ブル中野が振り返る、生死をかけたアジャコングとの金網マッチ ギロチンドロップを見舞う際「やっぱり怖くて、手を合わせた」

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2024年10月22日 10:20  webスポルティーバ

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ブル中野インタビュー 後編

(中編:ヌンチャクを武器とし男性ホルモンの注射を打ったわけ 人気絶頂の極悪同盟での苦悩も明かす>>)

 今年の現地時間4月5日、世界最大のプロレス団体WWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)が、ホール・オブ・フェーム(殿堂入り)授賞式を開催。そこでブル中野が、日本人女子プロレスラー初の受賞を果たした。現役時代を彷彿させるフェイスペイントを施し、「この賞を受け取れることを、ずっとずっと待っていました。」と涙を流してのスピーチは大きな感動を呼んだ。

 今でこそ多くの日本人女子レスラーが海を渡り、WWEなど海外で活躍しているが、その先駆者と言っても過言ではない。そんなブルがレジェンドレスラーとなるまでの過程で、1990年のアジャコングとの金網デスマッチは外せない。やるか、やられるか。死さえも覚悟した壮絶な闘いについて語った。

【アジャとの壮絶な金網デスマッチ】

――1988年にダンプ松本さんが引退したあと、ブルさんがリーダーとして『獄門党』を結成。ヒールレスラーながら女子プロレス界の頂点で活躍していましたが、1990年にアジャコングさんが獄門党から脱退して対立しましたね。

ブル:私のデビューが1983年、アジャが1986年なので3年後輩です。彼女は15歳の時に全女に入門したんですが、当時のアジャは体が細く、いじめられて本当にかわいそうだった。だから、新人の時から食事に誘ったし、一番可愛がっていた後輩でした。

 そんな私たちを"仲違い"させるために、全女がいろいろ仕掛けてきたんです。今思えば、その会社の策略にハマってよかったと思います。もしアジャが、私のライバルとして対角に立ってくれなかったら、今の私は存在しないでしょうから。

――1990年11月14日、横浜文化体育館で伝説的な金網デスマッチがありました。金網の頂上から、ブルさんがアジャさんに対してギロチンドロップを放つなど、壮絶な試合でしたね。

ブル:実はその約2カ月前の9月1日、大宮スケートセンターで1回目の金網マッチが行なわれたんですが、それまで金網を立てて練習したことは一度もなかったんです。金網は組み立てるのに時間がかかりますしね。予習としては、国際プロレスのビデオを観たぐらいでした。

 だから、大宮の金網マッチは大失敗。ただ金網で囲ってあるリングで試合をしているだけで、金網をうまく利用することができなかった。最後は、アジャがレフェリーの肩を借りて金網の外にエスケープして、私が負けとなりました。試合後には、初めて「金返せ!」コールを浴びましたよ。

 そして約2カ月後に、また金網マッチをやることが決定。私は「とにかく金網を使わなくちゃいけない。使いこなせなかったら、アジャに勝ってもレスラーとして失格だ。そうなったら引退しよう」と心に決めて臨みました。

――そんな経緯があったんですね。

ブル:周囲はみんな、「ここでアジャが勝って、アジャの時代が始まる」と思っていたでしょう。でも私は、勝っても負けても「ブル中野、ここにあり!」を示せなかったら意味がない、と思っていました。

 2回目の金網マッチが決まってからは、片時もそれを忘れないよう、部屋のなかやトイレにもアジャの写真を貼りました。「最後にどんな技で倒すか?」を考えすぎて眠れない日々が続きましたが、「金網の頂上からギロチンドロップをやろう」と決めたら、やっと眠れるようになりましたね。

 ただ、「金網にどうやって登るのか」「足をかけて登れるくらいの幅があるのか」といった新たな疑問も出てきました。私は1回目の試合で、金網を1回も触っていなかったですし、依然として何もわからなかった。そんなに高いところから飛び降りたこともないし、「もしかしたら、背骨が突き出て死ぬかもしれない」とも思いました。でも、死んだら死んだで説得力もあるだろうし、お客さんもアジャも納得するだろうなと。

