Text by 今川彩香
1995年に韓国・光州で第1回が開催され、アジアを代表する現代アートの国際美術展のひとつに数えられる『光州ビエンナーレ』。第15回が9月7日から12月1日に開かれており、アートを通じたまちづくりを推進する福岡市が「Fukuoka Art Next事業」の一環として、日本パビリオンをプロデュースしている。
光州市内の2会場を舞台に、批評家で文化研究者の山本浩貴がキュレーションを担当。「私たちには(まだ)記憶すべきことがある」というコンセプトを設定し、福岡市を拠点に活躍するアーティスト、内海昭子と山内光枝による新作が発表された。このコンセプトには、光州の歴史的な背景が大きく関係しているという。
博士課程に在籍しているときから、戦争や植民地支配の歴史との関わりから文化・芸術を研究してきた山本浩貴。2019年に光州のACC(Asia Cultural Center)で3か月に及び滞在研究をした経験もあり、『光州ビエンナーレ』には注目し続けてきたという。内海昭子と山内光枝という2名の作家をどのように選出し、リサーチを進め、展示の実現に至ったか。3名に話を聞いた。
山本が設定したコンセプト「私たちには(まだ)記憶すべきことがある」には、光州の歴史的背景が大きく関係する。日本統治時代である1929年には、日本人と朝鮮人学生によるトラブルに端を発し、日本の支配に抵抗する光州学生独立運動——のちに中心舞台がソウルに移り、朝鮮各地に広まり、4万人以上の学生を動員するデモとなって朝鮮各地に広まった——が起こった。そして、軍事政権下の1980年。5月17日に全国に戒厳令が敷かれると、翌5月18日から27日にかけて民主化運動が激化。軍の鎮圧によって150人以上が死亡、負傷者は3000人以上ともいわれる大惨事が起こり、光州は虐殺の地となった(光州抗争)。
—山本さんのこれまでの研究において、「光州ビエンナーレ」という国際芸術祭はどのような位置づけにありますか。
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『光州ビエンナーレ』というのは、光州が抱えている歴史——日本の統治や太平洋戦争、そこから続く冷戦時代にも多くの人が声をあげてきた——と深く関わる芸術祭です。
参加する作家の多くがそうした政治意識や町の歴史を考えて制作をしてきましたし、第3回の「光州ビエンナーレ」では、美術・文芸評論家の針生一郎さんが『芸術と人権』展という特別展をキュレーションし、日本の歴史や戦争責任に深く関わる作品が展示されました。東アジアにおける政治的・歴史的な経緯において、唯一無二の芸術祭だといえます。
山本浩貴(やまもと ひろき)
1986年千葉県生まれ。2010年一橋大学社会学部卒業。2018年ロンドン芸術大学博士課程修了(PhD)。2013年から2018年までロンドン芸術大学TrAIN研究センターに博士研究員として在籍。韓国・光州のアジア・カルチャー・センター(ACC)でのリサーチ・フェローを経て、2019年まで香港理工大学デザイン学部ポストドクトラル・フェロー。2020年より東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科助教。戦争と植民地支配の歴史との関連から東アジアの近現代美術について研究している。
—ACCでの滞在研究の際に、実際に光州に来てどのようなことを感じましたか。
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例えば、デモの参加者に何に抗議しているのかを聞いたら、ソウルで男性議員が女性蔑視の発言をしたことに対するデモを行なっていたことがあったのですが、思ったことがあれば声を出すという気風が根付いていると強く感じました。
美術に慣れている人でなくとも、これだけの政治的な感性や感覚を持つ人々が住む土地なので、説明的にならなくても作品から何かを感じてもらえるのではないかと思い、日本パビリオンのプランを考えることができました。
—どのように内海昭子さんと山内光枝さんいう2名の作家を選び、コンセプトを考案したのでしょうか。
山本:まずこのビエンナーレに出展するうえで、光州の歴史や、日本と韓国の歴史的な関係という重要なコンテクストがあります。それを学ぶことは非常に大切ですが、そのリサーチの結果をストレートに出すのとは異なるかたちでアウトプットしたいと考えました。
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その方向性を共有できそうな作家として、映像作品を通してある種の具体性を表現できる山内さんと、空間を駆使したインスタレーションという、より抽象的なアウトプットを行なう内海さんにお声がけしました。
