【豆相人車鉄道】小田原〜熱海まで、所要時間3時間半。「人が押していた鉄道」の廃線跡をたどる

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2024年10月26日 21:21  All About

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散歩が楽しい爽やかな季節を迎え、週末にどこへ出かけたいと思っている人もいるのではないでしょうか。今回は、旅行・鉄道ジャーナリストでAll Aboutの旅行ガイド、森川天喜さんの新刊『かながわ鉄道廃線紀行』から、ひと味違う散歩道を紹介します。
かつて静岡県の熱海と神奈川県の小田原を結ぶ小さな鉄道が存在した。その名は豆相(ずそう)人車鉄道。文字通り、レール上の箱状の客車を人が押すという原始的な乗り物だった。

以下、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜 著、2024年10月神奈川新聞社 刊)の内容を一部抜粋しつつ、人車鉄道とはどのようなものだったのか、廃線跡をたどってみることにしよう。

明治の文豪も利用した人車鉄道

熱海駅前広場の「熱海軽便鉄道7機関車」

熱海駅前のロータリー広場の一角、アーケード商店街の入口近くに、小さな蒸気機関車が保存・展示されている。機関車の前に設置された説明板には、「車両の長さ3.36m、高さ2.14m、幅1.39m、重さ3.6t、時速9.7km」と書かれている。

日本の蒸気機関車の王様・D51(デゴイチ)の全長が19.73mであるのと比較すれば、その小ささがよく分かる。この「熱海軽便鉄道7機関車」は、明治の終わりから大正にかけて、熱海と小田原を結んでいた軽便鉄道で実際に使われていたものだ。

説明板には「熱海・小田原の所要時間 軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線=10分」という興味深い数字も書かれている。軽便鉄道の旅は、現代の旅と比較すればずいぶんとのんびりとしたものだったのが分かる。

だが、軽便鉄道が登場する以前、熱海―小田原間には「人車鉄道」と呼ばれる、さらに原始的な鉄道が走っていた。これは文字どおり、レール上の箱状の客車を車夫が押すという乗り物であった。

1895(明治28)年7月に熱海―吉浜間、翌1896(明治29)年3月に小田原(現在の早川口)までの全線約25kmが開通した豆相人車鉄道であったが、実際に営業してみると、車夫の人件費がかさんで思うように利益が上がらず、1907(明治40)年12月には動力変更(蒸気)し、前述の軽便鉄道になった。

この人車鉄道から軽便鉄道への切り替え工事の様子を8歳の少年の視点で描いたのが、芥川龍之介の短編『トロッコ』である。人車時代に熱海―小田原間はおよそ3時間半かかっていたが、軽便になると約2時間半に短縮された。

人車時代の東京から湯河原・熱海への旅が、どのようなものだったのかを見ていくことにしよう。
車夫に押され連なって進む豆相人車鉄道の車両(提供:今井写真館)

その様子は、明治の文豪・国木田独歩の短編『湯ヶ原ゆき』によく描かれている。同作は主人公(独歩)が「親類の義母(おっかさん)」とともに、結核療養のために湯河原へ向かった道中の体験を元にした紀行文的な作品である。

その旅程を追いかけてみると、午前中に新宿の停車場で国府津までの切符を購入し、品川へ移動。品川駅のプラットホームで1時間以上待ち、ようやく新橋から来た神戸行きの列車に乗り込んでいる。

国府津駅に到着すると、ここで小田原に遊びに来ていた友人の「M君」にばったり出会う。このM君は独歩の親友だった田山花袋(かたい)がモデルらしい。湯河原へ一緒に行こうと誘うが、「御免、御免、最早飽き飽きした」と断られる。

帰京する花袋と別れた独歩は、湯本行きの電車(注:国府津−小田原−箱根湯本を結んでいた小田原電気鉄道)へと乗り込む。

電車は、国府津駅を発つと酒匂(さかわ)川を渡って小田原の市街地へ入り、現在の国道1号線上を小田原城の南西に位置する早川口へと進む。この早川口こそが、人車・軽便鉄道の小田原駅があった場所であり、湯河原・熱海方面に向かう湯治客は、ここで人車に乗り換えた。

人車の時刻表を見ると、熱海−小田原間は1日6往復。独歩が乗車したのは、小田原16時10分発の最終便だ。

脱線・転覆は、しばしば発生

『湯ヶ原ゆき』の中で独歩は、小田原駅を発車した人車の様子を「先ず二台の三等車、次に二等車が一台、此三台が一列になってゴロゴロと停車場を出て、暫時(しばら)くは小田原の場末の家並の間を上には人が押し下には車が走り、走る時は喇叭(らっぱ)を吹いて進んだ」と描写している。