――2回目の金網戦は、相当な覚悟を背負っていたんですね。

ブル:本当に引退も覚悟したし、リング上で命を落とすことも覚悟しました。実際に金網の上に立ったら、アジャが小さく見えましたね。「飛ぼう」と決意してもやっぱり怖くて、祈るように手を合わせました。

 それでギロチンドロップを見舞った瞬間、リング上でバウンドして立っちゃったんです。「生きてる」と思い、すぐに金網から外に脱出して勝ちました。「1990年11月14日の、横浜文体での金網マッチ」は、自分の存在感を示すことができた大切な試合です。ただ、そのあと検査してわかったことですが、背骨の一部が欠けていました。それなりに代償は大きかったですね(苦笑)。

【FMWで異例のマイク】

――1992年当時、女子プロレス団体は全女のほかにJWPとLLPW、FMW女子が存在しました。1992年7月15日の全女の大田区大会には、FMW女子のシャーク土屋選手とクラッシャー前泊選手が乱入。同年9月19日FMW横浜スタジアム大会にはブルさんが参戦しています。

ブル:その横浜スタジアム大会は、メインイベントが大仁田厚さんとタイガー・ジェット・シンの電流爆破デスマッでしたね。私は北斗晶と組んで、工藤めぐみとコンバット豊田と戦いました。2人とも元全女の選手ですし、コンバットは元極悪同盟。やることの予想はつきました。

 あの時期、スタジアムで興行ができたのは大仁田さんだけです。私の目的は、そのお客さんを全部奪うことでした。だから、試合後のマイクアピールも重要だと思っていました。

――結果は全女チームが勝利。試合後にブルさんは、セコンドにマイクを持ってくるよう指示を出しましたが、そういう意図があったのですね。

ブル:FMWでは大仁田さん以外、マイクを使用することは禁止されていたんです。事前にFMWサイドからも言われていました。しかし私は「そんなの関係ない」と、セコンドの若手に「絶対にマイクを持ってこい」と指示を出しました。それを聞いていたFMWのセコンドやスタッフは、放送席にあるマイクを渡さないように必死でしたね。

 今なら理解できますよ。主催団体に「マイクを使用しないでください」と言われたら、守らなければいけない。対抗戦が盛り上がるのは相手あってのものですし。でも、当時の私は「自分のやりたいことをやろう」と思い、「ウチらの試合、もっと観たかったら全女の会場に来い!」とマイクアピールをしました。

――その試合のブルさんのギロチンドロップが、『週刊プロレス』の表紙を飾りましたね。

ブル:試合後、私は無事でしたが、(全女のマネジメントを行なっていた)ロッシー小川さんがFMWサイドに監禁されましたね。

――監禁? ロッシーさんは大丈夫だったんですか?

ブル:詳しくはわかりませんが、今も元気なので大丈夫だったんでしょう(笑)。

【アジャコングに負けたあと、WWFへ】

――ブルさんはWWWA世界シングル王座に1057日君臨するという連続最長保持期間記録を作りましたが、1992年11月26日の川崎市体育館大会でアジャコング選手に負け、それが止まりました。

ブル:ベルトを獲得したのは1990年1月4日ですから、約3年保持したことになりますね。「王者としてのブル中野」にアジャが勝ってくれたので、「これでアジャは自信を持って、全女のチャンピオンとしてやっていける」と思いました。先ほど(中編)でも話しましたが、私が思い描いていたとおり、うまくバトンタッチできたと思います。

 でも、ブル中野個人として"答え"を出さなければいけないことがありました。それは、私が1993年1月8日に25歳を迎えることでした。当時、全女にあった「25歳定年制」を破ることになる。だから、それを破ったあとの生き方を後輩たちに示していかなければならないと。

 アジャに負けた時、たまたまWWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)から「アメリカに来ないか?」と連絡が届きました。「私がアメリカに行くことで、日本とアメリカの架け橋となれば、後輩たちも行きやすくなる」と考えて渡米しました。

――アメリカのプロレスはいかがでしたか?

