ブル中野は15歳で全女に入り、約1年で極悪同盟に強制加入 ダンプ松本からは「半ハゲでいいな」

0

2024年10月22日 10:10  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

ブル中野インタビュー 前編

 Netflixで全世界に配信中の『極悪女王』が好評を博している。1980年代に起きた空前の女子プロレスブーム。そのブームの中心となった全日本女子プロレスのヒールユニット「極悪同盟」の主人公・ダンプ松本を描いたドラマだ。

 その極悪同盟のNo.2として活躍したブル中野は、ダンプの引退後、WWWA世界シングル王者として全女を牽引。1990年11月、アジャコングとの金網デスマッチで再び大ブームを巻き起こした。1993年から1994年にかけてはWWF(現在のWWE)に長期遠征し、日本人女子レスラーの海外進出の礎を築いた。

 デビュー当時、ベビーフェイスのレスラーとして活躍していたブルは、なぜ悪役として生きていくことになったのか。プロレスラーになったきっかけから、本人に振り返ってもらった。

【小学5年生で衝撃を受けた猪木の闘い】

――まずは、プロレスに興味を持ったキッカケから教えてください

ブル:小学5年の時、母、妹と一緒にアントニオ猪木さんの試合をテレビで観て衝撃を受けました。血だらけで闘っているのを、最初は「怖い」と思っていましたが、攻められて流血していた猪木さんが勝ったんです。その瞬間、心を動かされました。

 それまでの自分は、毎日をただ平穏に過ごしていて"生きる"ことに関して無頓着でしたが、「今まで、私は生きていなかった」と思ったんです。それで「プロレスってなんだろう?」「アントニオ猪木って、いったい何者なんだ?」と興味が湧いてきて、貪るようにテレビを観たり雑誌を読んだりしました。

――そこから、自分もプロレスラーになろうと思ったのはいつ頃ですか?

ブル:中学1年の時に、母から「そんなにプロレスが好きならやりなさい」と言われ、勝手にオーディションのハガキを出されて......そうしたら、受かっちゃったんです。

――全女のオーディションには年齢制限があって、15歳以上のはずでは?

ブル:母は年齢制限を気にせず写真も送って、「オーディションに行けばジャガー横田さんやデビル雅美さんに会えるよ。サインをもらえるかもよ」と鼻先に"ニンジン"をぶら下げられました(笑)。そうしてオーディション会場に無理やり連れて行かれたんです。

 オーディショは合格でしたが、13歳では入門できないので「中学校を卒業したら来てください」と言われました。だから、入門は中学を卒業してから。ちなみに、その時のオーディションでは立野記代さんと山崎五紀さんも受かっていますね。

【プロレスのために、ストリートファイトに明け暮れた】

――オーディションから中学卒業までの2年間はどう過ごしたんですか?

ブル:私は水泳部だったんですが、中学を卒業したら全女に入門すると決めていたので、「強くなりたい」と思い、その中学校になかった女子柔道部を自分で立ち上げました。

 あと、子どもの頃の私はとても内向的な性格だったんですが、当時は、ロックンロールバンドの「横浜銀蝿」に憧れる女の子がいたり、映画やテレビドラマの影響などもあって「不良少女」や「スケバン」が流行っていたので、「よし、私もそうなろう!」と思って。中学卒業までの2年間は、プロレスのためにストリートファイトに明け暮れましたね。

――プロレスのためにストリートファイトをするというのは、すごい考えですね......。

ブル:そうですね(笑)。それで中学2、3年の夏休みや冬休みは、全女の興行に同行して会場の売店でパンフレットやグッズ販売のお手伝いをしました。寮に1カ月間ほど住み込みしたんですが、立野さんと同じ部屋で、二段ベッドの上で毎日緊張しながら寝ていました(笑)。

 その頃は入門前でしたが、たまに「前座で試合するから」と言われて、当時の新人の方と試合をしたこともありますね。

――前座とはいえ、入門前にリングで試合ができたのですね。

ブル:第1試合の前の「第0試合」で、私は練習生としてリングに上がりました。そこではけっこう勝っていましたよ。試合内容は寝技中心で、道場でのスパーリングを観てもらう感じです。

――正式にデビューしたのは1983年9月23日。プロテストに合格するまで時間がかかったと伺いました。

ブル:2回落ちて、3回目でようやくなんとか補欠合格。道場では一番強かったんですけど、基礎体力がなくて基本の動きが鈍臭かったので、どんなに練習してもなかなか周囲に追いつけませんでした。早い人は3カ月でデビューするのに、私は6カ月かかりましたね。

【デビュー2年目、極悪同盟への加入で「すべてが一変」】

――1984年10月に、ヒールユニット「極悪同盟」に加入します。それまではベビーフェイスとしてリングに上がっていましたが、もともと悪役志望だったんですか?

ブル:いえ、無理やりです(苦笑)。ダンプさんから毎日のように「おまえもブスでデブだから、悪役になるしか道はないんだよ」と勧誘されました。当時の全女では、先輩に「嫌です」「いいえ」は言えなかった。それでも1週間ぐらいは返事をごまかしていたんですけど、「そろそろ決めないと"やられちゃう"な」と感じて、仕方なく「悪役をやります」と伝えました。

 そうしたら、ダンプさんに手を引っ張られて社長室に連れて行かれ、「社長、中野が悪役になりたいって言うんですよ」と。社長も「そうか、じゃあ明日から悪役な!」と快諾して、「極悪同盟」への加入が決まってしまいました。

――極悪同盟に加入して、状況はどう変わりましたか?

