武藤雄樹35歳が語る、自らのサッカー人生と残りの現役生活「まだ自分に期待している部分がある」

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2024年09月21日 10:10  webスポルティーバ

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SC相模原
武藤雄樹インタビュー(後編)

――武藤選手は今季がプロ14年目のシーズン。長くJリーガーとして活躍していますが、いつ頃からプロを目指していたのですか。

「子どもの時から『いつかプロになりたいな』って思いながら、ずっとサッカーを続けていましたけど、明確にってなると、高校の時に一度、柏レイソルの練習に参加したことがあって、そこからですね。その時はプロになれなかったんですけど、練習に参加してみて、もしかしたら手が届くかもしれないなって感じた部分もありましたし、そこから流経大(流通経済大)に進学して、本気で目標にしました」

――大学卒業後は、何が何でもプロになってやるぞ、と。

「そんな感じでしたね。もともとは高校を卒業してプロになりたいという夢があったんですけど、僕はアンダー(年代別)の日本代表どころか、神奈川県選抜にも入っていないような選手だったので、現実的にはやっぱり難しいのかなと感じていましたし、選手権(全国高校サッカー選手権大会)に出てアピールするんだとも思っていましたけど、結局出られませんでしたし。

 でも、流経大に行けば、必ず4年後にはプロになれるという思いで大学には入りました。実際にプロになっていく先輩たちを見ながら、ここで頑張れば必ずプロまで行けるんだっていう思いを持って、4年間過ごしていました」

――無名の高校生がプロの練習に参加してみた実感は、どんなものでしたか。

「僕は昔、結構ドリブラーだったので、ボールを持ったら仕掛ける感じでしたけど、意外とドリブルが通用したというか、紅白戦で点を決めたりして、やれるんじゃないかって思いました。でも、その反面、タッチ数に制限がついたゲームをやると、そこではまったく何もできない。『こんなに判断のスピードが違うのか』『これがプロのレベルなのか』と思い知らされました。

 レイソルの当時の強化部の方からも、『まだプロのスピードに追いつけてないね』って言われましたし、そこは納得できるところでした。もう一段階上のレベルでサッカーに取り組みたくて、強い大学に行きたいって思ったんです」

――今ではワンタッチゴールのイメージが強い武藤選手ですが、ドリブラーからどのようにプレースタイルが変わっていったのですか。

「大学入学当初もドリブラーとしてやっていて、1年の時にJFLで結構活躍することができて(21試合出場15ゴール)、その時はほとんどドリブルシュートを決めているような感じでした。でも、2年の頃から壁にぶつかり始めて思ったように抜けなくなって、『このままだとヤバいな』って......。もっと動き出しの質を身につけなきゃいけないんじゃないかと思って、3年くらいから佐藤寿人さんを目標にしながら、ボールを持っていない時の動きにフォーカスし始めたことがだんだん自分の力になって、強みに変わっていきました。それがうまくいくようになったのは、大学4年くらいだと思います」

――ですが、ベガルタ仙台時代に見た武藤選手には、まだゴリゴリとドリブルで突き進んでいく印象がありました。

「その頃のことも覚えています。(流経大から)仙台に入る時にも、『(オフ・ザ・ボールの動きに優れた)佐藤寿人っぽい選手が来る』っていう触れ込みで入ったんですけど、当時の仙台はしっかりとした守備からカウンターという速いサッカーをしていて、なかなかボールがないところで駆け引きをするタイミングがなく、自分の強みが生きなかった。サイドハーフで出ることも多くなったりしていたので、これならもっとドリブルを生かしたほうが自分の力を出せるんじゃないかと、もう一回昔に戻ったような感覚でやっていました。それは、その時、その時でチームのスタイルに合わせなきゃいけなかったからですね」

――それが、今度は浦和レッズへ移籍したことで......。

「浦和では、ボールを握って前でプレーする時間が長かったですからね。よりゴール前でマークを外すとか、駆け引きができる時間が増えて、何回もやり直すことができた。そこで(浦和のスタイルに)パチッとハマることができて、結果がついてきたんです。(チームのスタイルによって)自分のプレーを変えられるだけのものを培ってきてよかったなと思いましたし、そのおかげで、チームや監督が求めるものに合わせられたんだと感じます」

――浦和では2年連続ふた桁得点を記録しました。

「やっぱり僕は、高さもスピードも突出したものはないですし、特別なフィジカルがあるわけではない。何ができるかって言ったら、常に準備し続けるとか、動き続けるとか、そういったことだと思っています。

 当時のミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)のサッカーでは、常にいいポジションを取ることがすごく求められていて、僕のやれることがマッチするなとは感じていました。どこで相手のマークを外して、どこで味方からのパスを引き出してとか、本当に頭をフル回転させてプレーしていましたし、自分の運動量なんかが生きるシャドーというポジションも、本当にマッチしていたのかなと思います。

