NBA伝説の名選手:マジック・ジョンソン「既成概念を破るプレースタイルでNBAを世界規模のリーグに押し上げた長身PG」

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2024年07月05日 10:21  webスポルティーバ

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 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。第2回目はNBAを世界規模の人気リーグへ押し上げる礎を築いたマジック・ジョンソンを紹介する。

連載・NBAレジェンズ02:マジック・ジョンソン

【チームを優勝に導いた衝撃の1年目】

 1980年代にNBAがプロのバスケットボールリーグとして飛躍を遂げるきっかけを作った選手を挙げるならば、『マジック』という異名をとったアービン・ジョンソン・ジュニアの名前を最初に挙げなければならない。

 ミシガン州ランシングで生まれ育ったジョンソンは、高校1年の時の試合で36得点、18リバウンド、16アシストのトリプルダブルを達成。その試合を見ていた地元紙の記者がそのプレーぶりを『マジック』と表現したことをきっかけに、ジョンソンはアービン・ジュニアから愛称で呼ばれるようになる。

 高校卒業後、ミシガン・ステイト大に進学したマジック・ジョンソンは、2年時にチームをNCAAトーナメント(全米大学選手権)優勝に導いた。決勝で勝った相手は、のちにNBAでライバルとなるラリー・バードを擁したインディアナ・ステイト大。この試合は約4000万人がテレビで視聴したと言われており、バスケットボールで最も視聴者数が多かった試合として有名だ。

 NCAA制覇を成し遂げたあとの1979年のドラフト1巡目1位でロサンゼルス・レイカーズに指名されたジョンソン。206cmの身長ながらポイントガードが本職で、身長7フィート(213cm)以上のセンターがインサイドを支配することが成功のカギと言われていた時代に、異質なポイントガードとして革命を起こした選手だった。

 ジョンソンがスーパースターとしての地位を確立したのは、フィラデルフィア・76ersと対戦した1980年のNBAファイナルだ。

 第5戦でチームの大黒柱だったカリーム・アブドゥル=ジャバーが足首を捻挫し、第6戦を欠場することに。しかし、ジョンソンはアブドゥル=ジャバーの不在を補うべくセンターとして出場すると、42得点、15リバウンド、7アシストの大活躍。レイカーズが優勝する原動力となっただけでなく、ルーキーとして史上初、史上最年少の20歳276日でNBAファイナルMVPに選出されたのである。

【宿敵・バードと対決でNBAを隆盛に】


高さ、スピード、創造性すべてを備えていたマジック・ジョンソン photo by Icon Sportswire/Getty Images

 巧みなボールハンドリングや相手を欺くノールックパス、速攻からの得点を次々と生み出すジョンソンの存在を理由に、80年代のレイカーズは『ショータイム』と呼ばれた。『ショータイム・レイカーズ』は、バードを擁する東のボストン・セルティックスと頂点を争うライバルとして、NBAの発展に大きく貢献することとなる。

 もっとも当時、レイカーズは1959年を皮切りに8回、NBAファイナルでセルティックスに敗れていた。

「セルティックスとの対戦はいつでも厳しいものだ。彼らはすばらしい選手たちとすばらしいチームワークを持っていたから、常に最高レベルのプレーをしなければならなかった」

 こう話すジョンソンだが、1984年のファイナルは、バスケットボール人生のなかで最も悔しい思いをしたシリーズになる。宿敵・バード率いるセルティックスと初めてファイナルで対戦した時のことだ。

「セルティックスとの対戦はいつでも厳しいものだ。彼らは素晴らしい選手たちと素晴らしいチームワークを持っていたから、常に最高レベルのプレーをしなければならなかった」(ジョンソン)

 もっとも当時、レイカーズは1959年を皮切りに8回、NBAファイナルでセルティックスに敗れていた。

 そして1984年のファイナルは、ジョンソンにとって、バスケットボール人生のなかで最も悔しい思いをしたシリーズになる。宿敵・バード率いるセルティックスと初めてファイナルで対戦した時のことだ。

 2勝1敗とリードして迎えたホームでの第4戦、第4クォーター終盤にターンオーバーを喫し、決まれば優勝に王手というラストショットを決められずに延長戦の末に敗戦。その後、敵地での第5、7戦に負けたことで、ジョンソンとレイカーズはセルティックスという壁を乗り越えられなかったのである。

 ジョンソンはファンやメディアからの批判に直面したが、オフになるとこの敗北の借りを返すため、フリースロー、判断力、ゲーム・マネジメントのレベルアップに力を入れた。

 その成果は、1985年のファイナルに表われた。2年連続の対戦となったセルティックスを4勝2敗で倒して、前年のリベンジを果たし、ジョンソンにとって3度目の頂点に。ファイナルでのスタッツは平均18.3点、14アシスト、6.8リバウンド。MVPにはアブドゥル=ジャバーが選ばれたものの、ジョンソンの存在はレイカーズにとって大きな価値と影響力があることを明確にした。