ブル:すべてが変わりました。15歳でレスラーデビューして約1年、少しずつ増えていったファンの子たちは「なんであんな最低のところに入っちゃったの!?」と、みんな手のひら返し。家族も親戚も友だちもベビーフェイスだから応援してくれて、チケットを買ってくれていたのが、極悪同盟のメンバーになったことで態度が一変しました。

 でも、家族が一番大変だったかな......。見守ることしかできない人のほうがつらいと思うんですよね。妹はまだ小学生で、学校でいじめられただろうし。あの時代の悪役は「本当に悪い人」と思われていて、根っから憎まれ、嫌われていましたから。

――ブルさんも相当につらかったのでは?

ブル:私も大変でしたけど、自分で「やる」と覚悟を決めたプロレスの世界なので、悪役が嫌だろうが、お客さんに嫌われて石を投げられようが、我慢するしかありませんでした。当時は、女子プロレス団体は全女しかなかったですし、極悪同盟を辞めたらプロレスができなくなってしまいますからね。

――以前にアジャコングさんは、極悪同盟に加入してよかったことについて「リング設営をしなくていいこと」「ダンプさんが好きなだけ食べ物を用意してくれること」と話していました。

ブル:お金がない若手たちは、先輩たちへの差し入れの残りものを巡業バスのなかで隠れて食べていました。でも、極悪同盟専用のバスには飲み物や食べ物を常備した冷蔵庫があったんです。それを好きなだけ飲み食いすることができて、なくなるとダンプさんが補充してくれました。

 それと、悪役になってから急に給料が上がりましたね。

――それは「悪役はつらい役割だけど、給料を高くするから納得してほしい」ということだったのでしょうか?

ブル:いえ、単純にプロレス以外の仕事が増えたんです。ダンプさんと一緒にドラマやバラエティ、歌番組への乱入など、試合以外の仕事が毎日ありました。それまで月収5万円だったのが、一気に70、80万に跳ね上がったんです。

【悪役として覚悟が決まった、ダンプによる「半剃り」】

――1985年2月から、本名だったリングネームを「ブル中野」に変更し、爆発的なブレイクを果たします。当時の極悪同盟には、ダンプさん、ブル中野さんのほかにクレーン・ユウさんがいましたね。

ブル:私が極悪同盟に加入した当初は、リーダーがダンプさん、No.2がクレーンさんでした。でも、1985年4月26日の茨城大会で、ダンブさんとクレーンさんによる「極悪同盟」の同門対決があり、クレーンさんが大流血。この試合を最後に、クレーンさんは本名の「本庄ゆかり」でレフェリーに転向したんです。

――そこからブルさんがNo.2になったんですね。

ブル:その頃は、まだ気持ち的に悪役になりきれておらず、「私は悪い人じゃないのに、悪役をやらされています」という感じだったんです。ダンプさんはそれを見抜いていました。

 九州の地方巡業中、「おまえは中途半端だ。可愛い子ぶってるからダメなんだ。モヒカンにしろ!」とダンプさんに宣告されました。そして、地下の控え室でビニール袋を被せられ、ダンプさんと周囲の人間に押さえつけられて、バリカンでの散髪が始まったんです。でも、半分まで剃った時にダンプさんが「おまえは半人前だから、半ハゲでいいな」と片方だけで終了。たぶん、飽きたんでしょうね(苦笑)。

――当時、お付き合いしていた方とも別れてしまったとのことですが、髪型が原因だったんですか?

ブル:全女には「酒・タバコ・男禁止」という"三禁"があったんですが、悪役になる前から内緒で付き合っていました。会う時は普通の髪型でしたけど、剃られたあとの姿は目立つから雑誌に出てしまう。それで、「女としての幸せやプライベートの幸せは一切いらない。私はリングのなかだけで生きていく」と覚悟を決めました。あの時、私は「プロレスラーになった」と思うんです。

――悪役として生きていく決意をしたんですね。

ブル:今みたいに悪役がカッコいい時代じゃないし、本当に憎まれるだけの"裏街道"。悪役になった時点で表の社会では生きられない。親からも、「会社に言われたのは仕方ないけど、髪の毛染めちゃダメだよ」「化粧もダンプみたいにしちゃダメ」と言われていました。

 私自身も、若かったし嫌でしたけど、やらなくちゃいけなかったんです。「全女で生きていくしかない。帰るところはないんだ」とわかって、リングのなかで生きていこうと腹をくくりました。そこで初めて、「悪役として、何でもやってやろう」と決めたんです。

 それまでは、会場に行くとお客さんに石を投げられるし、怖くて毎日怯えていました。だけど、それが「悔しい」「ちくしょう」という思いに変化して、最終的には「悪役として、おまえらを絶対ファンにしてやるからな!」という気持ちになりましたね。

(中編:ヌンチャクを武器とし男性ホルモンの注射を打ったわけ 人気絶頂の極悪同盟での苦悩も明かす>>)

<プロフィール>
ブル中野

1968年1月8日生まれ、東京都出身、埼玉県川口市育ち。170cm。1983年9月23日に全日本女子プロレスでデビュー。1984年9月13日、全日本ジュニア王座獲得。1984年10月に極悪同盟加入。1985年2月、リングネームを本名の中野恵子から「ブル中野」に改名。クラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)との抗争で女子プロレスブームを巻き起こした。ダンプ松本やクラッシュギャルズが引退後、WWWA世界シングル王者として団体を牽引した。1993年から1994年にかけてWWFに長期遠征。同年11月、WWF世界女子王座を獲得。1996年に再度アメリカへ遠征。翌年、遠征中に負ったケガによりプロレスラーを引退。今年4月、WWE殿堂入りを果たした。

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定