ケンコバが振り返る越中詩郎の「禁断の試合」 ザ・コブラのための大会で目撃したある異変

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2024年09月25日 10:10  webスポルティーバ

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ケンドーコバヤシ

令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(14)

越中詩郎「禁断の試合」 前編

(連載13:越中詩郎45周年記念大会での場外乱闘の真相 直前に全日本の社長からの謎のひと言>>)

 子どもの頃からあらゆる団体の試合を見続け、各メディアで"プロレス愛"を披露してきたケンドーコバヤシさんが、独自の目線で名勝負を語り尽す連載。第14回は前回に続き、『アメトーーク!』などでその魅力を語り尽した越中詩郎。今回はケンコバさんが思う「禁断の試合」について語る。

【"外様"なプロレス人生】

――前回は越中さんのデビュー45周年記念大会についてお話を伺いました。今回は「禁断の試合」について語っていただけるとのことですが、「禁断」とはどういう意味なんでしょうか?

「まず言っておきたいのは、俺のなかでの越中さんの"ベストバウト"は、1試合ではないですけど、高田延彦さんとの一連の抗争です。これはおそらく、多くのプロレスファンも同じ意見だと思います」

――1986年から翌87年にかけて、新日本マットで繰り広げられたUWF・高田延彦さんとの一騎打ちですね。当時、「ジュニアの名勝負数え歌」と絶賛され、今も昭和プロレスファンが語り継ぐ名勝負です。

「俺も高田さんとの試合は、最高の試合として今も脳裏に刻み込まれています。ただ、今回語りたいのは禁断の試合。そのハードルを飛び越えたところが、俺が越中さんを好きになった原点でもあるんです」

――具体的に教えていただけますか?

「まず、越中さんの45年のプロレス人生を振り返ると、越中さんはどこにいても"外様"で生きてきた方なんです。厳密に言えば、全日本プロレスのデビュー4年目でルー・テーズ杯を制覇した以降は、外様も外様、"オール外様"なんです」

――ルー・テーズ杯は当時、全日本が若手のために開催したリーグ戦ですね。優勝者には海外武者修行の"ご褒美"がついていました。1983年の4月22日に札幌・中島体育センターで行なわれた決勝戦で、越中さんが三沢光晴さんを破って初の海外遠征の切符をゲットしました。

「この試合はテレビ中継されて、俺も『全日本に活きのいい若手選手が出てきたな』と期待しました。海外でさらに飛躍するんだろうと思っていたんですけど、メキシコに旅立ったのは優勝から11カ月後の翌84年3月です。しかも、準優勝で切符がないはずの三沢さんと一緒という......ある意味では、この時から団体内でも外様だったのかもしれません」

――メキシコでは「サムライ・シロー」のリングネームで活躍しますが、紆余曲折があって全日本を退団。1985年の夏から新日本プロレスに参戦します。

「しかも新日本の所属ではなく、所属選手は越中さんがたったひとりという『アジアプロレス』という団体の選手として参戦したんですよね。このアジアプロレスから、越中さんの"外様人生"が本格的に始まりました。そこから時を経て、反選手会同盟、平成維震軍......どこにいても外様だったんです」

【試合開始早々に、ザ・コブラから強烈な一発】

――2003年3月に旗揚げされた「WJプロレス」では所属選手でしたが......。

「WJ......この団体についてもいつか、しっかり語らないといけないですね。WJは、越中さんにとっての"黒歴史"という意味で、外様と同義語だと俺は思っています。

 越中さんは外様で生きてきたからこそ、『この試合の出来次第では冷遇もあるぞ』っていうターニングポイントがめちゃくちゃ多いんです。しかも、頑張れば頑張るほど冷遇されるかもしれないといったギリギリの戦いが本当に多い。

 前置きが長くなりましたが、そんな危機に立たされた試合を、俺は『禁断』と呼んでいるんです」

――なるほど。

「冷遇の危機を俺が初めて理解した試合が、1986年2月6日、両国国技館でのザ・コブラ戦です。当時、俺は中学生だったんですが、『この試合で越中さんが頑張りすぎちゃったら冷遇されるぞ』と感じ取りました」

――その試合は、新日本で新設されたIWGPジュニアヘビー級王者決定リーグ戦の王者決定戦ですね。9選手が参加したリーグ戦は「ニューイヤーダッシュ86」のシリーズ全戦で行なわれ、勝ち点上位2名が、最終戦の両国国技館で初代王者を争う形でした。

「このリーグ戦は、いわばザ・コブラのための大会でした。ザ・コブラは、佐山サトルさんの初代タイガーマスクが1983年8月に引退したあとで、スターの座を約束されたマスクマンだった。ところが、この連載でも語りましたが、同年11月3日に蔵前国技館での日本デビュー戦でデイビーボーイ・スミスの大暴走で水を差されてしまい、今ひとつブレイクしなかったんです。

 それを挽回しようと、新日本が団体をあげてザ・コブラをプッシュしまくる大会だったんですよ。言い方は悪いかもしれませんが、『ザ・コブラ大売り出し祭り』だったんです。そんななかで、ザ・コブラとともに得点上位でリーグ戦を勝ち残り、初代王者決定戦で対戦したのが越中さんでした」

――越中さんにとっては、外堀を埋められたような戦いですね。

「しかもゴングが鳴って早々、越中さんはとんでもない洗礼を浴びたんです」

――何があったんですか?

