【合田直弘(海外競馬評論家)=コラム『世界の競馬』】
◆陣営は「容認できない判断」憤怒の表情を隠せず
オーストラリアにおける国民的行事で、”Race that stops the nation(=国の動きを止めるレース)“と称されるG1メルボルンC(芝3200m)が、昨日(11月5日)、フレミントン競馬場で行われた。
ここでは、そのレース結果ではなく、施行にいたるまでの背景で見られた、主催者による「厳しすぎる獣医検査」について記したい。
今年のメルボルンCへ向けた「前売り」で、1番人気の座に就いていたのは、アイルランドからの遠征馬ヤンブリューゲル(牡3)だった。2019年のG1愛ダービー(芝12F)勝ち馬ソヴリンの全弟という良血馬で、クールモアグループの所有馬としてエイダン・オブライエン厩舎に入厩した同馬。デビューは今年の5月25日で、したがって春のクラシックとは無縁だったが、カラ競馬場のメイドン(芝10F)を8馬身差で制してデビュー勝ちを飾ると、続いて出走したカラ競馬場のG3愛インターナショナルS(芝10F)も制して重賞初制覇。さらに、グッドウッド競馬場のG3ゴードンS(芝11F218y)も制して臨んだのが、9月14日にドンカスター競馬場で行われたG1セントレジャー(芝14F115y)で、ここでも勝利を収めたヤンブリューゲルは、無敗のクラシックホースという金看板を引っ提げて、オーストラリアに乗り込んでいた。現地ブックメーカーの半数以上が、5倍前後のオッズを掲げて、同馬を前売り1番人気に支持していた。
ところが、レースを1週間後に控えた10月29日、主催者による獣医検査を受けた同馬が、「出走すれば故障の高いリスクがある」と診断され、出走を差し止められてしまったのだ。今年のメルボルンCは、1週前の段階で本命馬を失っていたのである。
近年のメルボルンCは、主催者による獣医検査が厳格なことで知られている。
その発端となったのが、近年のメルボルンCで見られた、レース中の事故だった。例えば、2011年、2013年、2014年と、3度にわたってメルボルンCで2着となっていたイギリス調教馬レッドカドーが、2015年のメルボルンCのレース中に、左前脚球節に故障を発症。懸命な治療の甲斐なく、同馬はレースの18日後に安楽死処分がとられている。
あるいは、2020年のメルボルンCで、ゴールまで400mという地点で故障を発症したのが、アイルランド調教馬のアンソニーヴァンダイクだった。2019年のG1英国ダービー優勝馬は、その場で安楽死処分となっている。
前述したように、オーストラリアにおける国民的行事となっているのが、メルボルンCだ。普段は競馬を観ない人も注目するレースで起きた悲劇だけに、その影響は大きかった。メルボルンCは、レースの前日に市街地でパレードが行われるのが恒例行事となっていたが、そのパレードが動物愛護団体による反対運動の標的となるなど、「競走馬のレース中の怪我」は、オーストラリアにおいて社会問題となっていた。
そこで、主催者であるレーシング・ヴィクトリアは、事前の獣医検査を厳格化。海外から参戦する馬は、出国前に、四肢下部のCT/MRI検査を義務付け、撮影された画像をレーシング・ヴィクトリアが指定した獣医師が精査し、これに合格しなければ出国前の段階で出走を差し止められることになった。
さらに、オーストラリア入国後に再度、CTスキャンによる検査が行われ、これに合格しなければ、メルボルンCへの出走が認められない制度が出来たのである。
故障を未然に防ぐという、そういう意味では競馬の根幹にある理念に照らし合わせて導入されたルールだった。
ヤンフリューゲルは、出国前の検査では異常なしと診断され、現地メルボルンに遠征していた。ところが、入国後の検査で「ハイリスク」との診断が下ったのだ。
メルボルンCは、総賞金800万豪ドルという、高額賞金競走である。その一方で、招待競走ではなく、輸送費は出走馬関係者負担が原則だ。ヤンフリューゲルも、馬主であるクールモアグループが輸送費を払って、現地に運ばれていた。その上で、出走を差し止められたのだ。クールモア・オーストラリアの代表者であるトム・マグナー氏は、ただちに怒りの声明を発表した。ちなみに、クールモア・オーストラリアの獣医師は、出走してもリスクはないと診断していた。
ヤンブリューゲルに出走取り消しの判断が下った日、管理調教師のエイダン・オブライエン師は、BCに出走する馬たちの調教を指揮すべく、カリフォルニア州のデルマー競馬場に赴いていた。日頃から冷静沈着なことで知られるオブライエン師だが、朝の調教後に各国から集まった報道陣に囲まれると、珍しく憤怒の表情を露わにし、「容認できない判断だ」とコメントした。
今年のメルボルンCは、ヤンブリューゲルだけではなく、ムラマサ(セン5)、ブレイデンスター(セン5)という2頭の地元調教馬が、31日(木曜日)の段階で、「出走するとハイリスクがある」との獣医師判断で、競走から除外されている。
人馬の安全を図ることは、確かに競馬の根幹にかかわる命題であり、関係者の誰もが共有すべき倫理である。その一方で、故障リスクの度合いを事前に診断するのは、センシティブにしてナーヴァスな問題だ。レーシング・ヴィクトリアによる今回の裁定は、今後しばらく、議論の的になりそうである。
(文=合田直弘)