NBA伝説の名選手:ケビン・ジョンソン 1990年代を代表する「KJ」の愛称で親しまれたスピードガード

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2024年10月01日 09:40  webスポルティーバ

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NBAレジェンズ連載18:ケビン・ジョンソン

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第18回は、1990年代にスピードスターとしてフェニックス・サンズを引っ張ったケビン・ジョンソンを紹介する。

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【サンズへのトレードで才能開花】

「KJ」という愛称で多くのファンに支持されたケビン・ジョンソンは、カリフォルニア州の首都、キングスがフランチャイズを置くサクラメントで生まれた。運動能力の高い少年として育ち、サクラメント高校ではバスケットボールと野球でスター選手として活躍。高校の最終学年で平均32.5点を記録し、カリフォルニア大学バークレーに進学した。

 大学では1年次から先発のポイントガードを務め、3年次と4年次にパシフィック10オールカンファレンス(Pac 10)・ファーストチームに選出される。1984年12月4日のデンバー大学戦では、19得点、10リバウンド、12アシストを記録し、チーム史上初となるトリプルダブルを達成。4年生のシーズンには1試合平均17.2得点、5アシストという数字を残して、1987年のNBAドラフト1巡目7位でクリーブランド・キャバリアーズに指名された。

 しかし、キャブズは1年前にドラフト指名していたマーク・プライスが先発ポイントガードに定着。ジョンソンは1試合平均約20分の出場時間を得ていたものの、プライスから先発の座を奪える状況になかった。シーズン途中の1988年2月28日、ジョンソンはサンズへトレードされることになるが、NBA選手として大きく飛躍するきっかけとなった。

「フェニックスは私に自分らしくあることと、チームを率いる機会を与えてくれたし、私を信じてくれていた。その自信は、選手としての私の成長にとって大きなものだった」と語ったジョンソンは、移籍後3試合目のポートランド・トレイルブレイザーズ戦で16アシスト、次のデンバー・ナゲッツ戦で22得点、8アシストと大活躍。4月16日のシアトル・スーパーソニックス戦では31得点、10リバウンド、14アシストのトリプルダブルで勝利の原動力になった。

 2年目の1988−89シーズンは、サンズで不動の先発ポイントガードとなり、1試合平均20.4得点、12.2アシストを記録。1シーズンの平均で20得点、12アシスト以上は、マジック・ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)、アイザイア・トーマス(元デトロイト・ピストンズ)に続き、史上3人目の快挙だった。リーグのMIP(最も成長した選手)に選ばれただけでなく、レギュラーシーズンのMVP投票で8位のポイント数を獲得し、スター選手への道のりを歩み出したのである。

 3年目に初めてオールスターに選ばれたあと、4年目の開幕戦は1990年11月2日と3日、NBA史上初の海外での開催となったレギュラーシーズンのために来日。東京体育館で行なわれたユタ・ジャズとのゲームでは、初戦で29得点、12アシスト、第2戦で28得点と日本のNBAファンを魅了した。跳躍力とクイックネス、得点力とゲームメイクのうまさを持ったポイントガードとして、ジョンソンはNBAのスター選手へと着実に成長していった。

【王朝ブルズに挑んだ1993年】

 しかし、プレーオフでは、あと一歩のところで勝てないという状態が続いた。ジョンソンにとって初のプレーオフとなった1989年は、カンファレンス決勝進出を果たすもレイカーズに4連敗。翌年はカンファレンス準決勝でレイカーズに4勝1敗と雪辱を果たしたものの、カンファレンス決勝ではNBAファイナルまであと2勝に迫りながらもブレイザーズとのシリーズを落とした。1991年はジャズ相手に1回戦で、1992年もカンファレンス準決勝でブレイザーズに敗れている。

 そんな状況を打破すべく、サンズは1992年6月17日に1対3のトレードでフィラデルフィア・76ersから、リーグを代表するパワーフォワードのチャールズ・バークリーを獲得。バークリーとジョンソンはワンツーパンチを構成し、ふたりを中心にトム・チェンバース、ダン・マーリー、ダニー・エインジら選手層の厚いチームとなったサンズは、開幕から勢いに乗り、NBA最高成績となる62勝20敗でプレーオフに進出した。

 その原動力となったバークリーは、レギュラーシーズンのMVPに選ばれたが、ジョンソンは鼠径部痛症候群の故障によって49試合しか出場できず、平均16.1点、7.8アシストというサンズ移籍以降最低の数字に終わっている。

