「山一証券破たんの調査をやってくれませんか」なぜ“ミンボー専門”のマチベンだった42歳の弁護士が、前例のない調査を引き受けたのか 今だから明かせる「報告書」をめぐる舞台裏ー平成事件史(17)戦後最大の経営破たん

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2024年10月20日 08:03  TBS NEWS DIG

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絶対につぶれないと言われてた名門企業が、バブル崩壊のうねりの中で破たんした。1997年11月24日の午前11時半、山一証券は「自主廃業」を発表、100年の歴史に自ら幕を閉じた。日本の金融危機を象徴する戦後最大の倒産だった。

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何も知らされずに後始末を押し付けられた「山一証券最後の社長」の野澤正平。記者会見で涙ながらにこう訴えた。

「私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから!善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います」

そして深々と頭を下げた。

「ひとりでも再就職できるよう、支援してやってください。お願いします。私らが悪いんです」

たった3か月前に社長に就任したばかりの野澤。その無念さは、計り知れないものだった。

破たんの原因となった巨額の「簿外債務」の存在を知っていた社員はほとんどいなかった。いったい山一証券に何が起きていたのか。元読売新聞の清武英利氏が上梓した名著「しんがり 山一証券最後の12人」には、真相究明に立ち上がった調査チームの物語が克明に記されている。

調査チームは元幹部ら100人以上からヒアリングを行い、歴史に残る「社内調査報告書」をまとめ上げた。当時、司法記者クラブに所属して東京地検特捜部を取材していた筆者は、「社内調査報告書」の内容に度肝を抜かれた。

そこには特捜部の捜査でも明らかにされていない破たんの核心に迫る証言や、新事実が随所に盛り込まれていたからだ。

実は、この調査の執筆を担当したのが、いわゆる「マチベン」(一般市民の事件を扱う町の弁護士)にすぎなかった無名の弁護士、国広正(38期)だった。国広は約4か月間、「しんがり」たちと寝食をともにしながら、徹底調査にあたり、破たんに至る原因や隠ぺいの経緯を浮き彫りにした。

破たんの記録に残すという日本企業では前例のなかった「調査報告書」を追いながら、今だから明かせる舞台裏を国広弁護士に聞いた。

ミンボー対策にやりがい

その日は大雨が降っていた。
山一証券が破たんする4か月前の1997年7月30日、同社は野村証券、大和証券、日興証券に続いて「総会屋」小池隆一への利益供与事件で、東京・新川にある本店など数十か所が東京地検特捜部の家宅捜索を受けた。

翌月、8月11日には「総会屋」との取引の責任をとって、「山一のドン」と呼ばれた会長の行平次雄、早くから「プリンス」と期待された社長の三木淳夫ら経営陣11人が総退陣、新たに社長に“突然”指名されたのが、事件と関わりがなくクリーンな専務の野澤正平であった。

その後、東京地検特捜部はまず1997年9月24日、三木前社長を「総会屋」への利益供与の疑いで逮捕する。3か月後の1998年3月4日、経営破たんの原因となった「飛ばし」をめぐる証券取引法違反などの容疑で、最高権力者だった行平前会長を逮捕、三木前社長も再逮捕した。(のちに有罪確定)

東京地検特捜部は、「行平ー三木ライン」が主導して「飛ばし」を繰り返し、「約2,600億円」を超す「簿外債務」を「ペーパーカンパニー」などに移し替え、隠ぺいしていたと断定した。

しかし、東京地検特捜部の捜査は、あくまで犯罪を構成する要件に、該当する事実があるかどうかを調べるものであり、経営破たんの原因や経緯を究明することが目的ではない。

実は、特捜部の捜査が続くなか、経営破たんの真相解明のために立ち上がった社内調査チームがあった。その「社内調査委員会」の委員長には常務の嘉本隆正が指名されたが、7人のメンバーは、エリートの法人事業部門ではなく、日のあたらない業務管理本部の社員たちだった。

当時は「第三者委員会」という発想もなかった時代、調査にはやはり弁護士が必要だった。そこで、嘉本は当時まだ無名の国広正(38期)に声を掛けてチームに招き、破たんの原因究明に乗り出したのである。

山一証券は、1980年代から90年代にかけて、企業に利回りを保証して運用する「営業特金」を拡大させる一方で、他の大手証券と同様に「総会屋」や「暴力団」など反社会勢力への対応に頭を悩ませていた。