 3度セルティックスとの対戦となった1987年のファイナル、ボストン・ガーデンで行なわれた第4戦は、ジョンソンが勝負強さを備えた真のスーパースターであることを証明する試合だった。残り13秒でバードに逆転3Pショットを決められ、1点を追う展開になったレイカーズだが、ジョンソンはタイムアウト後、左ウイングからのドライブでペイント内に侵入。セルティックスのケビン・マクヘイルとロバート・パリッシュの上からアブドゥル=ジャバーを彷彿させるスカイフックを見事に決め、レイカーズを勝利に導いた。

「信じられない。何と言っていいかわからない」とバードに言わせたこのショットは、レイカーズが宿敵を4勝2敗で退け、ジョンソンにとって4度目のNBA制覇を果たすファイナルを象徴するビッグプレーだった。

「ラリー・バードと私は、NBAを真にグローバルなスポーツに変えることに貢献した。我々の戦いは壮大であるからこそ、ふたりのベストを引き出すことになった。NBAが今日のような存在になったのは、レイカーズとセルティックスの戦いがあったからだ」

【突如の引退とスポーツビジネスでの成功】

 ジョンソンとバードがNBAの頂点を争うのは、1987年が最後になった。

 1988年6月、ジョンソンはセルティックスを倒したデトロイト・ピストンズとのファイナルを2勝3敗から逆転し、マジック自身初のNBA2連覇を成し遂げる。しかし、翌89年のファイナルではジョンソン自身が第2戦の途中で太腿部を痛めたことが痛手となり、レイカーズはピストンズに4連敗。3連覇を阻止されたあと、長年チームを牽引したアブドゥル=ジャバーが現役を引退したことで、『ショータイム』の時代に、終止符が打たれた。

 ジョンソンは1991年にレイカーズを再びファイナル進出へ導くなど、30代に突入しても質の高いプレーし続けていた。しかし、1991年11月7日、シーズン開幕を前に出たニュースが世界中を驚愕させることになる。それは、ジョンソンがHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の陽性であることを公表し、現役引退を決断したことだ。

 世界中が悲しむ事態に直面しても、ジョンソンはHIVに対する啓蒙活動を続けることで、多くの人たちに希望を与えた。引退した選手ながら1992年のオールスターにファン投票で選出されると、特別に出場した試合では25得点、9アシストを記録し、MVPに輝いたのである。

「試合中に負傷したら感染の危険がある」と主張してジョンソンの出場に反対する選手もいたが、NBAは出血した場合はすぐに試合を中断し、止血と傷が適切に処置されるまでプレーできない、血液がついたコートをすぐに消毒するといった規定を導入。ドリームチームの一員としてバルセロナ五輪に出場できたのは、医学的な見地から設けられたこの規定によるところが大きかった。NBAはマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズの時代に移行し始めていたが、ジョンソンがバードと一緒にプレーして金メダルを獲得したことは、バスケットボールの魅力を世界中に知らしめたという点でも大きな意味があった。

「バルセロナでドリームチームとしてプレーすることで、バスケットボールの試合がいかにすばらしいものかを世界に示せた。我々がこのスポーツに新たなレベルの興奮と情熱をもたらした」(ジョンソン)

 1995-96シーズンに一時的に現役に復帰したあと、再びコートから退いたジョンソンは、ビジネスマンとしてすばらしい成果を出している。アフリカ系アメリカ人コミュニティに焦点を当て、映画館、スターバックスとの共同出資によるチェーン店の展開、不動産投資などで成功を手にした。現在はマジック・ジョンソン・エンタープライズ社の会長兼最高経営責任者を務めており、大谷翔平が所属するMLBのロサンゼルス・ドジャースの共同オーナーでもある。

【Profile】アービン"マジック"・ジョンソン(Ervin "Magic" Johnson)/1959年8月14日、アメリカ・ミシガン州生まれ。ミシガン・ステイト大出身。1979年NBAドラフト1巡目1位指名。
●NBA所属歴:ロサンゼルス・レイカーズ(1979-80〜90-91、95-96)
●NBA王座:5回(1980、82、85、87、88)/シーズンMVP(1987、89、90)、/ファイナルMVP(1980、82、87)/オールNBAファーストチーム9回(1983〜91)/オールスターMVP(1990、92)
●主なスタッツリーダー:アシスト王4回(1983、84、86、87)、スティール王2回(1981、82)
●アメリカ代表歴:1992年バルセロナ五輪(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

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