 しかしジョンソンは、プレーオフに入ると本来の輝きを取り戻した。第8シードのレイカーズ相手に2連敗からの3連勝で1回戦を突破した際には、最終第5戦で24得点、13アシストを記録した。そして、サンアントニオ・スパーズとのカンファレンス準決勝も4勝2敗で制すると、ソニックスとのカンファレンス決勝ではホームコート・アドバンテージを活かしたことと、第7戦でバークリーが44得点と大爆発したことが決め手となり、ジョンソンは悲願のNBAファイナル進出を果たしたのである。

 NBAファイナルでは3連覇がかかっていたシカゴ・ブルズと対戦したが、サンズはホームコート・アドバンテージを手にしながら、フェニックスでの3試合で1勝もできなかった。

「我々は偉大な相手と対戦することになるだろうとわかっていた。マイケル・ジョーダンは絶頂期にあり、ファイナルで彼と対戦できたのは光栄だった」と言うジョンソンは、再延長にもつれ込む激戦となった第3戦で62分間プレーし、25得点、7リバウンド、9アシストでサンズの勝利に大きく貢献。王手をかけられた第5戦でも25得点、8アシストと活躍しシカゴで2勝を挙げる原動力となった。だが、ホームに戻っての第6戦、残り3.9秒でジョン・パクソンに逆転の3ポイントショットを決められ、98対99で敗戦。NBAチャンピオンになるという夢は叶わなかった。

 ジョンソンは、自身のキャリアで最初で最後となったNBAファイナルを、のちにこう振り返っている。

「あの接戦に勝てなかったのは受け入れがたい。我々は全力を尽くしたが、マイケルのような選手やブルズのようなチームと対戦するならば、わずかな差で勝負が決まるのはわかっていたんだが」

【最後までフェニックスで】

 1994年と1995年のプレーオフでは、ともに最終7戦までもつれたカンファレンス準決勝でヒューストン・ロケッツを倒すことができなかった。

 ジョンソンは1994年の第4戦では当時、リーグナンバーワンセンターとして君臨していたアキーム・オラジュワンの上から豪快なダンクを叩き込むなど、ロケッツとのシリーズでは26.7得点(1994年)、27.9点(1995年)と活躍。しかしチームは、1994年がアウェーで2連勝発進、1995年が3勝1敗と王手をかけて優位に立ちながら、いずれも逆転を許して負けたのである。特に第5戦から3連敗を喫した1995年の敗北は、ジョンソンにとって非常に悔いの残る結果になった。

「あの数年間は優勝できると信じていたし、そのとおりになっていた。ロケッツとのシリーズで立て続けにあのような負け方をしたことは、チャンスを逃したように感じた」

 ジョンソンは1996年から3年連続でプレーオフ1回戦を突破できず、1998年に現役引退を決断した。ところが2000年3月には、サンズの先発ポイントガードのジェイソン・キッドが戦線離脱したことから、元サンズのヘッドコーチで親交の深かったコットン・フィッツシモンズの要望に応えて現役復帰。プレーオフ1回戦でスパーズを3勝1敗で倒すのに貢献したが、カンファレンス準決勝でレイカーズに1勝4敗で敗れたあと、ジョンソンは12シーズン過ごしたNBAキャリアに終止符を打った。

「幸運にもフェニックスのすばらしい組織でプレーし、長きにわたるキャリアを積むことができた。振り返ってみても、後悔はない。コート上で全力を尽くしたんだ」

 カリフォルニア大学バークレーで政治学を専攻し、NBA選手になってからセント・ホープアカデミーを設立するなど、ジョンソンは教育改革に力を入れていた。現役引退後は、元ニューヨーク・ニックスのビル・ブラッドリーと同じく、NBAオールスターという実績を持つ選手から政治家に転身。2008年5月にサクラメントの市長選出馬を決断し、決選投票で57.4%の得票数を得たことで当選。2012年にも再選し、市長を8年間務めた。市長退任後のジョンソンは、政治とほとんど関わらなくなったが、地域発展の活動を継続する人生を送っている。

【Profile】ケビン・ジョンソン(Kevin Johnson)/1966年3月4日生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1987年NBAドラフト1巡目7位指名。
●NBA所属歴:クリーブランド・キャバリアーズ(1987-88)―フェニックス・サンズ(1987-88途〜1996-97、1997-98、1999-2000)
●NBAファイナル進出1回(1993)/MIP1回(1989)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

このニュースに関するつぶやき

  • KJが居た頃のサンズ好きだったなあ、バークリーと臨んだファイナル勝って欲しかったけどあの当時はブルズが強すぎましたね、ちなみにこの選手は宮城リョータのモデルと言われてますね^^
    • イイネ!12
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