マチベンだった国広が、山一証券とつながりを持つことになったのは、「総会屋」小池隆一の問題を受けて、総会屋対策を頼まれたことがきっかけだった。
国広は当時42歳、東京・神田小川町に弁護士事務所を開業して4年目。本人のほかは秘書一人。企業からの依頼はなく、相続や離婚、借地借家問題など、個人や中小企業からの案件を手掛けていた。

「とくに民事介入暴力対策が好きでした。独立する前は2年間、アメリカにも行ってました。と言っても、マチベンだからアメリカに留学する理由はないんです。
妻が順天堂大学の研究者(PHD)で、薬理学の研究のために渡米したので、5歳と3歳の子どもの世話をするために私も弁護士を休業して同行しました。

当時としてはめずらしいハウスハズバンド(主夫)です。忙しい妻にかわって保育園の送り迎えなど、育児に励みました。でもせっかくだから、ニューヨークの法律事務所    で研修生もやりましたが、それもなかなか入るのが難しくて、何か所も断られて、1か所だけ拾ってもいました。もちろん給料はでないですけど」(国広)

帰国した国広は、弁護士としてマンション建設反対の住民運動の代理人や、「民暴」の対応にやりがいを感じていた。

「民事介入暴力」とは、警察が民事に介入できないことを逆手にとって、暴力団などが民事の揉め事に介入して、脅迫などで不当に金品を要求する行為で、通称「民暴」と呼ばれる。

そんなとき、たまたま所属していた第二東京弁護士会の「民暴委員会」に、山一証券から「総会屋と縁を切りたい」との相談があり、弁護士が派遣されることになった。そこで民暴対策が好きだった国広が、そのメンバー5人の中の1人として選ばれたのである。

大企業の仕事はもちろん初めてだったが、その方面には縁があった。
国広が生まれ育ったのは、大分県別府市の温泉街。小さい頃から周りにヤクザがいるのが日常で、身近な存在だったという。

「クラスには必ず一人か二人はそちらの関係の息子や娘もいました。いわゆる『置屋』もあって、通りかかると、そこにいる女性たちやヤクザから話しかけられたり、銭湯には刺青の入ったヤクザが普通に来ていたりで、総会屋とか暴力団対応とか、まったくアレルギーはなかったんです」(国広)

国広が山一でまず最初に挑んだのが、総会屋から定期購読していた「情報誌」をすべて解約するという大仕事だった。

「山一証券には、すごい数の総会屋が出入りして、会社はそうした総会屋が発行する情報誌を定期購読する名目で、資金を提供していました。
これを断ち切るために、すべての総会屋に『内容証明郵便』を送りつけて、情報誌の『定期購読』の打ち切りを通告したんです。

そしたら、総会屋が『ふざけるな』と押しかけてきた。彼らは『われわれは正当な政治団体である』と主張する。隠しカメラ付きの特別な部屋に案内して、わたしは隣の部屋に待機して、モニターでやりとりを見ながら監視した。
社員はビクビクしているが、おかしな動きがあれば、わたしがすぐ中に入って、警察に110番通報する。

たとえば、総会屋はまずふんぞり返って、タバコを吸おうとする、その行動パターンを先読みして、わざと灰皿を出さずに『ここは禁煙です』と言って肩透かしをくらわせるとか。そんな戦闘モードで山一証券に通い、総会屋や暴力団と向き合う日々が続いていました」(国広)

「まずい事実が判明した場合でも、公表しないとは言わないでください」

それは3連休の初日だった。国広は1997年11月22日の朝、目が覚めると同時に、山一証券の「経営破たん」を知ることになる。

「土曜の朝、山一証券自主廃業という日経新聞の見出しが目に飛び込んできた。その瞬間、『自主廃業』って何だろうって。山一が自主的に廃業するとはどういうことなのかと」

週明けには、テレビで一斉に野澤社長の記者会見が中継された。このとき初めて、野澤の口から『簿外債務』や『自主廃業』という聞き慣れない言葉が飛び出す。
これは再建をめざす法的な整理手続きではなく自主廃業、つまり会社がなくなることを意味した。

「残念だけど、せっかく民暴事件やっていたのに、ああ、これで私の山一の仕事もなくなったなと思いました」(国広)

しかし、運命の糸に導かれるように、国広は山一証券の仕事に戻ることになる。
経営破たんを受けて、原因を究明するための「社内調査委員会」が設置され、委員長となった嘉本から「一緒にやってくれませんか」と打診があったのだ。