2会場で日本パビリオンを構成しているのですが、古民家をリノベーションしたギャラリーという雰囲気には山内さんの作風が向いていて、一方のフリースペースのような広い空間で、広さをうまく使ってもらえるのが内海さんだと感じたことも、おふたりにお願いした理由のひとつです。
山内光枝が展示を行っているGallery Hyeyum外観
山内光枝(やまうち てるえ)
1982年福岡県生まれ。2003年キングストン大学 (英国) ファウンデーションコース修了、2006年ゴールドスミスカレッジ/ロンドン大学 (英国) BAファインアート卒業。2013年チェジュ・ハンスプル海女学校 (済州島) 修了。
—山内さんと内海さんのおふたりが、出展作の制作までに行ったリサーチについてお聞かせください。
山内:制作する際のアプローチとして、実際にその場に身を置き、自分の存在が土地や人に直接触れることで何が見えるのか、受け取れるのかを大事にしてきました。光州は1月に皆で視察した際が初めてで、その後3月、5月、7月、8月と数週間ずつ滞在を重ねました。滞在を通して定期的に訪れていたのが、「5月の母の家」です。5.18民主化運動(光州抗争)で犠牲になった方のご遺族や、ご自身も身体的、精神的に傷を負った女性たちが憩う場です。草取りや掃除などのお手伝い、ヨガや絵画の教室に参加させてもらいながら、母の家に集う女性たちとの時間を過ごしました。
また光州での滞在には、大阪在住のダンサーでアーティストのYangjahさんに同行してもらいました。韓国語が堪能で光州にもつながりを持っている彼女の存在は、言語的なサポートはもちろんのこと、この街に暮らす方々の日常的な場面に接し、より個人的に言葉や時間を交わす機会をひらいてくれました。日本と光州を行き来する経験を重ねたこの半年間は、土地と歴史を足元に感じながら、そこで生きる人々の存在や声に触れ、同時に自分自身の現在と、切り離すことのできない日本という土壌や歴史について意識を馳せ、向き合う時間でもありました。
内海昭子(うつみ あきこ)
1979年兵庫県生まれ。東京藝術大学美術研究科博士課程修了。2014年〜2017年、ポーラ美術振興財団若手芸術家在外研修助成、吉野石膏美術振興財団若手芸術家在外研修助成にてドイツに滞在。
内海:私は7年前にソウルで3か月間レジデンスに参加したのですが、そのときが初めての韓国で、いろいろな歴史と向き合うことになり、そうしたことに無自覚だったことに恥じ入る3か月になりました。韓国人の友人が何人もできたのですが、私たちの国が政治的にどのような態度をとっているかについて、私よりもその友人たちのほうが把握していると感じたことをよく覚えています。
今回の光州のリサーチでは、まず朝鮮美術文化研究家の古川美佳さんと、東京大学東洋文化研究所の真鍋祐子さんから、みんなでオンラインレクチャーを受ける機会がありました。
古川さんの『韓国の民衆芸術―抵抗の美学と思想』というご著書を入口に調べていくと、14世紀から民衆が王に向かって直訴をする際に、太鼓などの楽器や、お皿や鍋などを打ち鳴らしながら王様を呼び止めて物申す習慣があったことを知りました。
そのあとにみんなでリサーチに訪れた「戦争と女性の人権博物館」では、現在も毎週水曜日に、慰安婦の方がデモを続けているということが映像で紹介されていたのですが、すごく明るい音楽を流しながらデモを行なっていることを知りました。その音楽の印象とデモの内容のギャップに驚きましたが、音と訴えとが伝統的に結びついていることがわかったのは、とても印象に残りました。
内海昭子《The sounds ringing here now will echo sometime, somewhere》2024年
山本:今回、まず古川さんと真鍋さんにオンラインでレクチャーしていただき、みんなでディスカッションする機会を設けました。真鍋さんからうかがったのですが、光州抗争の最初の犠牲者は耳の聞こえない人で、その人はデモに参加していたわけではなく、軍からの尋問にうまく答えられずに暴力を受け、亡くなってしまったそうなんです。
声を上げることは重要ですし、プロテストの歴史というのは声を上げる人を中心に紡がれていくものですが、ともすると、その歴史というのは英雄主義的になってしまう。
しかしその裏では、声を上げられずに亡くなっていった人もいるわけです。英雄主義的な見方だけでは語りきれない側面が光州抗争にはあります。そのことをリサーチの早い段階で知れたのは、コンセプトを組み立てるうえで重要だったと感じています。
Terue Yamauchi, Surrender, 2024 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)
