作新学院・江川卓の噂を聞きつけた高校球界の名将は「成東の鈴木孝政より速いのか?」と記者に尋ねた

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2024年10月18日 17:21  webスポルティーバ

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連載 怪物・江川卓伝〜"元祖・速球王" 鈴木孝政の矜持(前編)

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 1979年、江川卓は入団時の"すったもんだ"により、開幕から2カ月間一軍登録禁止のペナルティーが課され、一軍デビューしたのは6月だった。それもありプロ1年目は9勝10敗の成績だったが、開幕から投げていれば間違いなく2ケタ勝利は挙げていただろう。

 翌80年は16勝で最多勝、さらに81年は20勝で2年連続最多勝となり、名実ともに球界を代表する投手となった。

 江川の存在が大きすぎるばかりに、それまでセ・リーグを代表する"速球王"は、忘却の彼方に追いやられてしまった。

【幻に終わった江川卓との直接対決】

 この"元祖・速球王"の名は、鈴木孝政。1972年、中日にドラフト1位で指名され、プロ2年目の74年から台頭し、リーグ優勝に貢献。3年目の75年に最多セーブ、76年に最優秀救援投手、最優秀防御率の二冠、77年は先発とリリーフを兼任して18勝を挙げ、9セーブも記録し、最優秀救援投手のタイトルを獲得した。

 155キロを超えていたと言われる快速球で、セ・リーグの強打者たちを圧倒。21歳から23歳までの3年間、鈴木は間違いなく球史に残るピッチングを披露した。

 鈴木は江川の1歳上で、高校時代に二度ほど対戦しかけたことがあった。

「高校3年春の関東大会に、オレがいた成東(千葉)と江川の作新学院(栃木)が出ているのよ。江川は高校2年で、決勝まで行けば当たったんだけど、作新が先に負けて......。それで成東は、どう間違えたのか決勝まで行ったんだよね。その頃から江川の噂は聞いていたから、作新の試合はスタンドからほんの少しだけ見たよ。

 それで関東大会後に、作新のグラウンドで練習試合があったのよ。そしたら江川が足を捻挫したかで、試合には投げられないとなったんだけど、ブルペンで投球を始めて......。そしたら成東の選手は、これから試合だというのにみんなこぞってブルペンに見に行ってさ(笑)。でも、やっぱりオーラが違ったね。この頃から新聞で、江川のノーヒット・ノーランや完全試合が載るようになって。高校時代は不思議と、江川と対戦する機会がなかったんだよね」

 成東の鈴木孝政と言えば、関東では知らない者がいないほど、速い球を投げるピッチャーとして有名だった。江川が高校3年春の甲子園に出場が決まった際、広島商の監督である迫田穆成は馴染みの記者に、「その江川っていうのは、千葉の鈴木孝政より速いのか?」と尋ねたという。鈴木は甲子園出場こそなかったが、その才能は名将たちにも知れ渡っていた。

「甲子園に出ていたら、抑える自信はあった」

 いつも細い目をして朗らかな顔で話す鈴木が、この時だけは真剣な表情で語った。それだけ甲子園に行けなかったことが、悔しかったのだろう。

【明治大進学予定が一転、中日入り】

 江川にも匹敵するほどの能力を持った鈴木を、プロをはじめ、大学、社会人が放っておくはずがない。最初に声をかけたのは、明治大だった。

「中村勝広さんが成東から早稲田大に行っているので、オレも早稲田に行く予定だったんだけど、明治大の島岡(吉郎)御大が学校に来て、マネージャーが『島岡自ら学校に来るのは、甲府商業の堀内恒夫以来です』って言うもんだから、うちの監督と部長がビビっちゃって(笑)。

 それで明治のセレクションに行くことになったんだけど、明治OBの秋山登さんや土井淳さん、さらに"青バット"の大下弘さんと錚々たるメンバーがブルペンにいるのよ。ピッチャーだけで20人近く参加していたのかな。ブルペンで何球か投げると、島岡御大が『よし、わかった』とうれしそうに言って、ピッチングを止められた。ほかの参加したピッチャーは、オレと比べられて気の毒だなぁと......それくらい自信があったね」

 ドラフトの目玉でもあった鈴木に、プロからの勧誘もしつこくあったため、「在京球団ならプロ入り」と宣言し、半ば明治大進学が既定路線となっていた。

"たら・れば"を言ったらきりがないが、もし鈴木が明治に入っていたら、江川率いる法政大は4連覇を達成していなかったのではないだろうか。現に江川が法政に在学していた4年間、明治は2回優勝している。明治の鈴木、法政の江川の対決は、東京六大学きっての超目玉カードになったのは間違いないだろう。

 ドラフト当日、全体の2番目指名で中日は果敢に鈴木を1位指名してきた。その日から中日がスカウト陣を総動員し、"鈴木詣"が始まった。そして最後は、トレンチコートを着た当時のヘッドコーチである近藤貞雄が使者としてやって来た。

「まぁ近藤さんの口説きが、うまいのなんのって。それまで反対していた親父は、近藤さんの口車に乗せられてOKしたんだから。『中日にお世話になります』って親父が言い出して、隣にいたオレは『親父が行くんじゃなくて、オレが行くんだからよ』って思ったよ(笑)。そこから近所連中を呼んで宴会が始まってね。面白かったよ」

 頑固一徹の鈴木の父・武男は苦労人だった。11歳の時に父が亡くなり、4人兄弟のうち武男を含む3人が奉公に出され、幼き頃より社会の厳しさを身にしみて経験している。武男は、4年間あれば立派に社会勉強できるという考えだったため、大学進学さえも反対だった。こんなエピソードがある。

 鈴木のプロ1年目のゴールデンウィーク前、鳴り物入りで入団したといってもまだ18歳。見知らぬ土地での生活、ドラフト1位というプレッシャーは相当なものだった。当時のナゴヤ球場は、レフト側の先には通過する新幹線が見え、鈴木は球場で練習するたびに新幹線が視界に入っていた。

 そしてある日、何を思い立ったのか、鈴木は練習が終わると名古屋駅に行き、新幹線に乗って千葉の実家に帰ってしまったのだ。

「久しぶりに会ったのに親父は仏頂面で『相手の敷居が高くなるから、明日の朝イチで帰れ』と。末っ子のオレが帰ってきても、うれしそうな顔などまったく見せなかった」

 ホームシックになって帰ってきた鈴木を、本当は温かく出迎えたかったはずなのに、武男は心を鬼にして突き放したのだ。鈴木は一泊だけして、翌日朝イチの新幹線に乗って名古屋へ戻った。車窓から流れる景色を眺めながら、鈴木は自分のあり方について考えた。ここから鈴木は、怒涛の成長曲線を描いていくのだった。

(文中敬称略)

つづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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