電動ストレッチャーが赤門をくぐり抜けていく。夕暮れどきとあって、人影まばらな構内を疾走するのは、愼允翼(シン・ユニ)さんだ。
脊髄性筋萎縮症(SMA)という遺伝性疾患を患っており、体はほとんど動かすことができない。そんな允翼さんは、2016年に東京大学文科三類に合格し、「寝たきり」で入学した初の東大生となった。
この日も、介助者の付き添いのもと、わずかに動かすことができる右手の指さきだけで、允翼さんはストレッチャーを器用に操って、東京大学・本郷キャンパスに登校してきた。
「ここが僕の研究棟です。エレベーターは僕が入学したときに増設されたものもあります」
キャンパス内を案内してくれた允翼さん。現在は、修士課程に在籍し、18世紀のフランス思想、特にジャン=ジャック・ルソーについて研究しているという。
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「ルソーは10歳のころ、孤児同然の状態となり、フランスやイタリアなどのさまざまな町を転々としながら、放浪生活を送った苦労人です。本もろくに読めない生活だったんじゃないかな。
僕も、読書にさえ介助者の助けがいるように、勉強することに苦労してきましたから。思うような教育が受けられなくても、独学で新時代をつくるような思想を生み出したルソーに憧れがあるんです」
研究対象について語るとき、允翼さんの目は生き生きと輝く。並木の奥に安田講堂が見えた。その斜め向こうの附属病院を見ながら、允翼さんがぽつり。
「オンマ(母親)は、今日は立て込んでいて来られないようです」
允翼さんの母、張香理(チャン・ヒャンリ)さんは東京大学医学部附属病院で勤務する認定遺伝カウンセラーだ。この日、時間が許せば合流することになっていたのだが──。
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「オンマは仕事が忙しいので。一人暮らしを始めてから、ときどきしか会いませんね」
そんな言葉に記者は少なからず驚いた。内閣府調査によると独居している身体障がい者は全体の約1割。そもそも身体障がい者にとって、独居自体が高いハードルだ。ましてや、允翼さんは24時間の介助を必要とする身。介護の大きな部分を母親が担っていると記者は勝手に思い込んでいたのだ。
「親子べったりという時代もあった」と語る允翼さん。いま、それぞれが独立した生活を営んでいるが、ここに至るまでに母子の奮闘があった──。
■「この子、何かあるよ」。突然の医師の宣告
「大学に入学して、1〜2年生のころは、毎朝、車で駒場キャンパスまで允翼を送迎していました。でも、実は駒場は私たち夫婦の出会いの場。懐かしさもあって、送迎は苦になりませんでしたね」
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そう振り返るのは母・香理さんだ。允翼さんに初めて会った翌週、瀟洒な一軒家の自宅で取材に応じてくれた。
1971年、在日朝鮮人3世として千葉県で生まれた香理さん。茨城県の中高一貫校に通い、神奈川県のフェリス女学院大学へ進む。大学ではラクロス部で汗を流す一方、ハングルと朝鮮史を学ぶ意欲的な学生だった。
「『朝鮮史なら東大にいい先生がいるよ』と勧められ、週に1度、駒場キャンパスに通うようになったんです。そこで、科学史の研究者だった男性に出会いました」
それが、後に夫となる愼蒼健(シン・チャンゴン)さん(59)だ。その後、韓国の梨花女子大学へ留学し、1年後に帰国。
「もっと学びたかったのですが、夫の『結婚して、また家族で留学すればいいじゃないか』という提案に乗ってしまって(笑)」
大学卒業後、香理さんは23歳で結婚。翌年の1996年12月、允翼さんが生まれる。允翼という名前は“まことの翼”という意味だ。生まれたとき、允翼さんは健康そのものに見えた。
「6カ月児健診でも何の問題も出なかった」というが、半年がたっても首がすわらず、寝返りもうたないことは気にかかっていた。
「10カ月児健診のとき、担当医師から慌てて、『この子は何かあるよ』と告げられました」
家族で韓国に留学したい──。淡く抱いていた夢が打ち砕かれた瞬間だった。この日から、“病院巡り”の日々が始まった。
「『様子を見ましょう』と言われるだけで、育児相談程度で終わることもありましたね。1カ月おきに経過観察と言われ、行くたびに日常の様子を簡単に尋ねられるだけのことも……。
専門家の見立てではすでにSMAであるとわかっていたのかもしれませんが、それを母親が少しずつ受け入れられるように、配慮されていたのかもしれません」
一方、ある専門病院ではこんなこともあった。
「お母さん、ここに赤ちゃんを置いて。脱がせて!」
抱き抱えていた允翼さんを診察台に置くよう指示されたが、研修医が大勢取り囲んでいた。仕方なく言われたとおりに寝かせるとその場で講義が始まる。
「この子はフロッピーインファントといって──」
急に足を引っ張られた允翼さんは診察台の上で泣き声を上げる。当時は専門用語など理解できなかった。たまらず制止したのはビデオ撮影が始まったときだった。
「ビデオをやめて!」
■「2歳までに亡くなる可能性も」26歳の母に突き付けられた厳しい現実
病院を次々に移り、大がかりな検査を重ねた。1歳5カ月のときに下された診断が「脊髄性筋萎縮症」だった。全身の筋力が徐々に低下していく神経疾患だ。現在は、進行を遅らせる薬なども開発されているが、当時は治療薬がなく、“人工呼吸器をつけなければ2歳までに亡くなる可能性もある”と医師に言われたという。
「允翼の病名が判明したとき、私は26歳。若かったこともあり理解が追いつかず、『2人きりでいるとこの子を抱えて飛び降りてしまうかも』と悲観もしました。
新婚時に入居したマンションを早々に引き払い、夫の両親と同居し、支えてもらったのがせめてもの救いになりました」
同年齢の子どもたちが歩き始めるなか、蒼健さんや義母と交代で允翼さんのバギーを押しながら、“この日々がいつまで続くのだろう”と絶望に打ちひしがれた──。
そんな苦境から救ってくれたのが、ある医師との出会いだった。東京女子医科大学病院に勤務する友人から「よい専門医がいる」と教えられた。
「お母さん、よく頑張りましたね」
齋藤加代子医師(現在は特任教授)は開口一番、ねぎらってくれた。
「ここへ来たらもう大丈夫だけれど、感染症は命とりになるから、それだけは気をつけてね」
心から信頼できる医師との出会いだった。允翼さんが3歳のころ。自分の力では車いすをこげない允翼さんのために、両親は電動車いすを購入することを決意した。価格は100万円を超えていた。当時、子ども用の電動車いすに補助金は出にくい時代。行政から渋られたが、尽力してくれたのも齋藤医師だった。
メーカーから借りた電動車いすの操作を病院内で練習させ、動画も撮ってくれた。巧みに車いすを操作する允翼さんの動画に、行政の担当者の心は動いた。無事、補助金が出て、允翼さんは自分の意思で動かせる翼を手に入れたのだ。
【中編】『ドラゴン桜』が道しるべだった…「寝たきり」の東大生・愼允翼さん明かす壮絶だった受験勉強へ続く
(取材・文:本荘そのこ/写真:水野竜也、高野広美)
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