカルディレクターを務める。

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