トト・スキラッチの物語(前編)
90年イタリアW杯の得点王で、ユベントス、インテル、そしてジュビロ磐田でもプレーしたサルヴァトーレ・スキラッチががんで亡くなった。まだ59歳。あまりにも早すぎる逝去にイタリア中がショックを受けた。
「トト(スキラッチの愛称)には最後まで驚かされっぱなしだった」
イタリア代表とユベントスでコンビを組んだロベルト・バッジョはそう投稿して、早すぎる彼の死を悼んだ。
スキラッチの亡骸は、すぐにパレルモFCのホームスタジアム、スタディオ・レンツォ・バルバラに運ばれ、そこで数日間、人々の弔問を受けた。スタジアムの外には、最後にひと言、トトに挨拶をしようと、長い列ができていた。金曜日に行なわれたパレルモの大聖堂での葬儀には、クラブやアッズーリ(イタリア代表)の元チームメイトやサッカー協会、かつて所属したチームの幹部らが参列。中に入りきれなかった人々が広場を埋め尽くしていた。
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葬儀の様子は生配信され、まるでシチリア王国の国葬という感じだった。歴代チームのユニフォームに包まれた棺が現れると、パレルモのウルトラスがお馴染みの「トト・スキラッチ!」コールで迎え、教会はまるでスタジアムのようになった。
それにしても、これは非常に稀有なことだ。なぜならスキラッチはパレルモではプレーしたことがないからだ。パレルモは10代のスキラッチに数十万円を出し渋り、彼をライバルのメッシーナに奪われたのだ。だが、彼の心は常にパレルモにあることは誰もが知っていたし、何より彼はパレルモの、シチリアの人々にとっては英雄、いやそれ以上の特別な存在だった。
イタリアで「人種問題」というと、主に南北問題を意味する。
イタリアは南北に長く、北と南では風土も文化も人となりもまるで別の国のように違う。イタリア人と話していると「北が」「南が」、というフレーズがよく出てくる。
アルプスが連なる北部は、他のヨーロッパ諸国に近いため経済的に発展した。一方、南は地理的にはアフリカに近く、土地は痩せ、これといった産業がない。
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【シチリア出身者への偏見】
北の人間は、自分たちが稼いだ金が南に吸い取られていると言い、南の人間は、北の人間ばかりが優遇されていると思っている。北は南を「テッローネ(狂った土地)」と呼び、南は北の人間を「ポレントーネ(ポレンタ食い、ポレンタはトウモロコシの粉を練ったもので、北部ではよく食べられる)」と呼んで罵る。
サッカーの世界では、よくサポーターの差別的チャントが問題になるが、イタリアの場合、この"差別"とは国内の差別、つまり北から南への差別であることも多い。なかでもイタリア最南端のシチリアは、どこの地域よりも特別な目で見られる。
シチリアは眩しい太陽と青い海に囲まれた美しい島だ。しかし、光が強ければ強いほど、闇も濃くなる。その闇の部分がマフィアだ。シチリアの人は誇り高い。もともとはマフィアという集団も、何もしないお上に頼ることを潔しとしないシチリア人の気質から生まれたと言われているが、今はそれが彼らを苦しめている。イタリアではいつまでたってもシチリア=マフィアなのである。
数年前、筆者はスキラッチの自伝を翻訳したが、それは「ファルコーネ事件」のシーンから始まっていた。1992年5月23日、マフィアの捜査をするために鳴り物入りでシチリアに送り込まれた判事ジョヴァンニ・ファルコーネが、パレルモの高速道路に仕掛けられた爆弾で殺された。そしてユベントスの一員として試合前のホテルに宿泊していたスキラッチを、当時の監督ジョヴァンニ・トラパットーニは「お前たちが判事を殺した」と責めるのだった。
実際、北のユベントスに移籍してから、シチリア人のスキラッチは多くの差別にあってきた。ユベンティーノ(ユベントスのファン)も彼の加入に対し、とても冷ややかだった。南の人間は、ユベントスにはふさわしくないと思われていた。
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スキラッチの話によると、朝起きると「テッローネ、南に帰れ」という落書きが家の壁に書かれていることもしばしばだったし、彼が初めてイタリア代表に選ばれた時も「スキラッチが代表? そう、アフリカ代表だ(北の人間が南の人間を中傷する際、"イタリアでなくアフリカ"と言うのは常套句)」との文字があったという。
スキラッチは、ゴールを決めることだけが、彼らを納得させる唯一の方法だと思っていたようだ。
【イタリアW杯で変わった空気】
南イタリア出身で大成した選手は、北に比べて極端に少ない。シチリア島だけでもクロアチアに匹敵する人口があるというのに、成功した選手は片手で数えられるほどだ。現在のセリエAでも、南のチームはナポリとレッチェのみ。シチリアのチームは皆無だ。その壁の高さがわかるだろう。
ところが90年のW杯では、そのシチリアの人間が全イタリアの顔となった。イタリア代表には最後に招集され、ほぼ出番はないと思われていたスキラッチが、不調の主力選手たちに代わって出場し、ついには得点王になり、国中を沸かせ、イタリア全土の英雄となる。日本人の私たちが想像する以上に、これはイタリアでは特別な出来事だったのである。
スキラッチ自身はかつてこう言っていた。
「俺はテッローネだからという理由だけで、イタリアの半分のスタジアムで罵りとブーイングを受けてきた。しかしW杯が始まってから、周りの空気が変わった。アンケートでは2200万人のイタリア人が、俺を『一番好きな代表選手』に選んでくれた。ミラノの、フィレンツェの、トリノの広場で、人々がイタリア国旗を振りながら、俺の名前を喜びながら叫ぶのを聞いた。3週間で『シチリアーノ』という言葉は、ネガティブではなく、ポジティブな意味になった」
スキラッチは北と南の垣根を外して、イタリアをひとつにしたのだった。
現ナポリ監督で、かつてのユベントス時代のチームメイト、アントニオ・コンテは、スキラッチという存在をこう語っている。
「トト・スキラッチは単なるサッカー選手ではなかった。我々南部の象徴であり、南の人間であっても成功することができるという夢を与えてくれた」
そう考えると、パレルモの人々の彼への愛着がよく理解できる。
一度、北に出た南の選手の多くは、そのまま北に住み続けることが多いが、スキラッチは違った。日本から帰ると、すぐに故郷のパレルモに舞い戻り、その後は決してその地を離れなかった。
(つづく)
サルヴァトーレ・スキラッチ
1964年、パレルモ生まれ。メッシーナ、ユベントス、インテルで活躍。イタリア代表では1990年イタリアW杯で6得点を挙げ得点王に輝く。1994年、ジュビロ磐田入団。1997年、まで在籍し56得点を挙げている。1997年、現役を引退。2024年9月18日、死去。