吃音(きつおん)は幼少期に発症することが多いが、脳の障害やストレスなどによって後天的(10代後半から)でも発症することがある、話しはじめの言葉に詰まったり、言葉がすらすら出てこなかったりする障害だ。吃音に悩みつつも、2019年に目黒区で「目黒の大鳥神社前クリニック」を開院した、内科医で消化器内科医の北村直人院長に話を聞いた。
◆幼稚園で周りの子どもとの違いに気づいた
――北村氏は、昭和46(1971)年に京都府京都市に産まれ、現在、53歳だ。医師になったのは、呼吸器内科の開業医だった、祖父の影響が大きかった。北村少年には、幼稚園に入る前から、ひどい吃音があったという。
北村直人氏(以下、北村):幼稚園に行くまでは、他の子どもとの接触がなかったためか、自分が周囲と違うことには気づいていませんでした。幼稚園に入ると、周りの子どもと、自分のしゃべり方が大きく違っていることに気づきました。周りの子どもは不自由なく話せているのに、自分は話せない。このため、登園拒否をするようになりました。
――仮病を使ったこともある。母が無理やり幼稚園まで連れて行っても、入るのを嫌がり、園長先生と二人がかりで、無理やり中に入れられることもあった。
北村:2歳違いの兄も同じ幼稚園で、1年間、同じクラスでした。兄を頼って近づくと「お前、一緒にされるからあっちいけ」「近づくな」と、赤の他人のような感じに扱われました。幼少時から、生きていることが辛いと感じることがあり、実は幼児期に何度か自殺しようとしたこともあります。ある時、親に見つかり、酷く叱られました。親や先生から、「あなたは優しい子だし、吃音がある分、病気の人の気持ちが分かるいい医者になれる」と言われ、その頃から医者を目指すようになりました。
◆担任の先生からも一緒に笑われて…
――小学校からは、地元の公立だと、吃音でいじめられるのではないかという不安があり、私立に進学する。中学受験では、地元京都の進学校では面接があることから、塾の先生から「北村君は、面接で落ちる」と言われ、勉強して、他府県にある、より難関の面接がない 中学を受験し、片道1時間半かけて通学した。幸い、小・中学校時代は、大きないじめに遭うことはなかった。だけど、国語の授業の朗読や学習発表会など、苦痛と感じることは何度もあった。
北村:吃音から逃れることはできませんでした。選挙で生徒会会長に選ばれるも、生徒会会長は議長でもあったため、吃音の恐怖から辞退し、副会長にしてもらいました。副会長で担当となった小学校の運動会の宣誓は、低学年の頃は憧れていたにもかかわらず、やはり人前での吃音で怖くなり、結局辞退しました。小学校側が配慮してくださり、ある学年の学習発表会では、舞台に立つのではなく、マイクで、組や演題などをアナウンスする係を担当させていただいたこともあります。マイクに向かって、原稿を読むだけのことですが、原稿は暗記し、原稿を見なくてもよいように準備もしたのですが、それでもどもってしまいました。会場からの笑いも聞こえました。マイクに向かって呼びかけるなどは、今でも苦手です。
小学校の学習発表会で、同級生の親がビデオ録画してくださったものをクラス内で視聴する機会がありました。その発表では、私はどもっており、そのシーンも録画されていました。同級生の多くが笑い、何人もが私のほうを見ましたが、担任も一緒になって笑い、私のほうを見ていました。実は、自分がどもる映像を見たのは、それが始めてでしたので、人からはこう見えているのか、と思いましたが、同級生に加え、担任までも笑ってこちらを見たのは、やはり、ショックでした。 抗議のつもりで、小テスト回答後、回収前に答案を消して何度か白紙で提出しました。内申点が気になり、途中でやめましたが。
中高時代、「ドモルガンの法則」についての授業があった際、同級生から「え?直人の法則?」と言ってからかわれました。同級生はまだしも、数学の教師が一緒になって笑って私を見ていました。教師に腹が立った私は、学校への抗議のつもりで、中間テストを白紙で提出しました。そして、期末試験では満点。学期末の面接で「真面目にやれ」と担任から言われたのですが、何故白紙答案を出したのか、メッセージって伝わらないんだな、と思った記憶があります。そして、内申点が下がるだけで、意味がない、むしろマイナスだった、と悟りました。
◆吃音のせいで進路や職業の選択肢が狭まる
――大学受験の際も、吃音というハンディを乗り越えて、医師として認められるためには、難関と言われる大学の医学部を目指さなければと 思ったという。
北村:慶應義塾大学医学部は、ペーパーテストの後に、小論文と教授との面接があります。高校1年の時から慶應義塾大学を見据えて、小論文対策などしましたが、面接を考慮して、相当にペーパーで稼がないと、と猛勉強しました。だけど、面接では酷くどもってしまい何も答えられませんでした。面接の時間が、とにかく長く感じました。教授に『合否を面接だけで決めないから安心してください』と言われても、言葉が出ませんでした。
