名将・木内幸男の「唯一の失敗」とは...1987年夏の甲子園決勝・PL学園戦を常総学院のエース島田直也が振り返る

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2024年07月05日 07:20  webスポルティーバ

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常総学院・島田直也監督 インタビュー 中編(全3回)

 2020年から高校野球の強豪・常総学院(茨城)の監督を務めている、同校OBの島田直也氏。島田氏は高校時代に1987年夏の甲子園で準優勝を果たすと、その後は日本ハムや横浜(現横浜DeNA)などで16年間のプロ生活を送った。中編では、夏の甲子園のPL学園との決勝や成功と挫折を経験したプロ野球時代の話を伺った。

【甲子園決勝で4番に大抜擢】

 1987年の夏の甲子園。僕ら常総学院の準決勝の相手は、投手として評価の高かった川島(堅/元広島)を擁す東亜学園(東京)でした。

 投手戦となった試合は6回に1点を取られてリードを許しましたが、8回裏にホームランで同点。打ったのは僕です。狙ったわけではなく、夢中で打ったひと振りでした。

 打つことも好きでしたが、僕は大きな打球を打てるバッターではない。心がけていたのはセンター返し。その延長線にホームランがあると考え、大振りはせず、ふだんから基本練習に徹していました。

 今の選手にもそのように指導しています。ちなみに低反発バットに代わってからもバッティングに対する考え方は同じなので、影響はほとんどありません。

 試合は振り出しに戻り、決着がついたのは延長10回。劇的なサヨナラ(2−1)で、夏初出場の常総がついに決勝の舞台に立つことになりました。

 決勝で対戦したPL学園は、春夏連覇を目指す強豪。試合を前に木内(幸男)監督は、「大人と子どもほどの差がある」と言いました。

 そのうえで、つまらないゲームにだけはするまいと策を講じたと思いますが、僕が「木内さん唯一の失敗」と後日談のひとつにしているのが、この試合で僕を4番に据えたこと。「ここまで来られたのは島田のおかげ。だから島田を4番にする」と、当日の朝に言ったんです。

 これは相手のPL学園が左投手で、うちの4番が左打者だったことから左対策という考えもあったと思いますが、僕にとっては驚きの采配。おかげで力みが生まれてしまい、結果的に期待に応えることはできませんでした。

 2−5で敗れ、準優勝。PL学園はこの大会で、全試合初回得点という記録をつくっています。この日も初回に1点取られ、結局前半で4点取られて、そのまま流れを変えられなかったのが痛かったですね。

【プロ野球はSSコンビで話題もすぐ挫折】

 でも試合を終えて、PL学園に対して最後まで歯が立たないという印象はありませんでした。むしろ準々決勝の中京(現中京大中京/愛知)のほうが、インパクトが強かったくらいです。

 思うにPL学園というチームの強さはわかっていたけど、主将の立浪(和義/現中日監督)やエースの野村(弘/元横浜)ら選手個々がどれくらいすごいのかを、僕はあまり知らなかった。相手を過剰に意識せず、それが逆によかったのかもしれません。

 そして、木内さんは勝てないと断言したけど、僕はこの試合でもそうは思っていなかった。1年で試合に出ていた仁志(敏久/元巨人ほか)に「あの時に本気で勝とうとしていたのは島田さんだけですよ」と言われましたが、最後まで勝ちにこだわっていたのが僕でした。

「甲子園に出たらモテるかも」とは思っていましたが、大会後は予想を超えて驚くほどのファンレターをもらいました。

 甲子園で活躍すればプロ入りも夢ではないかも----。その思いが現実となり、翌年ドラフト外で日本ハムに入団。帝京(東京)のエースだった芝草宇宙(現帝京長岡監督)と「SSコンビ」として売り出されて話題を集めましたが、やはり厳しい世界ですぐに挫折を味わいました。

 1年目に右肘を手術。高校時代はケガをする自分など想像もできなかったのに、肩が上がらず、足もつる。あり得ないことが次々起きて、ケアの不十分さが早くも露呈されてしまいました。その後のプロ生活では、いいこと、悪いことのありとあらゆることを経験することになります。

 2年目の終わりに一軍初登板を果たすも、4年目には二軍で負け続き。シーズン後、横浜大洋ホエールズ(当時)へトレードされました。当時はトレードというと戦力外の悪いイメージのほうが強く、通達された時、思わず「断れないんですか」と口にしたほど。

