私が選挙に行く理由。折坂悠太、柚木麻子、SIRUP、曽我部恵一、コムアイ、三宅唱ら11人が寄稿《都知事選》

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2024年07月05日 17:10  CINRA.NET

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Text by CINRA編集部
Text by 今川彩香

7月7日に投開票される東京都知事選挙。21回目となる今回は、過去最多の56人が立候補しています。

私たちの暮らしにおいても、芸術文化においても、政治は複雑に絡み合っています。首長や議員を決める選挙は、政治の根幹でもあるでしょう。選挙権がある人にとって、一票に込める思いはそれぞれあるのだと思います。

あなたはどうして選挙に行き、投票をしますかーー。芸術文化に携わっているアーティストやライター、作家の方々の計11人に、その理由を寄稿してもらいました。

ISOさん、折坂悠太さん、コムアイさん、近藤銀河さん、SIRUPさん、SYOさん、鈴木みのりさん、曽我部恵一さん、堀由貴子さん、三宅唱さん、柚木麻子さん(五十音順)が、コメントを寄せてくださいました。

政治家は法を犯しても償わなくてよい。利益誘導は好き放題してよい。税金の使い道を黒塗りで隠匿してもよい。会見で忖度しないメディアは排除してよい。不都合な質問をされても無視してよい。特定の属性に憎しみを向けてもよい。嘘だらけで不誠実な政治をしてよい。

知らぬ間にそんな「異常な当然」が作られていた。そんなものだと感覚を麻痺させられようとしていた。そんなこと断じて許してはいないと突きつけるために投票に行く。日本で暮らしていながら選挙権を持てない人々の生活も背負った、重い、重い、一票を持って。

あなたの通りでよく遊んだ。
翌る日にひとり、そこで看板を見た。どんな感情をたたき起こすのもおっくうで通りすぎた。電車を乗りつぎ、通りを一本入った家に帰りドアを閉めたとき、私は腹が立った。
あなたの通りでよく遊んだ。そこは、通りすぎた私の通りでもあった。私はまた怒ろう。まるでそれが、はじめての仕打ちであるかのように。

選挙で誰に投票するか迷ったら、
消去法で決めること、
戦略的にすること、
をおすすめします!

なぜなら自分と全く同じ考えの人なんていないし、
政治家に陶酔しても、裏切られる可能性だってあるから。

候補者の中から、例えば私の場合は、
レイシストや人権侵害をしている候補者、
戦争をしようとしている候補者など、
政治はこうあってほしいという理想から遠い人から消していって、残った候補者に投票します。

戦略的に投票するのは、自分の票が生かされるために!
応援したくても、全く勝てそうにない候補者の場合は票が反映されなくなってしまう。
もしくは、複数人当選する可能性があるなら、当然勝つよなーって余裕がある候補者に入れても票が無駄になってしまう。
それは勿体ないので、世論調査を見て、競っている候補者に入れます。

といっても、私はまだまだ無知だし、毎度学びがあります。
失敗しながら、でも諦めずにみんなで良い政治を求めていこう!

バスに乗る時、あなたは何を思うだろうか? 電車に乗る時、あなたは何を思うだろうか?


電動車椅子を使っている私が思うのは、先人が権利を求めたから私はここにいる、ということだ。障がい者の権利は、常に戦いの中にある。今は車椅子でもバスに乗れるが、日本で車椅子でのバスへの乗車に関する制度が整備されたのはほんの三十年前のことで、その背後には長い闘争の歴史があった。
今、自分が享受している障がい者の生は、先人が獲得してくれた権利の上に成り立っているのだ。合理的調整により自分が権利を持っていると感じる際に、あるいは、調整がいまだにされていない大きなバリアに遭遇する際に。私はそれを実感する。
また、性的マイノリティとしての自分もそうだ。私はパンセクシュアルでもあるが、同性間のパートナーシップに関する権利は目の前で少しずつ形作られていっている。少なくとも、少しずつ、それを語ることができるようになってきている。それもまた、長い長い権利を求める戦いの歴史を受け継いだ帰結だ。
そして、その権利を求める闘争とは政治のことである。サービスの利用、調整の要求、請願、デモ、etc。日常の中で政治は多様な形態と濃度を取る。
現在の日本の政治制度で大きな位置を占めているのが、選挙だ。女性として暮らすこの私が持つ、選挙への一票も、世界中の先人が必死に繋ぎ止めた権利の一つである。かつて男性や、富裕層ではない人間に、選挙権はなかった。
私が選挙に行くのは、それら獲得してきた権利を、また次の誰かに繋げていくためだ。私の日常と世界は、そうしてリレーされてきた権利によって成り立っているから。
その権利が蹂躙され、失われ、後退し、あるいは拡大が止まり、不当なままにする、そのような事態を止め、奪われて久しい権利を取り戻していきたい。だから私は選挙に行く。