車夫は豆腐屋が吹くようなラッパをプープー吹きながら人車を走らせたのだ。

小田原駅を出た人車・軽便は、まずは南へと海を目指す。現在、早川の流れを渡った先には、魚市場や食堂を併設した早川漁港がある。早川漁港が、いわゆる掘込式港湾(陸地を掘り込んで造った港)として整備されたのは昭和30年代であり、人車・軽便の線路は、現在の漁港の敷地を突っきっていた。

港を過ぎると、線路は現在の国道135号線と併走する旧道上に進路を取り、早川の集落の中を進んでいた。人車ならばともかく、軽便の蒸気機関車がこの細道を行けば、煤煙がさぞかし大変だっただろう。

箱根細工の祖とされる惟喬(これたか)親王を祭る紀伊神社の先で、廃線跡はいったん新道と合流。700mほど新道を歩いて再び旧道に入り、今度は石橋の集落の中を進む。この先、打倒平家の旗揚げをした源頼朝と坂東平氏の将・大庭景親(おおばかげちか)が対陣した古戦場・石橋山のふもとをかすめるように進む。

独歩はこの辺りの車窓風景を「どんより曇つて折り折り小雨さへ降る天気ではあるが、風が全く無いので、相模湾の波静に太平洋の煙波(えんぱ)夢のやうである。噴煙こそ見えないが大島の影も朦朧(もうろう)と浮かんで居る」と夢と現(うつつ)の境にいるような淡く美しい文章で表現している。

道は、やがて米神(こめかみ)漁港を見下ろす場所に出る。この米神漁港のブリ定置網漁は全国的に有名で、昭和30年代には日本一と称されたという。軌道は高低差のある米神の集落の上端の山際を縁取るように半円を描きながら進み、その途中の正寿院という寺院の裏手に米神駅があった。

米神までは上り坂が続くが、ここからは一転して下り坂を駆け下りる。昔の写真を見ると、この辺りの海岸線には松林があった。地元の人に話を聞くと、「下り坂で脱線した人車が海まで転げ落ちないよう、落下防止のために松が植えられた」と伝え聞いているという。

信じられないような話だが、人車鉄道の転覆事故を伝える1906(明治39)年8月29日付の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)の記事を読めば、納得がいく。
人車の転覆事故を伝える1906(明治39)年8月29日付の横浜貿易新報記事「人車鉄道転覆」

「熱海鉄道会社の人車二台までが転覆して重軽傷者七名を出したる椿事につき(中略)、変事の場所即ち江の浦新畠北に差掛かりたりしが自分(注:事故車を操車していた車夫)の二等車七号は歯止めが極めて緩るければ同所の如き急勾配(こうばい)は速力早まるは当然の事なれば強よく締めたるに突然後部が浮き立ちガクリ海辺に面して転覆したる次第なり(後略)」

このような大事故には至らないまでも、人車の脱線・転覆は、しばしば起きたという。

人車の乗り心地は?

人車鉄道の根府川駅跡付近に設置されている案内パネル

坂を下りきったところにある根府川の交差点からJR根府川駅前までは、再び上り坂になる。

海の見える駅として知られ、「関東の駅百選」にも選ばれているJR根府川駅は、タレントのタモリさんが「JR全駅の中で1駅だけ選ぶなら?」と問われ、同駅を選んだことから脚光を浴びた。JR根府川駅前から県道を200mほど進んだ関所跡入口バス停付近に、人車・軽便の根府川駅があった。

根府川駅跡からは、次の江之浦駅跡に向かってグイグイと坂を上っていく。人車にとって、最大の難所である。こうした難所に差し掛かると、1等車の客はそのまま、2等車の客は降りて歩き、3等車の客は車夫とともに客車を押すのを手伝わされたという。

ーーー
この後、独歩を乗せた人車は、見晴らしのいい江之浦から真鶴を経由し、湯河原へと向かいます。その途中、江之浦から真鶴に向かって急坂を下りますが、その時、人車の乗心地について、主人公が発した感想とはどのようなものだったのでしょうか。なお、独歩の旅は湯河原で終わりますが、筆者はさらに終点の熱海まで歩きます。

書籍『かながわ鉄道廃線紀行』ではほかに、人車の車両はどのようなものだったのか? 関東大震災による影響は? 芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石らの文豪は、人車・軽便をどのように表現したか? などについてもリポートしています。

※サムネイル画像:車夫に押され連なって進む豆相人車鉄道の車両(提供:今井写真館)

森川天喜 プロフィール

神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)。2023年10月〜神奈川新聞ウェブ版にて「かながわ鉄道廃線紀行」連載。
(文:森川 天喜)

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