「これまで多くのプロレス考察本、プロレス雑誌では、何度も"ドロップキックの名手"が特集されてきました。その筆頭は、今の時代ならオカダ・カズチカ選手。オールドファンならばジャンボ鶴田さんでしょう。鶴田さんの、馬場さんの顔面へのドロップキックや、ディック・スレーターへの両手をバンザイした状態でのドロップキックを見て、えげつないほどの身体能力の高さに驚きました。

 あとは、ダグ・ファーナスの一回転ドロップキックも鮮烈でしたが......俺が思う一番すごいドロップキックの名手って、実はザ・コブラなんです」

――おっしゃるとおり、全身バネのような打点の高さは驚異でした。

「そのコブラが、越中さんとの試合で開始早々にドロップキック放つんですけど、これがプロレス史のなかでもトップクラスのドロップキックなんです。越中さんは顎の下を突き刺され、大の字で倒れるという洗礼を浴びました」

【盛り上がりに欠ける展開で越中に異変】

――映像を見ましたが、確かにすさまじいドロップキックですね。

「あまりのえげつなさに、大歓声が起きましたからね。ただ、これがコブラがコブラたる所以なのかもしれませんが、肝心のコブラ本人が観客の熱狂を感じ取れていないんです(笑)。その後も多彩な技で越中さんを追い詰めるんですけど、お客さんがまったく乗ってこないんですよ」

――まさにザ・コブラの世界ですね(苦笑)。

「コブラの大技ラッシュにも沸かないリング。しかも実況の古舘伊知郎さんが、越中さんを『戦うサラリーマン』と形容するんです。確かにツルっとした顔をしているし、髪型も新日本の選手のように襟足を伸ばしているわけではなく、かといって刈り上げもしないふんわりパーマ。試合は常に激闘なんですが、古舘さんにそう実況されるのも致し方なかったと思います。そうして会場も放送席も、新日本のストロングスタイルとはかけ離れた展開に陥ったんです」

――巻き返すのは大変そうですね......。

「そんな状況のなか、越中さんが技を受けるときに足をバタバタし始めたんです。これは余談になりますが、越中さんは身長185cmで、日本人レスラーのなかでも高身長なのに小さく見られがちなんですけど、それはあのバタバタが原因だと思うんですよ。どっしりしてないから大きく見えないんですけど、実際に会場で見るとデカさを感じるんです」

――確かにそうですね!

「ただ、あのザ・コブラ戦では、越中さんのバタバタにお客さんが乗っていったんです。テレビで見ていた俺も、どんどん越中さんに惹かれていきました。技の派手さではコブラに軍配が上がります。俺も『こんな高く飛べるのか!』などと驚きました。だけど、最初のドロップキック以降の技には、お客さんが反応しない。逆に、場外へのプランチャはありましたけど、ヒップアタックやエルボー、キチンシンクぐらいしかやらない越中さんに客席が沸き続ける、異常な試合になったんです。

 結果は越中さんがジャーマンでザ・コブラを沈め、初代IWGPジュニア王者に"なってしまった"んです。会場はめちゃくちゃ沸きましたが、放送席はシーンと静まり返っていた。古舘さんもザ・コブラ側からの実況でしたし、解説の東スポ・桜井康雄さん、山本小鉄さんもザ・コブラのすごさを語りまくっていましたからね。特に小鉄さんは、おそらく"ジャイアント馬場チルドレン"のことはあんまり好きじゃなかったんでしょう。3カウントが入った瞬間、黙り込んでしまいました」

――そんな露骨だったんですね。

「静まり返る放送席に、中学生の俺は『素晴らしい試合だけど、越中はこれから冷遇されるんちゃうか』と思ったんですよ。しかも当時、越中さんはセコンドも少なくて、仕方なくクロネコさんがつくぐらい(笑)。あの時の新日本は、外様が内部に入るのは珍しいことでしたから、余計に冷遇を心配しました。

 そうして、俺の中で越中さんの存在が大きくなったんですけど、その2年後、もうひとつの禁断の試合が行なわれたんです」

(後編:名レスラー馳浩の「一番ダメな試合」を救った越中詩郎の「震え」>>)

【プロフィール】
ケンドーコバヤシ

お笑い芸人。1972年7月4日生まれ、大阪府大阪市出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。1992年に大阪NSCに入学。『にけつッ‼』(読売テレビ)、『アメト――ク!』(テレビ朝日)など、多数のテレビ番組に出演。大のプロレス好きとしても知られ、芸名の由来はプロレスラーのケンドー・ナガサキ。

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