日本人最年長金メダリスト杉浦佳子さん 快挙までの裏側「パラの選手は…」心ない声が耳に入ったことも

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2024年10月27日 11:10  web女性自身

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【前編】パラリンピック日本人最年長金メダリスト杉浦佳子さん 自転車事故による認知障害で記憶失っても「残っていた感情」から続く



「ここだ!」



コーチらと何度もシミュレーションしていたとおり、勝負どころの坂道で後続の選手を引き離すと、ラストスパートで力強くペダルを踏み込んだ。



「私なら、行ける──」



渡仏直前まで取り組んでいた、過酷な高地トレーニングで流した汗がよみがえる。あとは、まさに風と一体となってデッドヒートを制し、先頭でゴールを走り抜けた。



今夏、パリで開催されたパラリンピックの自転車競技女子個人ロードレース。運動機能障害のクラスで、杉浦佳子選手(53・総合メディカル)が、2大会連続金メダルに輝いた瞬間だった。



19歳で長男を産んだ自称「ヤンママ」だった彼女は、薬剤師として働きながら、40代でロードレース競技の道へ。しかし、わずか2度目のレースで落車事故を起こし、高次脳機能障害と右半身まひが残ってしまう。



その後、競技に戻るまでには、死をも考えてしまう壮絶な闘病の日々があったが、その先に最高の復帰ステージが用意されていた。



復帰のきっかけは、2016年のこと。



「パラサイクリングに興味はないですか?」



生死をさまよう自転車事故から半年が過ぎたころ、自転車競技で活躍していた長男が所属する団体の社長からこう声をかけられ、杉浦さんは競技復帰を決意する。



UCI(国際自転車競技連合)の判定を受けると、障害の程度は5段階中3番目の「C-3」という結果に(C-1がもっとも重度)。



「自分の障害は軽いほうだと思っていたのでショックもありましたが、実際に大会を見学に行くと、私と同じような障害のある方たちが本当にハイレベルな走りをしていて、自分もやってみたいと思いました」



いざ練習が始まるが、過去の記憶をなくしているため、自転車の乗り方そのものからの再スタートとなった。



「ブレーキのかけ方、コーナーの曲がり方、ギアチェンジなどの基礎から始めました。ただただ申し訳なく思うばかりでしたが、コーチの『どんどん迷惑をかけてくれよ』という言葉にとても救われましたね」



やがて、パラサイクリング独自のルールで、右手の握力が弱くても支障のない工夫を自転車に施すなどして、レースに復帰。そして’17年5月にワールドカップに初出場して、3位に。



「ここで、次はトップに、と闘志に火がついたんです。コーチとも相談して、東京パラリンピック出場も目標となっていきました」



その後は厳しい練習と、事前にコースの景色や道路標識を頭にたたき込むといった準備が実を結び、次々と世界大会での優勝を飾り、パラ界で「ロードの新星」として注目されていく。事故から約1年半後の’17年には初出場のUCIパラサイクリングロード世界選手権で優勝し、翌年には2連覇と同時に、日本人として初めて最優秀選手に与えられる「パラサイクリング賞」を受賞。



自転車競技の世界選手権優勝者には、胸に虹色のラインが入ったジャージ“アルカンシエル”が与えられるが、その栄誉を受けての帰国時のこと。



「選手仲間やスタッフから、『アルカンシエルを取っての凱旋なんだから、きっと空港にマスコミが殺到してるよ。お化粧は念入りにね』などと言われ、私もその気になって(笑)、メークもバッチリで成田に着くと、空港はシーンとしていて……。



そのうち、『やっぱり、パラの選手は若くてかわいくないと取材も来ないね』という周囲の声が耳に入ったりして、もっと自分が頑張ってパラサイクリングを知ってもらいたいという気持ちが強くなりました」



’21年の東京パラリンピックでは4種目に出場して、ロードレースとタイムトライアルの2種目で金メダル。「最年少記録は二度と作れませんが、最年長記録だったらまた作れますよね」という名言も飛び出した。そして、今年7月にパリ・パラリンピックの代表に内定する。