「予想もしていませんでした。嘉本さんが『調査チームには法律家が必要なんじゃないか』と言い出して、弁護士を探していた。ただし、顧問弁護士は会社に近すぎて、会社を追及することはできない。

あくまで、しがらみのない『第三者』の立場でやってくれる弁護士が誰かいないのかと。そんなとき委員長が、『そういえば、総会屋対応をしていた声の大きい弁護士がいたよな』と私のことが頭に浮かんだようです」(国広)

これに対して国広は当初、「わたしはただのミンボー専門の弁護士で、総会屋や暴力団のことはわかりますが、簿外債務のことはわからないし、証券金融の法律は詳しくないので、そんなのできないですよ」と断わろうと思ったという。

それでも、考えた末に引き受けることを決意した。「火中の栗を拾う」それは国広の信条でもあった。

「職を失う社員や国民が、一番知りたかったのは『山一はなぜ潰れることになったのか』という根本的な疑問です。

細かい証券金融の仕組みじゃなくて『なぜ簿外債務が発生したのか、それをどう隠してきたのか』という事実だろうと。

調査で事実を積み重ね、材料を集め、それに法的判断を加えながら「調査報告書」を組み立てていくのは、やはり弁護士の仕事だろうと。走りながらやれば、できるのではないかと思って、引き受けました」

調査委員会のメンバーとなった国広は社長の野澤に挨拶した。

「わたしも引き受けるからには徹底してやらせていただきますよ」

野澤は「はい」と答えたが、国広はさらに念を押した。

「まずい事実があとから判明した場合でも、公表しないとは言わないでください」

野澤は「もちろんです。しっかりやってください」と答えた。

国広は野澤に会ったとき、こう感じたという。

「『簿外債務』があったことは、山一のほとんどの社員は知らなかった。野澤さんも、破綻の3か月前に就任したので、そのときまで簿外債務の存在は知らされていなかった。だから、自分は被害者だと思っている。

『最後に社長を押し付けられた』という被害者意識。労組や社員からの吊し上げもあって『徹底した調査』を約束してくれたんです。徹底的に書いてください、という感じでした。

ところが、いざ『社内調査報告書』を公表すると、態度が急変しました。野澤さんは、ここまで詳しい調査結果が出るとは想像していなかった。山一のOBたちからも風当たりが強かった。私はそういうことも想定して、最初に約束してもらったんです」

なぜ野澤が社長になったのか。
実際、「総会屋事件」の責任をとって8月に辞任した三木淳夫社長の後任選びは難航した。それまで山一証券のトップは、行平や三木のように国立大卒でMOF担(大蔵省担当)経験のあるエリートで、法人部門や企画部門の出身者であることが慣例となっていた。

しかし、不祥事を受けた有事において社長の第一条件はまず、「総会屋事件」や「簿外債務」に関わっていないことだった。
加えて、社内政治にも縁遠い、正直で「言うことを聞く」ことが重視され、国内営業畑一筋の野澤が指名されたという。最高実力者だった「山一のドン」行平前会長や三木前社長ら、辞任した11人の役員は、そのまま『顧問』として社内に居座っていたからだ。しかし、行平と三木はのちに東京地検特捜部に逮捕、起訴される。

最後の社長となった野澤は法政大学卒、国内営業一筋から這い上がってきた。長野県の農家の四男、畑仕事が好きで実直で素朴な人柄だった。
「社員は悪くありませんから!」と号泣し、社員をかばう野澤の会見は、日本の金融危機を象徴するシーンとして海外メディアでも大きく報道された。
実はこのとき、野澤が泣きながら、社員の再就職の支援を訴えた発言。実は山一の労働組合執行部が野澤に「公の場」で発言するよう求めていた「約束」であったことが、後に明らかになった。だが、そもそも優秀な人材が多かった山一は、9割以上の社員が再就職を果たしたと報じられた。

国広ら調査チームは、12月末から約4か月間にわたって三木前社長をはじめ100人を超える関係者のヒアリングを行い、彼らの声に丁寧に耳を傾け、帳簿など大量の証拠書類の分析をした。その結果を106ページに上るドキュメントとして記録したのである。

