【サウジの資金投入で次々とビッグファイトが実現】
今をときめく軽量級の最強王者、井上尚弥(大橋)がサウジアラビアの政府直轄のプロジェクト「リヤド・シーズン」とスポンサー契約を結んだことは、海外でも大きなニュースになった。
アメリカでも複数媒体が「Inoue makes $20 million deal to align with Riyadh Season(井上がリヤド・シーズンと2000万ドルの契約を結ぶ)」と大々的に報道。ボクシングの業界内の話ではあるが、この扱いの大きさは"モンスター"が世界的なビッグネームになったことを物語る。
サウジアラビアの総合娯楽庁トゥルキ・アルシェイク長官が陣頭指揮を取り、主に昨年10月以降、多くのビッグファイトが当地で行なわれている。
10月12日にはアルトゥール・ベテルビエフ(ロシア)対ドミトリー・ビボル(ロシア)という世界ライトヘビー級4団体統一戦を実現させたばかり。12月には世界ヘビー級の4冠王者オレクサンデル・ウシク(ウクライナ)と前王者タイソン・フューリー(英国)のリマッチも予定されているのは、ボクシングファンならご存知の通りだ。
最新の契約のあとで、世界ボクシングの中心地になった感のあるサウジアラビアと井上がどう絡んでいくのかは、はっきりしない。現時点で表に出ているのは、井上が同興行のアンバサダーのひとりになり、トランクスには「リヤド・シーズン」のロゴが入るということ。
|
|
ほかにもさまざまな形で露出があるのだろうが、井上自身がサウジアラビアで試合をすることを想定して結ばれた契約ではない、という。とはいえ、トゥルキ・アルシェイク長官がそれを望んでいることは間違いなく、今後の展開が気になるところだ。
今回の件でリヤド・シーズンは日本でもより身近になり、他国での評判が気になっているファンが多いだろう。サウジのボクシング参入は賛否両論があるのも事実。ただ、11月上旬に米国内の興行のリングサイドでメディアや関係者に話を聞いた限り、今では好印象を持っている人も少なからずいるようだった。
「サウジの資金投入によって多くのビッグファイトが実現するようになった。それは業界にとってポジティブなことだ。トゥルキの介入がなければ、ベテルビエフ対ビボル戦のようなビッグファイトは実現し得なかった。
ボクシング界は今後、若手スターの発掘と育成の術を探っていかなければならないし、ラスベガス、ロサンゼルス、ニューヨークのようなアメリカ国内の舞台で大興行が行なわれるのは重要なこと。それに関しては様子を見ていかなければいけないが、少なくともここまでは好感触ではある」
フィラデルフィア在住のベテランライターであり、『リングマガジン』のPFPランキング選定委員のひとりでもあるアダム・アブラモビッツ記者のそんな言葉は、代表的な意見に思える。
|
|
【"犬猿の仲"のプロモーターの壁も資金力で解決】
最もわかりやすい例として、ベテルビエフ対ビボル戦は「アメリカのリングでは実現不可能」と目されていたマッチアップだった。
ロシア人王者同士の対決はマニア垂涎のカードではあっても、米国内での興行的な大成功は期待できない。しかも、ベテルビエフはトップランク社の傘下で、ビボルはマッチルームスポーツ社と関係が深い、という所属プロモーターの違いもあった。リヤド・シーズンはそんな難しいカードにも大枚を叩き、力技で挙行にこぎ着けてしまった。
ヘビー級のウシク、フューリーのリマッチも、ふたりに合計1億ドル以上をつぎ込んだサウジの介入がなければあり得なかった。"犬猿の仲"とされていたマッチルーム社のエディ・ハーン氏(ウシクの提携プロモーター)と、クイーンズベリー・プロモーションズのフランク・ウォーレン氏(フューリーのプロモーター)に手を組ませたのは驚異的だ。オイルマネーのパワーによって、ボクシング界に存在してきた"プロモーターの壁"を一時的にでも取っ払ったことは、アルシェイク長官の最大の功績と言えるのかもしれない。
『Yahooスポーツ』のキース・アイデック記者は、「ボクシングファンの懐事情を考え、PPVの値段を安価にしたのも見逃せない功績だ」とも述べている。
近年のアメリカのボクシングPPVは75〜90ドル(約1万1500円〜1万4000円)と高価なのが当たり前だったが、リヤド・シーズンのカードは40ドル(約6000円)程度。このくらいの値段なら手が出る、というファンは少なくないだろう。結果的に、強豪対決をより安価でファンに提供していることは評価されてしかるべきだ。
|
|
【サウジのボクシング参入による懸念】
ただ、すべてを手放しで喜ぶべきではない、という意見も無視できない。アブラモビッツ記者からは「若手スター発掘、育成の術を探っていかなければならない」という言葉があったが、現状、サウジが興味を持っているのは最高級のトップボクサーだけ。一部のエリート選手のみが得をするようなシステムでは次期スターを育てるのは難しく、タレントのレベルはいずれ枯渇する。
次のスターを生み出すため、アメリカのマーケットも同様に潤う必要があるのだろう。そう考えると、ラスベガスをはじめ、アメリカの伝統的なマーケットでの興行が破滅的なのは歓迎すべきことではない。今の状態が続いた場合、業界はさらに先細りになるのではないか、という懸念は常にある。
サウジ側の目的は当面のビジネスではなく、平たく言えば"将来を見据えて国のイメージを変えること"。国営事業なのだとすれば、PPV売り上げの良し悪しなどで興行の実施が左右されることはない。だが、このままボクシングへの潤沢な投資が続くという保証があるわけでもない。
無尽蔵に思えるビッグマネーの出資で各カードの単価が上がり、いずれ何らかの理由でその資金供給が止まった場合、そこで業界全体が受けるダメージは計り知れないものがあるのだろう。そういった意味で、リヤド・シーズンの行方をもうしばらく慎重に見守る必要がある。
ボクシングへの参入はいつまで続き、最終的な目的地はどこなのか。今後、シリーズが進む過程で、新たにアンバサダーになった井上の役割、サウジ側から期待されているものも徐々に見えてくるはずだ。