1993年のW杯アジア最終予選、大一番の韓国戦で吉田光範が開始5分で「勝てる」と思ったわけ

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2024年07月05日 10:21  webスポルティーバ

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第27回
全5試合出場のいぶし銀が体感した「ドーハの悲劇」(3)

◆(1)いぶし銀・吉田光範とオフトの間にあった信頼関係>>

◆(2)吉田光範が明かすオフトジャパンの裏話>>

「最終予選、最大のヤマ場だと、みんな、感じていたと思います」

 アメリカW杯アジア最終予選第4戦の韓国戦は、まさしくアメリカ行きの切符をかけた"大一番"だった。

 日本代表の指揮官ハンス・オフトは、3−0で快勝した北朝鮮戦で起用した3トップ、三浦知良(カズ)、中山雅史、長谷川健太の3人をそのまま起用。中盤は、累積警告による出場停止となった森保一に代わって北澤豪が入り、逆三角形の布陣で吉田光範が左、北澤が右、ラモス瑠偉をアンカーに配置した。ラモスをアンカーの位置に下げることで、相手のマークを軽減し、できる限りフリーでボールを配球できるようにした。

「この大会では、福田(正博)の調子があまりよくなかったんですよ。一方で、キーさん(北澤)はすごくコンディションがよかったので、韓国の運動量や強さに対抗するには、一番いい人材だと思っていました。

 ラモスさんには、韓国の攻守の要となる辛弘基がベタづきしてくるだろう、という予想もあって、そこがどうなるか。(試合が始まってからは)展開を見ながら、ラモスさんと僕のポジションを変えてもいいかな、と思ってプレーしていました」

 予想どおり、ラモスには辛がマンマークでついてきた。だが、日本の「10番」が下がってプレーし、そこに辛がついてくるため、韓国のバイタルエリアにスペースができた。北澤がそのスペースを効果的に使って、日本の攻撃を引っ張った。

「試合開始から5分ぐらい経った時だったかな。テツ(柱谷哲二)と『これは勝てるわ』っていう話をしたんです。

 正直、韓国がしっかりと守備ブロックを敷いてカウンター狙いに徹してきたら嫌だなと思っていました。フィジカルでは日本より勝っていますし、やり方がはっきりしている時の韓国は強いんです。

 でも、(韓国が)ラモスさんにマークをつけてきたので、僕らが動けば韓国の動きをコントロールできる。韓国はマイボールになっても、ラモスさんについている辛が本来いないといけないポジションにいないので、うまく(攻撃を)展開できない。その分、自分たちが有利に試合を運べた。

(韓国が)どこかで(やり方を)変えてくるかなって思っていたけど、韓国は動かなかった。このままうまくいけば、『勝てる』という自信がありました」

 日本はシステムと人選がうまくハマり、吉田は自分たちが攻守に隙なくプレーできていることを実感していた。

「この韓国戦もそうなんですけど、最終的にはキーちゃんとか、健太が出てプレーしている試合では結果が出ているんです。ほかの選手がダメということではなく、組み合わせとして、そういうほうがよかったんです。

 特にキーちゃんはよかった。僕の前でアグレッシブに動いてくれるんで、守備がすごくラクになりましたし、攻撃に転じる際も前にいくスピードがありました。攻守に頼りになる存在で、僕は好きでした」

 日本は中盤を制圧することで「苦しい試合になる」という戦前の評価を覆して、試合の主導権を握っていた。

 試合が動いたのは後半だった。

 後半15分、ラモスがボールを奪うと、ちょこんと左サイドのスペースへ出した。そこにいたのは、吉田だった。

「あの時、プレスにいって前に残っていたんですが、ラモスさんから『そこに出すよ』みたいな感じで、心地いいパスがポンッと出てきたんです。中を見たらカズが見えたので、あとは(そこへボールを)出すだけでした」

 吉田からのクロスは軌道といい、スピードといい、完璧だった。そのせいか、カズのシュートは一度、不発に終わる。しかし、こぼれ球が長谷川に当たって、再びカズの前にこぼれてきた。それに素早く反応して、右足で押し込んだ。

「よく決めましたよね(笑)。さすがカズだな、エースだなと思いました。

 カズはこの代表がスタートした当時、下がってボールをもらいにくることが多かったんです。それである時、ミーティングでオフトが『日本で一番危険な選手はおまえなんだから、ペナルティーエリア近くにおまえがいたほうが相手には脅威になる』とカズに言ったんです。

 同時に、カズがゴールに専念できるようにするには、僕らがいいタイミングでボールを出していかなければいけない。僕はFWをしていた経験があったので、カズの気持ちがわかったし、いかにいいボールを(カズに)供給できるかを徹底的に考えていました。

 ですから、大事な試合で、映像と記憶に残るゴールをアシストできたことはうれしかったです」

 もともとFWだった吉田は、ゴールへの意識が高い。それを思えば、「自分が」と考えてもおかしくないが、当時の吉田にはそういった考えは一切なかった。

「僕はドリブルとかが苦手なので、その苦手な部分を出さないように、(ボールを奪ったら)ラモスさんに早くつけたり、すぐに前線の選手にパスを入れたりしていました(笑)。ペナルティーエリア内に入っていくスピードも落ちていましたからね。