 あとは、やっぱり周りの選手との相性にも助けられました。興梠慎三さんというエースストライカーがいて、本当にボールを収めてくれるので、(彼の)周りを動けばチャンスになりましたし、そこでは柏木(陽介)さんからスルーパスが出てくる。自分の特長を引き出してくれる選手が周りにたくさんいたことも、自分にとってはすごく大きかったです」

――その結果、2015年には日本代表にも選出され、東アジアカップに出場しました。結果を出し続けていたことが、自信になっていましたか。

「自信はありましたね、やっぱり。上を目指したい、代表を目指したいっていうギラギラした気持ちも持っていました。ただ、どんどん上に階段を登っていきたいなと思う反面、日本代表では個人の力も必要とされているんだなっていうのはすごく感じて......。

 ミシャのサッカーって形がはっきりしていたので、割とやることがわかりやすかった。チームが常にいい距離感にあって、サポートのいる位置がなんとなくわかって、阿吽の呼吸でサッカーができていたのが浦和だったんですけど、やっぱり代表にポンと入った時に、もう少し個の力でなんとかできないと、きっとここではやっていけないんだろうな、とも感じたんです。

 代表に呼ばれて、出た試合では点を取ることもできたので、やれる自信があった一方で、当時の日本代表には香川真司選手、本田圭佑選手とか、技術的に優れた選手がいて、そこに勝たなきゃいけないんだなと思った時に、自分はまだまだ力が足りない部分があるなとは思っていて......。東アジアカップ(の2試合)でゴールを決めて、『次もワンチャン呼んでくれよ!』と思っていたんですけどね(苦笑)。次に呼ばれなかったので、きっとそういうことなんだろうなって、自分のなかで納得した部分はありました」

――当時のヴァイッド・ハリルホジッチ監督は、特に個の力を重視する傾向が強い監督でした。

「そうですね。僕は相手と駆け引きしながらゴールを決めて、自分の特長は出せましたけど、その反面、ひとりで打開できたかっていうとアジア相手でもそこまでできた実感はなかった。それだったら、世界で戦っている(海外組の)選手が呼ばれるのは当然なんだろうなっていうのは感じていました」

――今振り返って、日本代表に定着できなかった悔しさと、一度でもそこにたどり着けた誇らしさ。どちらが大きいですか。

「基本的には、悔しさしかないですね。やっぱり子どもの時から日本代表で活躍することが夢でしたから。そんな姿を夢に描いてサッカーをしていたので、なんて言うんだろう......、一発屋で終わりたくなかったというか......。

 もちろん、日本代表で試合に出られたことは今でもうれしいですけど、声を大にして『オレは日本代表だったんだぜ!』って言えるかというと、そんな感じではないなと個人的には思います。長くいなきゃ意味がないとは言いませんが、本当の意味での日本代表とは誇れないなって思いますし、海外組が入ってきたなかで、もっともっと日本代表に絡んでいきたかったなって思います」

――お話をうかがった最初に「年齢的にキャリアの終わりが見えてきた」という話もありました。今は残された現役生活をどう思い描いていますか。

「難しいですね。年齢的には引退が近づいているところだとは思うんですけど......、う〜ん......、やっぱり自分に期待できる部分があるなら、まだやるべきというか、そういうところは思っているので。最初にも話したように(柏を最後に)引退を考えていたところもあったんですけど、いろんなことを考えた時に、まだ自分に期待している部分があって、『まだできる!』『まだ走れる!』『もう一回ゴールに向かえる!』、そんな気持ちがあるので、その思いがある限りはプレーしたい。

 もちろん、実際は結果を出さなければ生き残っていけない世界なので厳しい部分はありますけど、もう(現役生活は)あとわずかだと思うので、人生をかけてチャレンジしたい。その舞台が相模原であることに、今はうれしさを感じています」

――地元でプレーできることが、もうひとつ自分の背中を押してくれる、と。

「本当にそうですね。さらに自分のモチベーションを上げてくれて、なんとかよりよい結果を出したい、という思いにさせてくれます。自分が何かに貢献できたり、誰かにパワーを与えたりすることにつながっているならうれしいし、そのためにはピッチに立たなきゃいけないし、結果も出さなきゃいけない。そこに挑戦したいっていう思いを、今は強く持っています」

(おわり)

武藤雄樹(むとう・ゆうき)
1988年11月7日生まれ。神奈川県座間市出身。武相高→流通経済大。2011年、ベガルタ仙台入り。2015年に浦和レッズへ完全移籍し、同シーズンと翌2016シーズンにふた桁ゴールを記録。主力選手として活躍し、数々のタイトル獲得にも貢献した。2015年には日本代表入りも果たし、東アジアカップで2試合に出場し2ゴールをマーク。その後、2021シーズンの途中に柏レイソルに移籍。そして今季、8月に地元のSC相模原に加入した。

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