サッカー日本代表が対戦するオーストラリアサッカーの歴史と日本との長いライバル関係

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2024年10月15日 07:20  webスポルティーバ

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連載第19回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。日本代表がW杯最終予選で対戦するオーストラリア。1956年の初対戦以来、両国は長いライバル関係を築いてきました。ラグビーも盛んな相手国のサッカーの発展、日本との対戦の歴史を伝えます。

【半世紀以上も日本のライバル】

 僕の心のなかでは、オーストラリアは半世紀以上も前から日本サッカーのライバルだった。

 両国が初めて顔を合わせたのは1956年のメルボルン五輪の1回戦。日本代表関係者は対戦相手が欧州や南米の強豪国でないので喜んでいたらしいが、日本は0対2で敗れてしまった。当時の日本代表屈指のFWだった長沼健(のちの日本代表監督、日本サッカー協会会長)が病気で入院し、欠場したのが響いた。

 次に両国が対戦したのは1968年3月のことだった。

 この年、10月のメキシコ五輪出場権を獲得していた日本代表(長沼監督)は、現地を経験するためにメキシコに遠征。同国五輪代表に0対4で完敗し、高地の厳しさも体験したあと、オーストラリアに転戦。結果は第1戦が2対2の引き分け。第2戦が1対3の負け、最終戦が3対1の勝利とまったくの互角だった。

 当時、僕は英語の勉強のためにと思って『ワールドサッカー』という英国で発行されている雑誌を定期購読していた。世界各国のニュースが載っている雑誌だった。そして、同誌に現地記者による日豪戦の詳報が掲載され、3試合で4ゴールを決めた釜本邦茂のことが大きく紹介されていた。

 日本人選手が欧州の雑誌で本格的に紹介されたのは、これが初めてのことだろう。

 若きエースストライカーだった釜本は早稲田大学卒業後、ヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)に入団すると同時に西ドイツ(当時)の1.FCザールブリュッケンに留学。のちに西ドイツ代表監督となるユップ・デアバルの指導を受けて一段と得点力を増していた。

 とにかく、その記事を読んで、僕はオーストラリアのサッカーに初めて興味を抱いた。「これは、日本の格好のライバルだ」と思ったのである。

 日本はメキシコ五輪で銅メダルを獲得したが、翌年のメキシコW杯予選では釜本が急性肝炎のために欠場したのが響いて、オーストラリアと韓国にそれぞれ1分1敗で敗退してしまった。

 そしてその後、日本は長〜い低迷期に入る。

【欧州系移民のスポーツ】

 一方、オーストラリアは1974年の西ドイツW杯にアジア・オセアニア代表として初出場を決めた。僕は「ああ、ライバルに先を越されてしまったぁ」と思って、正直、かなりがっかりしたのを覚えている。

 その西ドイツW杯を観戦に行った僕は、ハンブルクのフォルクスパルク・シュタディオンで西ドイツ対オーストラリア戦を観戦した。

 当時、オーストラリアでは「サッカーは欧州系移民のスポーツ」と思われており、実際、代表の主将でDFのマンフレート・シェファーもドイツ生まれだったので(11歳の時にオーストラリアに移住)西ドイツの新聞でも話題になっていた。

 しかし、オーストラリアは西ドイツに0対3で完敗。最終戦でチリと引き分けただけで、グループリーグ最下位に終わり、アジア・オセアニアと世界の差を見せつけられた。

 オーストラリアはかつて英国植民地だった(1901年に自治領として事実上独立)。そして、英国系オーストラリア人の間ではクリケットやラグビー系のフットボールが盛んだった。

 メルボルンがあるビクトリア州ではアイルランドのフットボールを起源に持つオーストラリアン・ルールズ・フットボール(オージーボール)が盛んで、10万人以上の観客を集めることも珍しくなかった。楕円形のクリケット・グラウンドで行なわれ、手と足を使って楕円球をゴールに入れる勇壮な競技だ。