ブル:2002年にWWFからWWEに改称されましたが、完全にエンターテインメントです。観客も一緒に楽しむ感覚でしたね。だから、純粋な「闘い」なら、全女が世界一でした。あんなに肉体を削り合いながら、年間300試合を闘っていたわけですから。その全女のリングでやってきた自負があったので、どこの国に行こうが、誰とやろうが絶対に負けない自信はありましたね。

――その活躍が認められ、今年4月、日本人女子レスラーとして史上初の快挙となるWWEホール・オブ・フェームを受賞。WWE殿堂入りを果たしました。

ブル:日本、アメリカ、メキシコでベルトを獲って、WWEで殿堂入り。アジャとの金網マッチや、神取忍や北斗晶とのチェーンデスマッチなど、命を削りながらリングに上がっていたのが報われましたね。私は1997年に引退したけど、「受賞してやっとブル中野が終わるんだ」と。

 でも同時に、責任も感じました。WWEで殿堂入りしたのはアントニオ猪木さん、藤波辰爾さん、獣神サンダー・ライガーさん、グレート・ムタさん。この方々と肩を並べたということ、日本人女性レスラー初の受賞ということで、この先の人生にも責任を持たなければいけない。軽率な態度は控え、普段から気持ちを引き締めて生活しなければと思いました。

【ブル中野が思う「プロレス」とは?】

――現在はどのような活動をしているのでしょうか?

ブル:「Sukeban」という、日本人女子レスラーが参戦するアメリカ女子団体のコミッショナーをしています。日本人レスラーを海外に輩出する仕事です。「外国人が想像する日本人」をテーマにして、ウナギ・サヤカ選手やSareee選手ら日本人の女子レスラーに、新しいキャラクターを与えてリングに上がってもらいます。

――今年10月10日にはロンドンで興行がありましたね。

ブル:将来的にはアジアや日本、世界中で展開したいと考えていますが、もう少し海外で温めてから日本でお披露目したいですね。

――現在は、Netflixで『極悪女王』が全世界で配信されていますが、周囲の反響はどうですか?

ブル:『極悪女王』はダンプさんの物語。昨年に話題になった『サンクチュアリ―聖域−』で相撲が注目されたように、「昔の女子プロレスはこんな感じだった」と受け入れてもらえるきっかけになるかもしれない。当時の女子プロレスを観ていなかった人、若い世代には新鮮に映るでしょう。海外でも観られますから、世界が「日本の女子プロレス」に興味を持ってくれるかもしれませんね。

――最後に、ブルさんが思うプロレスの真髄とは?

ブル:結局は、あの四角いリングで「どれだけ自分の人生を魅せられるか」に尽きます。私は対戦相手の体を使って、お客さんと闘っていた感覚でした。お客さんに「プロレスを観て元気をもらった」「勇気をもらった」「明日も頑張ろう!」とか、何かを持って帰ってもらいたかった。

 私が小学5年生で、初めてアントニオ猪木さんの試合をテレビで観た時に「何かしなくちゃ」と奮い立たされたように、自分も「あれができたらいいな」と命を削りながら闘っていました。プロレスから何かを感じてもらって、私たちが闘う姿を見て前向きになってもらいたい。もちろん選手によって考え方は違うでしょうけど、私はそれがプロレスだと思っています。

<プロフィール>
ブル中野

1968年1月8日生まれ、東京都出身、埼玉県川口市育ち。170cm。1983年9月23日に全日本女子プロレスでデビュー。1984年9月13日、全日本ジュニア王座獲得。1984年10月に極悪同盟加入。1985年2月、リングネームを本名の中野恵子から「ブル中野」に改名。クラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)との抗争で女子プロレスブームを巻き起こした。ダンプ松本やクラッシュギャルズが引退後、WWWA世界シングル王者として団体を牽引した。1993年から1994年にかけてWWFに長期遠征。同年11月、WWF世界女子王座を獲得。1996年に再度アメリカへ遠征。翌年、遠征中に負ったケガによりプロレスラーを引退。今年4月、WWE殿堂入りを果たした。

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