「大会前、『金メダルを取らなければ即引退』と言いました。そうすることでパラサイクリングへの注目度も高まるし、もし金メダルが取れれば、私だけでなく、若い選手たちにとっても練習や遠征などのサポート環境が整うことにつながると思ったからです。



でも内心では、年齢からくる体力面の不安に押しつぶされそうでした」



その不安に打ち勝つための唯一の方法が、とにかくトレーニングをすること。今回も、大会直前まで岐阜県の標高1千200mの山奥で過酷な高地トレーニングで自らを追い込んだ。



「私は一番を取っても、『次のレースはライバルがもっと強くなっているに違いない』と考え込んでしまうタイプ。素の自分は鈍くて、暗くて、超ネガティブ。だから何をやるにも最初はダメで、人の何倍も時間をかけてやることになるんです。



不安を解消するには練習を重ねて、レースのシミュレーションを徹底的にするしかないんです。その結果、できたときの達成感も、ほかの人より大きく感じられるのかも」



地道な鍛練の積み重ねの結果が、合計3つのパラリンピック金メダル、そして日本選手最年長記録という前人未到の栄冠だった。頂点に立った今もなお、右腕には力が入りにくく、服薬や通院に加えて、記憶力を取り戻すための日々の努力も続いている。



「英単語を覚えることは、事故以来ずっと続けています。でも、そのおかげで脳のリハビリだけでなく、海外遠征のホテルフロントでの簡単な英会話くらいはできるようになったんですよ!」





■「これからも自転車に乗り続けながら、多くの人に助けてもらってきた恩返しを」



「最近、よく耳にする『超高齢社会』という言葉からは、明るい未来は想像しがたいと思いますが、障害や老化にあらがう姿を見て、希望を持ってもらえたら」



10月8日に行われた文部科学省による五輪・パラリンピック表彰式で、女子やり投金メダリストの北口榛花選手(26)らと共に登壇した杉浦さんはそう語った。



パリ大会後も、表彰式や講演など多忙な日々を送っているが、自転車に乗っていないときも「常に全速前進」の母親について、長女(22)は語る。



「私が10代のころ、母が早起きして分刻みで家事をこなしてジムに通う姿を見て、『なんでそんなに頑張れるの』と聞いたことがありました。



そしたらひと言、『楽しいから』って。なるほど、好きなことは頑張れるんだと、子供心にとても納得できたんです。



事故後に自転車競技を始めてからも、本当に多くの方が母をサポートしてくださっているのを見ていて、私は『食べることの面で人を支えられるのはすごい』と考えるようになって、管理栄養士の道を選びました」



杉浦さん自身は、私生活では’18年に離婚し、現在は一人暮らし。



「夫とはかつてはトライアスロンの大会などにも一緒に出たりしていましたが、互いの自立した老後を考えて離婚しました。子供たちの親という関係は以前と変わることなく、今も家族の行事があると、ジジとババで一緒に2人の孫と会ったりしています。



あと、若いママたちにぜひ伝えたいのは、子育てにはどんどん周囲を巻き込んで、ということ。私も多くの人にずいぶん助けられましたから、今度は社会にお返ししたいと考えています」



4年後のロサンゼルス大会については「未定」と語るが、



「自転車は生涯、乗り続けたいですし、天職と思う薬剤師の仕事もまた始めたい」



すでに40代で、薬学の知識を生かしてアスリートをサポートする“スポーツファーマシスト”の資格も取得している。



「ドーピングチェック一つとっても、私は検査を受ける側を体験したという点で、薬剤師のなかでは希有な存在でもあります。そういった経歴を生かせる場面もあると思うんです。日本では、女性が年を取るとマイナスに捉える風潮もあります。でも、薬剤師をしていたとき、50代60代の先輩が患者さんにとても信頼されている姿を見て、本当に素敵だったし、憧れてもいました。



それを思い出すと、金メダルを取ったあと『最年長』と年齢のことばかり言われることに抵抗もありましたが、今は素直に喜び、励みにできるようになりました」



8年後のブリスベン大会は還暦を迎えた後となる。世界を見渡せば、オリンピック全体ではさらに高齢の金メダリストもいる。ナイス・グランマのさらなる挑戦を見守りたい。



(取材・文:堀ノ内雅一)

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