 シドニーがあるニューサウスウェールズ州で最も人気が高いのは13人制のリーグ式ラグビーで、15人制のユニオン式(日本で行なわれているラグビー)も盛んだった。

 そして、タスマン海を渡った対岸のニュージーランドはユニオン式ラグビーの国だ。

 こうしたラグビー系フットボールに比べて、当時のオーストラリアではサッカー人気は高くなく、プレーしているのは欧州系移民ばかり。クラブも「マルコーニ」(イタリア系)とか、「セントジョージ・ブダペスト」(ハンガリー系)、「シドニー・オリンピック」(ギリシャ系)といったように、それぞれのルーツを示す名称を名乗っていた(いずれもシドニーのクラブで現在もセミプロ・クラブとして活動中)。

 第2次世界大戦でオーストラリアは日本と戦火を交えた。そして、戦後は独立したばかりですぐ北隣に位置するインドネシアや中国と対立する。インドネシアの人口は約7000万人(現在は約2億8000万人)で中国は約5億人(現在は約14億人)。それに対して、1950年のオーストラリアの人口は約1000万人だった(現在は約2500万人)。

 そこで、「国を守るためには、人口を増やさないといけない」ということになり、欧州大陸から大量の移民を受け入れたのだ(アジアからの移民は受け入れなかった)。こうして、当時経済的に苦しかったイタリアやギリシャ、旧ユーゴスラビアなどから大量の移民がやって来て、彼らは母国で盛んだったサッカーを愛し続けた。

 元横浜F・マリノス監督(現トッテナム監督)のアンジェ・ポステコグルーはアテネ生まれのギリシャ人で5歳の時にオーストラリアに渡ってきた。また、新しくオーストラリア代表監督に就任したトニー・ポポヴィッチはシドニー生まれのクロアチア系二世だ。

【2006年ドイツW杯での苦杯】

 こうして、オーストラリアのサッカーは国内ではマイナーだったが、ワールドカップ出場経験もあり、日本より少し強い程度の存在だった。だが、1993年にJリーグが始まると日本の強化が急速に進んだ。

 一方、オーストラリアでも21世紀に入ると改革が進んだ。

 2002年の日韓W杯でサッカーへの関心が高まったことをきっかけに、2005年には新しいプロ・リーグとしてAリーグが始まった。「Aリーグ」という名称は、もちろん「Jリーグ」を意識したものだ(「ブダペスト」とか「クロアチア」といった民族的ルーツを示すクラブ名は禁止され、「都市名+愛称」で統一)。

 同年には、2002年W杯で韓国をベスト4に導いたフース・ヒディンクを代表監督に招聘。その甲斐あって、2006年のドイツW杯出場に漕ぎつけた。W杯出場は、奇しくも同じドイツで開催された1974年大会以来32年ぶり。そして、その初戦でオーストラリアは日本と対戦した。

 日本は中村俊輔のややラッキーなゴールでリードしたが、試合終盤にヒディンク監督は積極的に交代カードを切り、84分にティム・ケーヒルのゴールで同点とすると、さらに2点を追加。3対1で日本を破った(オーストラリアはラウンド16進出に成功)。日本はまたもライバルのオーストラリアに苦杯をなめさせられた。

 日本戦で同点ゴールを決めたケーヒルは、当時イングランド、プレミアリーグのエバートンで活躍していた。その他、ハリー・キューウェル(横浜F・マリノス前監督)はリバプール、マーク・ブレシアーノはセリエAのパルマなど、欧州の強豪で活躍する選手も多かった。

 そんな、長い長いライバル関係にある日本とオーストラリアは最近もさまざまな舞台で激突を繰り返している。

 2011年にはアジアカップ・カタール大会決勝で対戦し、延長戦の末に李忠成の決勝ゴールで日本が勝利。W杯最終予選では2010年大会から常に同一組だが、2018年ロシアW杯予選では日本はホームで勝利し、アウェーで引き分け。2022年カタールW杯予選では2連勝と、このところ日本が優位に立っているのは間違いない。

 さて、2026年大会予選でも再び同一組となった日本とオーストラリア。最終予選序盤では苦戦の連続で監督交代に踏みきったばかりのオーストラリアだが、はたして日本に対して一矢を報いることはできるのだろうか?

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