—山本さんのキュレーターステートメントには、朝鮮の伝統において「恨」は日本語の「恨み」ではなく、「声にならない声」を表す概念だと記されています。そして、現代社会を生きる我々は、「声と沈黙の不可視的な存在をとらえる感性」を育む必要があると。
山本:やはり匿名の声というのは、声として聞き取りにくいことが多いですが、それを拾い、声としてではなく別のかたちで表すことができるのだとすれば、それは視覚芸術を通して可能なはずだと、レクチャーやディスカッションを通して感じていました。
沈黙の表現であり、しかし、その声にならない声を人が認識できるようなもの。山内さんと内海さんとの制作を通して、そうした表現を試みたいと考えました。
—では、まず山内さんから作品制作のプロセスについて聞かせていただけますか。
山内:展示全体のタイトルとして「Surrender(※)」とつけました。「Surrender」には明け渡すという意味も含まれ、今回の制作プロセスそのものを表す言葉でもあると、のちに気づきました。
それは、ある種の器となることを意味しています。目を凝らし、耳を澄ませ、自己を作為から解放し存在を開くことで初めて、本当になにかを受け渡すことができる。主に3つの部屋に分かれている展示室を入り口から巡る作品体験を通して、そのようなプロセスを共有したいと思いました。
作品の背景にある具体的な作業の一つとして、Yangjahさんが取り組まれてきた即興詩の制作を基盤にしたものがあります。まずは私が光州と日本を行き来するなかで出てきた言葉を日本語でカードに書き出し、毎回順序をシャッフルしながらYangjahさんが偶然性に身を任せて即興的に詩を3遍紡ぎました。作者が曖昧なそれらの詩は、さらに韓英にも訳され、3言語の重奏する朗読音声としてモニターの映像作品の背景に流れています。
映像は、光州で私たちが滞在していた楊林洞(ヤンニムドン)から5.18民主広場にある噴水までの道を、それぞれが裸足で歩きながら撮影した素材をもとに制作しました。カメラを足元に向け、いつもとは違う視点で撮影するというYangjahさんの身体的な実践が、映像表現につながっています。
Terue Yamauchi, Surrender, 2024 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)
山内:歩いているルートは、滞在中私たちが実際によく歩いていた道でもあり、また楊林洞出身で1980年5月当時少年だったある方が、楊林洞にあった自宅から一人で当時の全羅南道道庁のある広場まで歩いていき、虐殺の現場を目の当たりにした記憶を現在も抱えて生きているという実際の話にも基づいています。
楊林洞から裸足で広場に向かいながら、現在自分たちが生きている地面の表面とその下に連なる歴史を、いまを生きる心身で一歩ずつ感じ受けとめるように歩きました。私の分の撮影は、8月15日の光復節(※)の日を選んで実行しました。
山本:山内さんに出品をお願いしたとき、変な話、作品が最終的に完成しなくてもいいですよとお伝えしていました。光州を訪れて何かを受け止めたら、アウトプットのかたちがドローイング1枚になってもいいと僕としては思っていました。リモートで打ち合わせをしたり、撮影したクリップを見せてもらったりしながら、僕から具体的にどうしてほしいというリクエストを伝えることはなく、オーディエンスとして感覚的な言葉でフィードバックをしていきました。
Terue Yamauchi, Surrender, 2024 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)
山内:会場に入ると最初の展示スペースと通路にかけて、鏡が4つ設置されています。一見すると表面が真っ黒なので、鏡だと気付かないかもしれません。簡単には知覚できない認識できない、理解できない、けれど存在している何かに一つ一つ向き合うということを、よりパーソナルな作品体験を通して共有したいと思いました。
最後の展示スペースでは2つの壁面全面に映像を投影したインスタレーションを設置しました。一見抽象的にも受け取れる映像は、今年の5月18日に偶然居合わせた光景を捉えた素材で制作していて、そこには噴水(台)や全日ビルなど、光州抗争の象徴的な場所が映っています。私たち個々の存在にある具体性と抽象性、作品の背景にある具体性と抽象性を一つの表現のなかに同時に存在させ、観客それぞれの内に起こる認識の流れや変化に意識が馳せられるよう心がけました。
Terue Yamauchi, Surrender, 2024 撮影:山中慎太郎(Qsyum!)