【飛躍の背景にあった名伯楽の言葉】

 でもこの移籍が考えの甘かった僕の背筋を伸ばし、覚悟を決めて野球に向き合うきっかけをくれました。

 当時の大洋は「走れ、走れ」で練習は超きつい。音を上げる寸前でしたが、おかげで基礎体力がつきました。甲子園の決勝で戦った野村や、やはり甲子園で人気だった函館有斗(北海道)出身の盛田(幸妃)が同期でいたので、精神的にも助けられました。

 移籍1年目にはプロ初勝利、3年目には中継ぎ投手としてチーム最多タイの成績を挙げ、その翌年も自己最多、2年連続となるチーム最多勝。この成績が年棒に見事に反映され、プロという世界を実感したものです。

 飛躍の裏には、一軍投手コーチだった小谷正勝さんの存在があります。細かいことはほとんど言わない代わりにいつも選手をじっと見ているタイプの小谷さんが、ある日、僕にひと言、言ったんです。「いいスライダー、持っているじゃないか」。

 転機でした。俺には磨くべきものがある、そしてこの世界を生き抜くためにはどうしたらいいかが明確になりました。

 さらに監督が近藤昭仁さんになり、「おまえを使い続けるからな」と言ってくれたことも大きかった。

 言葉って大事。心に余裕が生まれ、それが最多勝獲得にもつながりました。近藤さんが監督になった年は「横浜ベイスターズ」に改称した元年で、その年にチームに貢献できたことも大きな喜びでした。

 その後、横浜の38年ぶりのリーグ優勝や、直後の日本シリーズにも登板して日本一を経験。翌年には、監督推薦でオールスターにも初出場しました。オールスターなんてごく一部の精鋭だけと思っていたので、まさに選手冥利に尽きます。

【誰かが必ず見てくれている、野球人生の実感】

 この時にあらためて思ったのは、「腐らずやっていれば必ず誰かが見てくれている」ということ。僕はこののち2度の自由契約を経験し、ヤクルトと近鉄でもプレーしましたが、やはり小谷さんをはじめ、周りで見ていてくれた人が声をかけてくれたおかげで、再びチャンスを手にすることができました。

 いつ、どこで誰が見ているかわからない。誰も見ていないからと手を抜くのでなく、いつでも自分が何をすべきか考え、それを当たり前にやる。これも、目の前の選手たちに折々にかける言葉です。

 今となってはこの体でよく16年間も現役をやれたなと思います。引退後は日本ハムの打撃投手を経て、BCリーグの信濃グランセローズの投手コーチとして指導者生活をスタートし、四国アイランドリーグPlusの徳島インディゴソックスの監督時代には年間総合優勝できました。

 そのあと、再び横浜から声がかかり、二軍投手コーチとしてNPBに復帰。さらに職員として裏方に徹したあと、常総学院から指導者として来ないかと声をかけてもらったのが2019年です。

 当初は迷いもありましたが、自分がここまで野球に携われたのも常総のおかげです。プロ4球団を渡り歩き、さらに選手以外の仕事と幅広く経験できたことも決して無駄ではないはず。そう思い、高校野球の指導者として母校に恩返しすべく、目の前にいる選手たちと対峙する日々を送っています。

後編<常総学院・島田直也監督の手応え「僕がいた甲子園準優勝時のチームに似ている」 名将木内幸男から受け継ぐ「準備と状況判断」>を読む

前編<常総学院「木内マジック」の裏側...1987年夏の甲子園準優勝投手・島田直也を勇気づけた木内幸男の言葉>を読む

【プロフィール】
島田直也 しまだ・なおや 
1970年、千葉県生まれ。常総学院高3年春にエースとして同校の甲子園初出場に貢献。夏の甲子園では準優勝と大躍進した。日本ハムファイターズを経て、横浜ベイスターズ(移籍時は横浜大洋ホエールズ。現横浜DeNAベイスターズ)で開花。1995年には中継ぎとして自身初の2桁勝利を記録し、1997年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。1998年にはチーム38年ぶりの日本一にも貢献した。引退後は日本ハムの打撃投手、四国アイランドリーグPlusの徳島インディゴソックス監督、横浜DeNAの二軍投手コーチなどを歴任。2020年から母校・常総学院のコーチに就任し、同年7月より監督。2021年と2024年のセンバツに出場し、ともに初戦突破を果たす。

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