――無事、慶應義塾大学医学部に合格したが、卒業後に担任の教授から手紙が届き、教授会議で合否をかなりディスカッションされた末だったと知ることになる。学生時代の部活は、アメフト部を希望するも、吃音があるために、部長から、「吃音があり、入部しても、今後、試合に出すわけにはいかない」とのことで、入部拒否された。卒業後の進路の幅も狭かった。
北村:元々、私は外科医志望でした。大学6年時に、内部生は落ちないといわれる研修科の選択でも、外科からは『来てもいいけど、一生、手術はさせない』と言われました。 外科の面接は国家試験の2〜3か月ほど前だったのですが、最悪なことに、面接でひどくどもってしまったのです。医師の国家試験を受けるわずか10日前に告げられました。
そのままだと、たとえ国家試験に合格したとしても、医者として働く場所がありません。試験勉強どころではなくなり、選択肢として検討していた、皮膚科や精神科にも相談しましたが、すでに締め切ったと門前払いでした。大学への抗議として、国家試験をボイコットしようか、などとも悩みましたが、小・中・高校時代の白紙答案事件が思い出されました。試験をボイコットしても、自分が損をするだけで、誰にも、何の影響もない。親が悲しむくらいだ、と踏みとどまり、悩んだ末に放射線科の教授に相談したのです。放射線科の教授からは、来てもよいと即答していただき、国家試験後にご挨拶に伺ったところ、内科の教授にも相談してくださり、放射線科と内科が承諾をしてくださることとなりました。
◆“武器”となった専門医としてのスキル
――卒業後の2年間は「慶應義塾大学病院内科で研修を受けましたが、週に数コマの外来と検査の割り当て以外は、病棟患者をまわったり、文献を読んだり、上司とディスカッションしたりと、ある意味自由な過ごし方が可能でした」という。
北村:私は、超音波検査や気管支鏡、胃カメラ、大腸カメラなど、可能な限り、検査につかせていただいて経験を積み、研修2年目には、大学病院の当直とは別に、大学の関連病院3〜4か所の当直を月に20〜25回ほど勤務させていたただき、吃音のハンデを、とにかく、技術と経験で補おうと努力しました。内科と放射線科で研修、修練を積ませていただき、総合内科専門医・指導医、消化器内視鏡専門医・指導医、肝臓専門医・指導医、消化器病専門医・指導医、がん治療認定医、放射線診断専門医、核医学専門医、PET核医学認定医、肺がんCT検診認定医、脈管専門医など取得することができ、専門医のライセンスとたたき上げのスキルが私の武器となりました。
――国家試験の10日前から就職活動をして、受け入れてくれた、内科と放射線科で研修を受けることになるが、ドクターとして働くにあたっても、吃音のハンディは付きまとった。
北村:ドクターになってから3年目の出張の時に、吃音が出ることについて、循環器科の部長に『この身体障害者が!』と言われた時はショックでした。4年目の出張の時には、患者さんの家族から 担当医師を変えて欲しいと言われることもありました。消化器内科の部長が配慮してくださり、部長がバックアップするということで担当継続となりました。そのご家族は、最終的には、すごく満足してくださいました。 勤務先によっては看護師や受付が診察室への呼び込みをするなど配慮がありました。
医者には、臨床と研究の2つの道があります。研究であれば、吃音が関係ないと思われるかも知れませんが、研究をすすめるにあたり、上司や同僚とディスカッションする必要は当然にありますし、研究成果を発表する学会発表もあります。大学からの研修先での病院で、症例報告を初めて口頭発表する際に、上司から緊張ほぐすためにお酒を飲んでから発表したらどうか、と提案されました。地域の病院いくつかが集まっての発表の場で、研究会レベルでしたので、冗談だったのかも知れませんが、私は、真に受けてしまい、発表前に、先輩が準備して渡してくださったウイスキーをストレートで何杯も飲みました。口頭発表時には千鳥足で、呂律も回らない状態となってしまい、発表途中で気を失い、退場となりました。その後、どうなったのか分かりませんが、付き添いの上司が何とかしてくださったようですが、翌日、こっぴどく叱られました。
◆“口頭”での学会発表にこだわったワケ
――一方で、大舞台で吃音が出ないこともあったという。
北村:大学の助教時代、大きな学会発表、確かプレナリーセッションで研究成果を口頭発表した際には、何故か発表時にも、質疑応答の際にも、全く吃音がでませんでした。気をよくして、次の学会でも普通に口頭発表をしようとしたところ、ひどくどもってしまい、おそらく、聞いているドクター方は、何を言われているか分からないくらいだったと思います。それでは研究内容がうまく伝わらないと思い、その後の学会発表では、スライドにあらかじめ録音して、流すように工夫しました。ただ、そのスライドの録音の際にも、何度もどもってしまい、たった1枚分のスライドを録音して完成させるのにも、何度も何度も撮りなおす必要がありました。