渾身の「社内調査報告書」は、当初予定だった「全員解雇の日」の3月31日から2週間遅れたが、なんとか1998年4月16日に公表にこぎつけた。

国広は嘉本委員長らとともに記者会見に臨んだ。

「褒められるのか、けなされるのか、世の中的に評価されるかどうかは、全然わからなかった。ただ我々は全力を尽くして、やれるだけのことはやったよなという気持ちで臨んだ。

これで叩かれたら、我々の力がなかったんだからしょうがないという、覚悟というか、腹は座っていたんです。

嘉本委員長がまん中、隣の黄色いネクタイの男性(写真参照)がわたしです。おもに2人で答えていたと思います。

余談ですが、記者会見が始まる前の昼ニュースで、NHKが報告書をすっぱ抜いた。もともとNHKは、当日夜の『クロ現』で特集する予定になってたんです。でも事前に報告書の内容を見た上層部が『これはすごい』と驚いて、『どうしても会見前に報道したい』と頼み込んできた。そんなことしたら、他のメディアも怒るだろうし、何度も断ったんですが、最終的には委員長が決断して前日の夜にOKしたんです」(国広)

会見で配布された「調査報告書」には、隠ぺいに関わった経営陣や幹部が実名で記されていた。メディアの予想を裏切る生々しい内容だった。テレビは夕方のトップニュースで伝え、翌日の朝刊各紙も一面トップで大きく報じた。とくに日経金融新聞は報告書の「全文」を掲載した。そして、日経新聞本紙は記事のなかで、『歴史に残る報告書』と最大限の評価をしたのであった。

繰り返された「問題先送り」

「調査報告書」でまず目を引いたのは、経営陣が1991年に「隠ぺいを決めた」経緯だった。とくに法人向けに強かった山一は、「営業特金」と呼ばれる手法で利回りを保証して企業から資金を集めた。しかし、株価下落で含み損が拡大し、「約2600億円」という「簿外債務」を発生させた。

では経営陣がどうやって「簿外債務」隠し続けたのか、報告書はその核心に迫っていた。

経営破たんの原因につながったのは、いわゆる「にぎり」と「飛ばし」という手法だった。
「にぎり」とは大口の顧客にあらかじめ、一定の「利回りを保証」をするものだ。株価が上がり続ける限りは、双方に利益をもたらすが、株価が下落しはじめると、顧客の株式は多額の「含み損」を抱えることになる。

そこで使われたのが「飛ばし」である。
決算期前に含み損を抱えた「A企業」が、損失を表面化させないよう、決算期の異なる「B企業」に簿価(購入時の価格)で一時的に引き取ってもらい、「A企業」の決算期を過ぎたところで、利息分を加えて再び「企業」から買い戻す取引のことだ。

「飛ばし」によって一時的に損失を抱えてもらうことは、「一時疎開」とも呼ばれた。もちろんこれは、投資家や株主の目をごまかしているわけで、違法な「粉飾決算」にあたる。

山一はこれを繰り返していたが「飛ばし」にも限界があり、最終的には自社グループで引き取らざるを得なくなる。結果的に「2,600億円」もの「簿外債務」を、国内の「ペーパーカンパニー」や「海外子会社」に移し替えていた。もちろん、決算書のどこを見ても出てこない。

「調査報告書」によると、山一首脳陣が「損失隠し」いわゆる「飛ばし」をすることをオーソライズする場となったのが、1991年に行われた2回の秘密会議だった。

1回目は1991年8月24日の土曜日。東京・赤坂の「ホテルニューオータニ」ビジネス棟の5階の小部屋に、人目を避けるように会長の行平次雄、社長の三木淳夫ら9人の役員が集まった。担当役員がホワイトボードに資料を貼り付け、「含み損」の実態を報告した。

役員「含み損が約5000億円に膨らんでいる。客は全部引き取ってくれと言っています」

行平「全部引き取ったら、会社がつぶれてしまうだろ。なるべく相手に引き取らせろ」

全員が息を飲んだ。この場で確認されたことは、顧客企業が抱えている「含み損」を「飛ばし」で対処することだった。しかし、山一は「飛ばし」の引き受け手には利息を払うが、株価は暴落しており、引き受け手を探す交渉も難航した。

2回目は11月24日の日曜日。東京・高輪の「ホテルパシフィック東京」の一室。
「損失隠しのスキーム」を主導し、行平の腹心と言われた「B副社長」ら8人が行平を囲んだ。年明けから、新たな法律により顧客への「損失補てん」が禁止されるため、対応が急務だった。

