元大阪桐蔭・峯本匠インタビュー(後編)
2014年夏。大阪桐蔭で全国制覇に貢献した峯本匠は、4年後のプロ入りを見据え、東京六大学リーグに所属する立教大の門を叩いた。
3度の甲子園で通算18安打3本塁打(ランニング本塁打2本)をマーク。U−18日本代表にも選出された実力を買われ、1年春から4試合に出場した。誰もが順風満帆の大学生活がスタートしたことを信じて疑わなかった。本人を除いては......。
【紆余曲折の4年間】
「大学野球自体、実際あまりやる気がなかったです。やらないとまずいとは思うんですけど、『別に僕じゃなくても、ほかがいるからいいや』みたいになっていました。寮生活も大阪桐蔭と違って自由だし、電車に30分ほど乗れば池袋に行けて、遊ぶところもいっぱいあります。野球なんて二の次、いや、三の次みたいな感じになっていました。遊び、勉強、野球。順位的にはそんな感じですね」
チームの方針ともかみ合わず、練習にも次第に身が入らなくなっていった。木製バットへの対応にも苦しみ、面白いように安打を量産した高校時代とは対照的に、2年終了時まで通算8打数無安打。広角に打ち分ける切れ味鋭いスイングは影を潜め、スタンドから声援を送る日々が続いた。
|
|
「1年の春に『木のバットは何か合わへんな』みたいになって、いつかは慣れるだろうと思ってやっていましたが、そのままズルズルいってしまいました」
大学で野球は辞めよう......。気持ちが折れかけていた時、一本のバットに出会う。一般的なストレート型のグリップエンドではなく、なだらかな曲線を描いて太くなるフレア型が「手にしっくりきた」という。
「ちょっといびつな型で、誰が握っても嫌な顔をされるんですけど、そこからずっと型は変えていません」
上級生になると、成績も少しずつ上向いてきた。3年春にようやく初安打を放ち、18年ぶりリーグ優勝と59年ぶり日本一に貢献すると、同年秋には26打数7安打、打率.269をマーク。そのタイミングで、社会人野球の強豪であるJFE東日本の落合成紀監督から声をかけられた。
「監督さんから『もう1回花を咲かせよう』と言っていただきました。『本当に自分でいいんですか?』と何度も確認しましたね(笑)」
|
|
ただ、4年春に不運が襲う。開幕第2週の法大戦。「7番・二塁」で出場も、初回にファウルフライを追いかけ、右翼手と激突。左足腓骨骨折の重傷で、シーズンを棒に振った。リハビリを経て、秋には復活したが、違和感が消えることはない。4年間通算で61打数11安打、打率.180。大学野球で結果を残すことはできなかった。
「俊足巧打でやらせてもらっていましたが、俊足は消えましたね。50メートル走5秒9で走っていたのが、6秒2、3になりました。ベースランニングも左足でベースを蹴る時に痛いんですよ。今でも触るだけで痛みが出ます」
【社会人1年目で都市対抗優勝】
ただ、走攻守の「走」から「攻」へ比重を移したことで、「打つことに専念できた」という。JFE東日本では、本格的にウエイトトレーニングに取り組み、大学時代の74キロから83キロまで増量すると、打球の飛距離も格段にアップ。春先からスタメンの座を勝ちとり、都市対抗切符を手に入れた。
「地区予選までは3番DHや一塁で出ていましたが、打たなかったことはあまりなかったと思います」
都市対抗では二塁守備に就き、本来のリズムも戻ってきた。準決勝の東芝戦、1点を追う延長10回二死満塁から右前へ逆転サヨナラ打。ヒーローインタビューではマイクを握りしめ、37歳の誕生日だった落合監督にバースデーソングを贈るなど、関西人のノリも復活した。
|
|
決勝のトヨタ自動車戦でも2安打1打点と、チームを初優勝に導いた。17打数7安打3打点、打率.412の活躍で、同期の今川優馬(日本ハム)らと若獅子賞(新人賞)を受賞。その年の社会人ベストナイン(二塁手)にも選出され、充実した1年を過ごした。
「大学とは練習量が違いましたね。朝9時から4時頃まで練習をしたあとにウエイトをしたりするので、やっていることはプロに近いと思います。最初は肩やヒジが痛かったんですけど、練習量でカバーして、都市対抗では5試合フルでセカンドを守れるようになりました」
遠回りを重ねて輝きを取り戻し、「プロの窓みたいなものが見えてきた」という。しかし、ドラフトイヤーとなる2020年は、コロナ禍が始まった年でもあった。
大会は軒並み中止となり、スカウトの練習やオープン戦視察にも制限がかかる。唯一の公式戦となった都市対抗も、前年優勝チームは主催者推薦で出場できるため予選は免除。本戦は東京五輪の影響でドラフト後の11月開幕が決まっており、アピールする場がまったくなかった。
「今川はプロからの調査書が10球団ほど届いたらしいですが、僕はゼロでした。ドラフトで指名されなかった時に、プロ入りはあきらめました」
【26歳で現役引退】
そこからは気持ちを切り替え、都市対抗10年連続出場を目指した。2022年にはHondaの補強選手として、4年連続で東京ドームの舞台に立った。
しかし、自身のなかでは「1年目がピークでした。ビギナーズラックですね」と振り返る。高校の時は苦手の内角球をファウルすることができたが、社会人投手相手ではたやすいことではない。3年目以降は「内角に弱い」というデータが浮き彫りになり、結果を残すことが難しくなっていった。
「引っ張っている打球は全部変化球で、真っすぐは100%打っていません。データを取られると、内角を打てないというのは野球人としてしんどいですよね。練習はしたものの、実戦になるとやはり打てませんでした」
2022年、JFE東日本は都市対抗と日本選手権の2大大会に出場することができず、何かを変える必要があった。そのオフ、自分を拾ってくれた落合監督から「クビ」を宣告された。かつて大阪桐蔭で「天才」と評された打者は、26歳でユニホームを脱いだ。
今は社業に専念しているため、たまに草野球をやる程度だ。ただ、高校、大学、そして社会人で日本一に輝いた経験は、誰もができることではない。昨年、野球インフルエンサーチーム『パワフルスピリッツ』のセレクションで、軟式球を豪快に柵越えしてみせるなど、華麗なバットコントロールは現役当時と変わらない。
「将来的には野球に携わりたいというのはもちろんあります。僕は人付き合いもそんなに深いほうではないので、野球指導者をやってほしいという人はなかなかいないかもしれませんが、ゆくゆくは野球の環境に身を置けたらなという願望はあります」
もし高校の時にプロ志望届を出していたら、何位で指名されたのだろうか。
「高校3年時の実績だけをみれば、3位ぐらいでかかっていたかもしれませんね。でも、プロに行くなら1位か2位じゃないと、と思っていました。今となってはですが、下位指名からのし上がっている人なんていくらでもいますよね」
プロには縁がなかった。ただ、「後悔はありません」と笑顔で振り返る。今は新たな夢に向かって、ゆっくりと歩を進めていく。