 僕の下手なプレーとか、誰も見たいと思わないですよ。だから"自分が"というより、自分のやれることをやっていました」

 吉田のアシストから生まれた貴重な1点を日本は守りきり、宿敵・韓国に快勝。勝ち点5でサウジアラビアと並んで、得失点差でトップに躍り出た。

 カズは予選突破に大きく前進した勝利に男泣きした。大一番での勝利にチームは沸いていた。だが、ラモスだけは厳しい表情を見せた。「まだ何も終わっていない。何も得ていない」と言い放ってバスに乗り込んだ。

「僕もラモスさんと同じ気持ちでした。韓国に勝ってW杯のチケットを手に入れたわけではないですし、『アメリカが見えた』とか、まったく思わなかったです。それよりも、次のイラク戦までに体のメンテナンスをしっかりしないと、ヤバいことになるって思っていました」

 誰かを試すといった余裕がないほど厳しい戦いが続いたこともあるが、オフトはスタメンをほぼ固定して戦った。初戦のサウジアラビア戦から中2日、あるいは中3日で4戦をこなした主力選手たちは、高温多湿の条件も重なって疲労困憊だった。

 吉田も途中交代した2戦目のイラン戦以外は、すべて先発フル出場。運動量が求められるポジションゆえ、体の深部に重たい疲労が溜まっているのを感じていた。

「韓国戦は一瞬も気が抜けない厳しいゲームだったので、かなり疲れました。次のイラク戦まで中2日。それまでにいかにリカバリーできるかが重要だったので、その日は食事をしたら、すぐにマッサージをして体をほぐしてもらいました。その後は、みんながビデオとかを見て、くつろいでいた部屋には行かず、そのまま部屋に戻って寝ていました」

 疲弊した体を何とか動かしていたのは、あとひとつ勝てばW杯に行ける――その思いだけだった、と吉田は言う。

 食事の際も、「あとひとつ勝ってアメリカに行こう!」と声が響いた。チームのモチベーションが高く、やる気に満ちていた。吉田も、このチームで戦える最後の試合にすべてをぶつける覚悟でいた。

 1993年10月28日、イラク戦が始まった。勝てば、W杯初出場が決まる重要な試合。日本は前半5分にカズが先制ゴールを決め、いい流れで前半を終えた。

「早い時間の得点だったんですけど、早々にアドバンテージを得たことで試合を優位に進められるので、非常に大きかったです」

 しかしそんな思いとは裏腹に、吉田はそれまでの戦いとは異なる、自分の動きに違和感を覚えていた。

「イラクはそれまでの試合に出ていない選手が多く、フレッシュな状態で、スピード感のある攻撃を仕掛けてきたんです。僕らはそれに対応しようとしていたんですが、頭ではこう動こう思っても、それより一歩、二歩(自分の動きが)遅れるというか、加速できないというか、(自分の思いよりも)足が遅れて動く感じだったんです。

 みんなも体があまり動かない感じで、結構キツそうでした。最終予選が始まって5試合目で、自分も含めてみんな、激戦の疲労がかなり蓄積されているんだなと思いました」

 ハーフタイム、ロッカールームに戻ってきた選手たちは興奮し、それぞれ言いたいことをまくし立てた。それを見かねたオフトが「静かにしろ!」と大声で怒鳴ると、誰もが我に返ったように冷静さを取り戻した。

「あと45分。死ぬ気で頑張ればアメリカに行ける――そういう気持ちの高まりがありました」

 ラモス以外、自分たちが世界への扉の、すぐ手前まできていることに気持ちの高ぶりを抑えきれなくなっていた。だが後半9分、その気持ちに冷水をかけるかのように、イラクが同点ゴールを決めた。

「ただ、追いつかれたのは、後半の早い時間。まだ時間はあるし、ダメージはそれほどではなかった。

 失点はテツがクロスにかぶったんですが、普通ならボールに触れていたと思うんです。でも、ドーハにくる前まで(柱谷は)肝炎で静養し、急ピッチでコンディションを回復させてきた。厳しい試合の連続で相当疲弊していたと思う。

 もちろんテツだけじゃく、僕らみんな、動きが鈍くなっていた。逆に、イラクの選手たちは動けている。負けてはいないけど、追い込まれていく感じがすごくありました」

 プレーが途切れた時、吉田はベンチを見た。この状況を変えるため、オフトは誰を投入してくるのだろうか。吉田は、ある選手の投入を望んでいた。

(文中敬称略/つづく)◆ドーハの悲劇が起こる直前、「武田修宏はドリブルしていった...」>>

吉田光範(よしだ・みつのり)
1962年3月8日生まれ。愛知県出身。刈谷工高卒業後、ジュビロ磐田の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハに入団。当初はFWでプレー。その後、中盤にポジションを移しても高い能力を発揮。攻守に安定したプレーを見せて、ハンス・オフト率いる日本代表でも活躍。1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年W杯アジア最終予選でも全試合に出場した。現在はFC刈谷のテクニカルディレクターを務める。

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