最終的に引き取り手が見つからずに残ったのが、「東急百貨店」など7社が抱えていた「1,200億円」の「含み損」のある「有価証券」だった。
そこで仕方なく、「含み損」を山一の「ペーパーカンパニー」で引き取るという処理案が承認されたのである。
当然、山一の決算書には出てこないため「粉飾決算」である。つまり、「含み損」を隠ぺいする方針が決まった瞬間である。

東京地検特捜部の調べなどによると、経営企画室のある社員は、秘密会議のあとに「B副社長」からこう命じられたという。

「うちの会社に『飛ばしの受け皿』となるような会社はないか。評価損を抱えた厄介な有価証券があって、相手企業の勘定から山一の勘定に移したい」

つまり「顧客企業が抱えている損失を、山一側に飛ばして、抱えておけるような会社を見つけてくれ」との指示であった。

この社員は特捜部にこう告白した。

「系列のノンバンクを提案しました。すでに山一はそのノンバンクに『不良債権』を移して『缶詰』にしていました。山一本社との関係をなるべく切り離して、監査が入らないようにしました」

「不良債権」の「缶詰」というのは、不良債権を子会社に移し替えて、山一本体の決算書をきれいに見せ、監査法人や株主の追及をかわすためである。そのためB副社長らは次々に「ペーパーカンパニー」を設立、損失が表面化しないように、それぞれの会社の決算期を3月、11月、10月などに割り振った。

「ペーパーカンパニー」を分散した理由はもう一つあった。

「評価損を一か所に集中すると目立つので、ペーパーカンパニーを分散した。からくりは、一つの会社の負債総額が『200億円未満』であれば、会計監査の対象にならない。そのために損失を小分けした。受け皿会社で簿外を引き受けると決めたときから、いつか、こういうこと(経営破たん)が起きるとは思っていた」(山一社員  当時)

実は11月24日の2回目の「ホテルパシフィック東京」の秘密会議、出席者から疑問の声が上がっていたことがわかった。
8人の幹部のうち、経理畑が長かったA役員が、粉飾決算の疑いを懸念してこう発言したのだ。

A役員「会計上問題があるので、公認会計士に聞いたほうがいいのでは」

しかし、この発言はB副社長によって封じ込められた。

B副社長「聞かなくてよい。ノーと言われたらうちがつぶれることになる」

最終的に行平社長も「この方法しなかない」と決断したとされる。

東京地検特捜部は、この「B副社長」こそがキーマンと見ていた。当時社長だった「山一のドン」行平体制のなかで、権力の中枢にあった事業法人部門を担当し、部下に「飛ばし」や「簿外債務」のスキームをつくらせるなど隠ぺいの実行部隊を主導していたのだ。しかし、「B副社長」はすでに死亡しており、特捜部が事情聴取をすることはできなかった。

山一証券の生死を分ける「分岐点」はどこだったのか。国広は、「飛ばし」を決めた1991年の2回の秘密会議ではないかと振り返る。

「多分このまま損失を持ち続けていたら、いつか『神風が吹いて』株価が回復して、どうにかなるだろうと思っていたのではないか。けれども現実を直視したくない、今さら手をつけることもできないと。

一つ大きかったのは1回目の会議のあとの1991年9月、証券スキャンダルで参議院の証人喚問に呼ばれた行平会長(当時)が『これ以上の問題のある取引はありません』と証言してしまったこと。

この『行平証言』によって、今さら『簿外債務』について公表できなくなった。重たいものを抱えることになったが、打つ手がないという状態になった。『先送り』するしかなかった。少なくとも『簿外債務』を楽観視していたとは思いませんが、国会で『これ以上はない』と言った以上、やばいと思っても公表することはできなかった。

ただ、まだこの段階だったら、すべてをさらけ出して、非常に痛みを伴う処理にはなったとは思うが、まだ助かる余地はあったのではないでしょうか。これは、たらればの話ですが」(国広)

調査委員がヒアリングを進める中、実は監督官庁の大蔵省が、山一証券の「飛ばし」や「債務隠し」を知っていたのでないか、あるいは見過ごしていたのではという疑惑が浮上していた。国広たち調査チームは次第に大蔵省の関与についても、調査報告書に盛り込むべきだと考えはじめた。

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

■参考文献
山一証券「社内調査報告書」社内調査委員会、1998年
国広正「修羅場の経営責任」文藝春秋、2011年
清武英利「しんがり 山一證券最後の12人」講談社、2015年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
 

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