しかし、医者になって、研究留学をするという夢もあった私は、研究留学の道を切り開くために、ポスター発表という選択肢もある中、吃音のハンデと戦いながらもあえて口頭発表での学会発表を続けました。政府の助成金でニューヨークにある医大に研究留学させていただいたのですが、留学先は、自分で履歴書をあちこちの大学や研究機関に送って受け入れ先を探しました。100通以上も電子メールを送ってアプライしましたが、推薦状2通を要求してくださったのは、わずか十数か所。パリの学会のプレナリーセッションでも、録音したスライドで発表したのですが、カナダのトロント大学の准教授が、私の発表を聞いてくださり、トロント大学での学会発表に招聘してくだいました。留学の応募時の推薦状は、慶應義塾大学の教授お二人に加え、トロント大学の准教授にもお願いして準備していただのですが、最終的に決まった研究室は、そのボスが、私がパリの学会のプレナリーセッションで録音したスライドで発表していたのを見ていたそうで、履歴書、推薦状での書類選考後、電話での面接1本で、即決でした。
パリの国際学会での発表は、朝8時からの発表でしたので、ガラガラだろうと思っていたところ、私の発表内容はともかくとして、当時、その研究分野で注目されるような内容の発表が集まっていたこともあり、席がほぼすべて埋まり、壁際に何名も立っておられる状況で、おそらく、吃音があるからと、ポスター発表を選択して口頭発表をしていなかったら、留学の道は開けなかったと思います。
◆身体障害者手帳4級を取得
――幼少期には、吃音の学校や支援センターに通い、大学生時代には、アルバイトでお金を貯め、吃音を治すために、スイス・中国など、様々な病院や施設に通った。だが、吃音が治ることはなく、数年前に身体障害者手帳4級を取得することにした。
北村:正直なところ、吃音があるという状態で、自分のことを身体障害者とは考えてきませんでした。身体障害者とは思われたくないです。しかし、どんな治療を試しても、吃音が無くなることはなく、何かと制約があるのは事実で、受け入れるしかありません。歌手の西城秀樹さんのホームドクターだった頃、秀樹さんが脳梗塞後遺症で構音障害が残ってしまい、歌えなくなったと悩まれていた際、吃音の治療でお世話になった先生に相談しましたところ、秀樹さんの症状改善につながり、歌手に復帰なさることができました。脳梗塞後遺症ですら改善したのに、自分の吃音は治らない。そんなときに、ふと、昔の職場の部長に言われた、身体障害者、という一言を思い出し、もしかして、吃音というのは身体障害者に該当する障害なのかと調べたところ、該当することが判明しました。自分の中で吃音を受け入れる為に身体障害者手帳を取得できるのか、申請してみたところ、認定されたのです。
――病気だから、障害だからと立ち止まってしまうことなく、吃音と向き合い続けながらも活路を開いていったからこそ、北村氏の今日があるのだ。
北村氏の略歴
京都府京都市出身。1990年 東大寺学園高等学校卒業、1990年 慶應義塾大学医学部入学。1995年8月マウントアーバン病院(ハーバード大学教育病院)にて総合内科を研修。1996年慶應義塾大学医学部卒業。1996年 慶應義塾大学病院内科学教室にて研修し、2年間の関連病院出向後、2000年 慶應義塾大学病院 消化器内科学教室 助教となる。2004年に1年間の関連病院出向後、2005年より慶應義塾大学病院 放射線科助教となり、放射線診断、乳がんなどの放射線治療に携わる。学位取得後、2011年より、政府助成金で米国(ニューヨーク)Mount Sinai大学 内科 肝臓教室に留学し、2014年より、英国ロンドン大学の肝臓研究所に客員講師として留学する。2015年末に帰国し、がん研究所有明病院健診センター医長などを経て、2019年12月に目黒の大鳥神社前クリニックを開院し、現在に至る。
資格・認定医・指導医医師免許
医学博士
日本内科学会 総合内科専門医
日本消化器内視鏡学会 消化器内視鏡専門医
日本医学放射線学会 放射線診断専門医
日本肝臓学会 肝臓専門医
日本消化器病学会 消化器病専門医
日本脈管学会 脈管専門医
日本核医学会 核医学専門医
PET核医学認定医
肺がんCT検診認定医
放射線取扱主任者(試験合格済)
<取材・文/田口ゆう>
【田口ゆう】
立教大学卒経済学部経営学科卒。「あいである広場」の編集長兼ライターとして、主に介護・障害福祉・医療・少数民族など、社会的マイノリティの当事者・支援者の取材記事を執筆。現在、介護・福祉メディアで連載や集英社オンラインに寄稿している。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1