—最後の部屋に、77のワードをもとに紡いだ詩が3か国語で展示されていますが、「無数のいのちの強さが/連なる万物に/見えない/語らない/流れを生み出す」という連があり、具体的に光州を描写しているわけではないものの、映像作品と組み合わさることで、光州という土地の歴史、人々のメンタリティを想起させる展示だと感じました。続いて内海さんも作品制作のプロセスを聞かせていただけますか。
内海:先ほどお話しした現代のデモやかつての王への直訴の話から、音というキーワードが出てきたのですが、もうひとつの大きなテーマとなったのが連鎖です。真鍋祐子さんのレクチャーで、加害の歴史というのは負の連鎖として続いていくという話があり、ソウルでの「戦争と女性の人権博物館」を訪れると、まさに慰安婦の話というのは、時代を超えて引き継がれてしまうものだということがわかりました。
どの時代にも、当たり前のように慰安婦のような存在が生まれてしまう。それはまさしく負の連鎖です。慰安婦は一つの例ですが、加害の経験は時と場所を超えて引き継がれていく。それを引き止めるには、私たちが声を上げる必要があります。日本人として歴史に対してきちんと向き合う意思があることを伝え、小さなものかもしれないけどその声を連鎖させていけるのではないか。
内海:音と連鎖をテーマに、そうした意思を作品に込めようと考え、真鍮とステンレスのバーを用いたインスタレーションのプランを考えました。素材自体は工業製品です。特別なものではありません。
音の連鎖が起こるように、長さのある棒状の金属にしたのですが、長さや太さを少しずつ変え、全員が個として異なる人々の集まりを想像できるように制作しました。
内海昭子《The sounds ringing here now will echo sometime, somewhere》2024年
山本:山内さんとは、どちらかというと制作段階に入ってから映像を見ながら話をしましたが、内海さんの場合はむしろ、プランを立てるまでにいろいろと話しました。どういうものをつくっていくか、模型もつくりながらコミュニケーションを取り、暗さをどうするか、金属のバーが早く動いて音がたくさん鳴りすぎるとイメージと離れていってしまうなど、コンセプトとイメージの共有に時間をかけました。
—会場の薄暗い空間に身を置くと、絶妙な優しい響きの金属音が断続的に鳴り、時間感覚を忘れて没入する感覚を味わうことができました。山本さんはコンセプトづくりから伴走されてきたわけですが、完成したおふたりのインスタレーションをご覧になって、どのようなことを感じましたか。
山本:まず内海さんの作品ですが、あの広い空間で実際に体験してみると、頭のなかで想像していたスケール感を遥かに超えてくるものになっていました。実際の身体感覚を通して、イマーシブな空間、没入していけるような空間になっていることを感じました。
一方の山内さんの作品に関しては、空間がそこまで広くないからこそ、声や音の共鳴を感じ、複数の声に耳を澄ますような体験ができる展示になっていました。プライベートな家の構造が残っていることも、そこに作用したのかもしれません。3つのパートが展開し、何らかのポリフォニック(※)な展示が実現していたのは、やはり想定を遥かに超えてくるものでした。
—リサーチを通して得た情報を編集するのではなく、得た情報を咀嚼し、そこからまったく別のかたちのものを生み出すのは、やはりアートだからこそ可能な表現なのではないかと感じました。
山本:空間で感じられる身体感覚や、イマーシブな体験を生み出すのは美術のひとつの力だと思いますし、おふたりの制作に伴走しながら想像していた以上のものを両方の会場に行って感じることができました。
僕たちが世界を見る枠組みというのは、かなりの部分が編纂された歴史に規定されています。それを知識によって解体していくことはもちろんできなくはないと思うんだけど、そうではなく、感覚によって捉え直していくことのできるものはすごく多いと思うんですね。
歴史として文字で綴られる際にこぼれ落ちてしまったもの、そういう存在や出来事というのは無数にありますが、美術の感覚的な性質によって、それらを捉えて表現することができるはずです。そこに美術のポテンシャルを感じています。
山内:そうですよね。理解できないけど聞こえてくるものや、認識できないけど見えるものもたくさんあると思うんです。曖昧で定義づけられないけど、存在するものであったり、人間の矛盾であったり、そうしたものを掬い上げ、語ることができるのがやはりアートの可能性なのではないかと思います。
内海:私は自分の作品の話になってしまいますが、自分がリサーチをしたら、それを一度自分の中に溜め込むようにします。そして同時に、一瞬の光の動きや音の響きを捉えるような、直感的な理解というものも、実地のリサーチや文献から得た知識や情報と同じように信用しています。そこから理解や共感、想像につながる何かを生み出せるのがアートだと思っていて、今回の制作においてもあらためてそれを感じることができました。