生活の中での選択に、実は政治にかかわらないものはないのです。

今感じている個人的な社会や未来への不安など、全て政治次第で解決できることも沢山あります。

それをあなたがあなた自身で変えたり、より良い生き方を得るための権利、それが選挙権です。

自分は沢山の人の選択肢を増やしたいし、もっとあらゆる文化が大事にされてほしい、そして何より腐敗した政治を打破したい。なので選挙に行きます。

そしてこれからも、この国を仕切るオーナーである1人の国民だということを忘れず、政治から目を離さずに、より良い社会を作るため選挙に行き続けます。

自分の人生のために選挙に行きましょう!

恥ずかしながら自分も大学生時代、選挙投票をパスしてしまう人間でした。そこに大した理由や動機、主義などはなく、ただ単に「億劫だから」「忘れてた」「よくわからない」「用事がある」といったものだったように思います。Netflixシリーズ『新聞記者』の中で「どうせ政治って上の人が決めてるんでしょ」というようなセリフがありますが、そう嘯いてせっかく与えられた権利を放棄してしまっていました。それは翻せば、自分や社会の将来を楽観視していたのだと思います。なんとなくこのまま、不平や不満を持ちながらもどうにかこうにか一生を終えるのではないかと。社会人になり、数年間は激務に追われて選挙は行ったり行かなかったり。ただ、いま思うとモチベーションは決して高くありませんでした。自分事化できておらず、ただ「選挙に行っていないことを周囲に非難されたくない」というような体面のために足を運んでいた節があります。そのため、各立候補者の公約を頭に入れて誰に投票するか吟味していなかったように思います。「後悔先に立たず」といいますが、もしあの当時ちゃんと意志を持って行動していたら……と今さらながら悔やんでいます。

斜陽、混沌、先細り――形容の仕方は様々ですが、日本という国の行く末を不安視していない方のほうが少ないのではないでしょうか。特別意識していなかったとしても無視できないほど、“異常”が視界にちらつくようになってしまったいま。取りこぼされる人を減らすはずだった終身雇用制度は形骸化し、デジタル化の波に乗り遅れ、ガラパゴス化は加速。いまや物価の上昇や光熱費の高騰は家庭に大打撃を与え、従来までの「普通」が「贅沢」へと変わってしまいました。慎ましくも丁寧に生きる状態を示した「清貧」なんていう言葉は、過去の遺物になってしまったのかもしれません。コロナウイルスの影響や戦争等、一般の人々が予測しえない事態が発生したこともありますが、為政者を本気で選んでこなかった自分(たち)のつけが回ってきた側面は、少なからずあると感じます。

総務省統計局が2023年4月に公表した日本の人口推計(2022年10月現在)(※)によると、日本の総人口における65〜74歳の割合は29.0%、75歳以上の割合は15.5%。全体の3分の1以上を高齢者が占めています。つまり、有権者の中で「若者の意見が通りにくい」状況が既に出来上がってしまっているのです(現状の社会システムの所々にも、その傾向がみられます)。若者たちに政治を任せるプロジェクトを描いたNHKドラマ『17才の帝国』の中に「逃げ切れる人たちの方を向いてどうする」というようなセリフが登場しますが、仮に自分がその世代だったとして、自分たちが不利益を被っても未来に投資する決断を出来ただろうか――と自問自答したとき、すぐに決断は下せません。

既得権益がいまを食いつぶして未来に残さず、全体が終焉に向かっている状況。その結果を招いたのは、ただでさえ数的に不利な自分たち世代が置かれた状況を理解せず、多くの歳月を黙って過ごしてきてしまったからでもあります。これは特定の他者を責めているのではなく、「この状況を強固にするプロセスに加担してしまった」僕自身への自戒です。その中でいま自分ができることのひとつが、選挙に行って投票することなのです。二児の父としても、今より少しでもいい未来をこれからの世代に遺したいと願っていますし、その礎を作る一助として、或いはこれ以上の最悪を引き起こさない歯止めとして――与えられた「選挙権」を使いたいと思っています。

