平野啓一郎が描く近未来の姿ーー『本心』映画版と原作が問いかける、急速な“近”未来のリアリティ

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2024年11月18日 08:00  リアルサウンド

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平野啓一郎『本心』(文藝春秋)
■平野啓一郎の長編小説『本心』映画化

 平野啓一郎の長編小説『本心』が、石井裕也の監督・脚本によって映画化された。主人公の男性は企業に依頼し、亡き母親に関して残されたデータから彼女をVF(ヴァーチャル・フィギュア)として拡張現実で蘇らせる。作中の近未来では、本人の意志による安楽死が国家に認められており、それは自由死と呼ばれる。亡母は自由死を選んだのか。息子はVFの母に本心を問いたい思いがあったのだ。


  息子の職業が、依頼者の希望する行動を代行し、ライヴで伝えるリアル・アバターであること。母の友人だった若い女性と彼が、同居生活を始めること。その二人が、ヴァーチャル・ワールドのアバター・デザイナーとして有名な車椅子の青年と知りあうこと。映画は、原作のそれらの主要素をとりこみつつ、アレンジを施している。だが、映画を公開日に観て原作との距離で感じたのは、アレンジによる変化以上に、この現実世界の変化である。原作は2021年に刊行されたが、映画化までのわずか3年間で、同作の描いた“近”未来が予想以上に急速に近づいた印象があったのだ。


  亡き親の幼少期から晩年までの写真を渡すと、時系列に沿った言葉が添えられ、子からの感謝のフレーズで締めくくられる。そのように一般人の生涯が、テンプレのナレーションや字幕でプロモーション映像のように物語化され、DVDでもらえるといった葬儀社のサービスは以前からあった。カメラ付き携帯電話やインターネットが発達して以降なら、写真や動画、文章など個々人のデータ量は飛躍的に増えたから、その人を再構成しうる密度はかつてより大幅に高まっている。しかも生成AIの発達と普及は、ここ数年目覚ましい。『本心』での故人を映像&音声で再現するVFの設定は、原作発表時よりいっそうリアリティを増したし、身近にいた人をVFで復活させたいと願う人もいるだろう。


  VFに心はないとそれを開発しサービスを提供する側は明言する。だが、残されたデータから故人の思考パターンをシミュレートするVFは、本人そっくりだ。ただ、VFは対話によってAIが学習し、利用者が望むように言動を修正していく。VFに故人の本心を尋ねても、答えが利用者の望まないものだったり、違和感を覚えるなどして否定的な態度をとれば、その反応を学習し修正してしまう。もしそれが故人の本当の本心であっても、利用者に受け入れがたいものであれば、本当ではなかったことにされるわけだ。


 『本心』でポイントとなるこのジレンマをめぐり、映画で印象的だったのは、母の笑顔の写真である。現在では写真の補正はごく当たり前になっている。映画では笑顔をより笑顔らしくしていた補正を取り除くと、口角が下がり、無理をしているような、いくぶんさえない感じの本当の表情が露わになる。だが、息子は、補正された笑顔の方を母の本当の笑顔と記憶していたのだ。彼が本当の母を知らなかったと痛感する場面である。


  写真をいかに自由自在に加工できるか、機能を誇るCMに出演していたタレントが、不祥事を起こしたとたんに本人の画像をあちこちで消されたことを私たちは知っている。見たいものだけを見ることができる(見せたいものだけを見せられる)ならば、見たくないものを受け入れる(見せたくないものを隠さない)姿勢がなければ真実は目に入らない。そうした状況の広まりをこの物語は、映し出している。


  また、『本心』は、アバター(分身)、代行というモチーフを意図的に多く盛りこんでいるのも特徴だ。主人公のリアル・アバターという職業、亡母の代わりであるVFのほか、下半身に障碍があり動作が制限される車椅子生活者が、ヴァーチャル・ワールドで自由にふるまえるアバターをデザインして成功し裕福になっている。それに対し、主人公と同居する女性は、セックスワーカーだった過去を持つ。客にとって不在の恋人の身代わりをするように性交渉の相手を務め、生活費を稼いでいたのだ。


『本心』の原作刊行はまだ、人が密になることが忌避され、非接触の推奨を引きずっていたコロナ禍の間だったため、作中のリモート(遠隔)、代行といった要素は、同時代の気分とシンクロするところがあった。特に映画版では、登録会社と契約する職業であるリアル・アバターが、コロナ禍で需要が増加したフードデリバリーの配達員にとても近いイメージで描かれている。物語では、注文通り必死に急いでモノを届けても「配達員が汗臭かった」とユーザーに評価を下げられたり、悪戯で無意味にあちこちを走り回されたりする。しかも、ユーザー評価をとりまとめ、点数が低い場合に契約打ち切りの判断を下すのは、AIなのだ。現場で働く者の人間的事情など、AIの自動査定は一切考慮しない。


 『本心』の近未来では、富めるあっちの世界と貧しいこっちの世界の格差が、さらに広がっている。アバターのデザインで自己実現を果たした車椅子生活者は、富の力で主人公たちをアバターのごとくあつかうようになる。障碍のため誰かの代行を必要とする彼の意識を、単純に悪意とは呼べないだろう。リアル・アバターのように、自分にサービスを依頼するあっちの世界の誰かや、システムの評価を気にしなければ生きていけない者は、それらの評価を先回りして内面化しなければ、うまくやっていけない。いわば意識を乗っ取られた彼らの本心は、どこにあるのか。物語では、遠くの何者かに操られ犯罪を起こしてしまうエピソードがあるが、最近ではSNSを介して指示役に集められとりこまれた者たちが、強盗をせざるをえなくなった事件が続発する現実がある。


  さらに『本心』では自由死に関して、自己決定権の行使を建て前としつつ、老人や病人の世話に伴う負担を回避したい周囲や社会の意向を本人がくみとった選択かもしれないという視点が示される。主人公は、母は裕福になりえない息子を助けるために自由死を選んだのではないかと思い、苦しむ。「もう十分に生きたから」という母の判断は当人の本心ではなく、誰かに強いられた結果ではないかと疑いが語られるのだ。社会のために高齢者や終末期患者の安楽死を唱える人は以前からいたが、今年の衆議院議員選挙では、現役世代の社会保険料を下げるための尊厳死の法制化を唱えた党首がいた。彼は釈明し、ほかの目玉政策もあったのだが、同党の議席数増加には尊厳死発言を容認する空気も含まれていただろう。


  自己責任が声高にいわれるようになって久しいこの社会において、自己の本心はどこにあるのか、他人の本心を感じとれるのか。『本心』のテーマは、ますます身近なものになっている。今向きあうべき物語である。



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