選挙権を得てから(おそらく)すべての選挙で投票してきた。高知県にずっと住む、ノンポリというか、消極的な保守層である両親から政治の話をされたことなどないし、そんな家庭でなぜ投票に行くようになったかは覚えていない。ただ、20代後半くらいからは、投票したら終わりではなく、投票してもしなくても、当選して国や自治体の首長や議員になった人たちが何をして何をしなかったのかをできるだけ見て、次の選挙で評価しようということは考えてきた。例えば議員や首長をつとめながら、公約を破ったり差別に加担したりしてきた人には投票なんてしないし、やめてもらいたい、と思って他に投票すると決めるように。さらにこの10年は、社会や世界といった抽象度の高い「政治」というより、自分の生活に危機として政治が影響すると感じるようになって、それをどうにかするために、自分の安全のために周りにも話していかないと、という意識が強くなっていった。ただ、これは多くの人には共有できない切実さだろうから困ったもので、いまだに説得力のあるかたちでうまく話題にはできない。怠けた日常でずっと気を張ってもいられず、選挙の時期になってやっとまた「隣人にどう話していくか、どう語り合っていくかが課題だ」ということを思い出して、両親はもちろん周囲の友人・知人とも自分に及ぶ危機と政治の関係についてうまく話せていないことを思い出して、じくじくしながらまた投票に行く。

20代の頃は政治や社会に対する関心がぜんぜん持てず、選挙へも行きませんでした。

30歳で家族ができてから、この国のシステムからどうしても逃れられないような場所に自分はいるんだなと感じるようになり、社会参加することが家族とともに生きるものの義務のような気がうっすらとしはじめたので、嫌々ながらも投票所に足を向けるようになりました。

投票に行っても、夜になって開票速報を見ていると、落胆することのほうが断然多かったです。

自分が「この人良いな」「この人や政党に政治を託したいな」と思う対象は、落選してしまいます。
物心ついた頃からなんとなく感じてはいましたが、どうやら自分はこの社会において少数派のようです。投票所に行くようになった自分の経験の中で、ぼくはそんなことを思い知らされました。

だからこそ、ぼくはできるだけ欠かさず選挙へ行こうと考えるようになりました。

少数派はどんなに少なくてもゼロではありません。でも、少数派の人たちがみんな諦め、嫌気がさして政治参加しないとしたら、ゼロだと見なされてしまうかもしれません。そんなことはぜったいにイヤなので、ぼくは選挙に行きます。

もしかしたら、今は常識である「日本は戦争をしない国」という約束も、その考え方が少数派の意見になり、覆されてしまうことだってあるかもしれません。

数の力は強大です。しかし、小さな意見の価値が劣るということはぜったいにありません。

自分がそんな思いを社会に届け、政治に反映させるためにできることの第一手段が投票なのだとしたら、ぼくはやはり選挙に行くしかないのです。

投票しても、モヤモヤは晴れない。でも、そのモヤモヤと関わりあうことの先に、私たちの未来はある。

これまですべての選挙で投票してきた。というのは少し嘘で、かつて一度だけ棄権したことがある。理由は忘れたが(事前の当落予想があまりに絶望的だと感じたせいだった気もするし、棄権するとどういう気持ちになるのかつい出来心で実験してみたくなっただけのような気もする……)、棄権には何の意味もない、本当にない、一切ない、無、と自分の行動につくづくガッカリしたのは覚えている。他人のことは知らないが、自分の場合はそうだった。今回の投票日は仕事で行けないので、期日前投票に行った。夕方に気がついて慌てて調べると割と遅くまでやっていて、間に合ってよかった。一覧をみて、こんなに出てるのかと改めて唖然としつつ、名前を探した。

選挙にいかないと、社会にコミットしている感覚がなくなるので、生活全部の味が薄くなるから

都知事選を前に、芸術文化に関わるさまざまな方に、「投票する理由」について寄稿をしていただきました。
立候補者が史上最多となった今回の都知事選は、掲示板が同じポスターでジャックされたり、政策について全く触れられない政見放送が放送されるなど、とにかく異例づくしです。気が滅入り、怒りすら感じる中で、思い思いに綴られた言葉の数々を読み、それでも投票することには大きな意味があるのだと、前を向くきっかけをいただきました。
私は、投票をすることは「意思表示」であると考えています。
社会にこうあってほしい。
自分が今、不安に感じていること、苦しんでいること、疑問に思っていることに、もっと目が向けられてほしい。なんとかしてほしい。
投票とは、自分の意思を再確認するものであり、自分の意思を託すものだと思います。
そして、たくさんの人が意思表示できる社会の方が、息苦しくないし、生きやすくなるのではないか、と思います。

皆さんが選挙に行く理由はなんでしょうか? もし、行かないのであれば、その理由はなんでしょうか?
この企画を通して、読者の方々に何かを感じていただけたら嬉しいです。(CINRA編集長・生田綾)

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