伊東勤が語るマスク越しに見た名プレーヤー〜投手編(後編)
西武の黄金時代を支えた名捕手・伊東勤氏が選ぶ「すごいと思った投手ベスト5」。前編では4人挙げてもらったが、最後のひとりは誰なのか?
【好きなようにやってくれ】
── 最後のひとりをお願いします。
伊東 自分を成長させてくれたという意味でナオさん(高橋直樹)を挙げたいです。右のアンダースローからシンカーとスライダーを抜群のコントロールで操って、ゴロを打たせるタイプの投手でした。
── 高橋さんは、もともと東映(現・日本ハム)の20勝を挙げた大エース。1981年に江夏豊さんとのトレードで広島に移籍し、82年途中に古沢憲司さんとのトレードで西武に移籍。西武黄金時代の礎を築きました。
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伊東 私のプロ3年目の84年、試合中にマウンドに呼ばれ、こう言われました。「今からおまえが出すサインにはいっさい首を振らない。好きなようにやってくれ」と。じつは、それまで試合前に入念にバッテリーミーティングをやっても、あるベテラン投手は若い私のサインを信用できないのか、ネット裏のスコアラーの出すサインを見て投球していたのです。それほど球速はなかったのでノーサインでも捕球できましたが、捕手にとっては屈辱でした。
── それだけに高橋さんの言葉はうれしかったのですね。
伊東 ふだんナオさんは温厚でやさしい人でしたが、試合中は頑固でした。「アンダースローで投球モーションが大きくても、打者を抑えて走者を本塁にさえ還さなければいいのだから、クイックは不要だろう」と。もともと投手を勝たせたいと思ってリードしていましたが、より捕手として責任感が出ました。
── それが捕手としてのターニングポイントだったわけですね。
伊東 そうですね。ナオさんの存在は大きかったですね。あと、ナオさんのトレード相手になった江夏豊さんにもお世話になりました。私のプロ入り時、江夏さんは日本ハムの守護神で、82、83年は代打でよく対戦しました。それで84年に江夏さんが西武に移籍してきた時に、「西武に若くてイキのいい代打で出てきて楽しみだなと思っていたが、おまえだな」と言われたんです。稀代の名投手に覚えてもらい、しかもバッテリーを組むことになったので、とにかく気持ちが高揚しましたね。
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【江夏豊からの教え】
── バッテリーとして、思い出深い話はありますか。
伊東 春季アリゾナキャンプで、当時の西武はバントシフトなどフォーメーションが10個近くあって、箇条書きにして前もって江夏さんに渡したのです。いざ練習になると、「ナンバー3のフォーメーション? なんやそれは?」と、全然覚えてくれていませんでしたね(笑)。
── 実際に江夏さんの投球を受けて、得たものはありましたか?
伊東 今でも覚えていることがあります。「いいか伊東、投手というのはな、右打者も左打者もアウトロー(外角低め)なんだ!」と。左投手の江夏さんは、右打者の膝もとに食い込んでくるクロスファイヤーもよかったですが、アウトローのコントロールが本当にすばらしかった。ふだんの投球練習でもアウトローの出し入れをずっとやっていました。よく「ボール半個分」という表現がありますが、江夏さんは大袈裟ではなく3、4センチの勝負でした(※硬式球の直径は72.9〜74.8mm)。
── 84年の江夏さんは、20試合の登板で1勝2敗8セーブ。メジャー挑戦もありましたが、結果的に現役引退となりました。
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伊東 思い出すのは、1979年の「江夏の21球」のように自らスクイズを外したことです。外した球はカーブではなくストレートでしたが、ウエストのサインは出していません。三塁走者の動きが見えない左投手の江夏さんは、リリースをギリギリまで粘って、打者のちょっとした動きでスクイズを察知して外したんでしょう。まさに"神業"でした。
── 江夏さんは大胆かつ細心の大投手でした。ロジンバックもプレートの横にきちんと置かれていました。
伊東 江夏さんもそういうところは几帳面でしたが、先述したナオさんはそれに輪をかけて几帳面でした。登板前、鏡を見ながら鼻の下のヒゲを丁寧に揃えているんです。トレードの相手同士という縁のあるふたりは、84年に1年間だけ一緒にプレーしました。これは江夏さんから聞いた話ですが、ふたりはロッカーが隣同士で、ナオさんが「ユタカ、スパイクの泥を落とそうか」と言うので頼むと、スパイクの泥を爪楊枝できれいに掃除してくれたそうなんです。そういう細心さがあって、あんなに勝てるのですね。
伊東勤が語るマスク越しに見た名プレーヤー〜打者編>>
伊東勤(いとう・つとむ)/1962年8月29日、熊本県生まれ。熊本工高3年時に甲子園に出場。 熊本工高から所沢高に転入し、転入と同時に西武球団職員として採用される。 81年のドラフトで西武から1位指名され入団。強肩と頭脳的なリードでリーグを代表する捕手に成長し、西武の黄金時代を支えた。2003年限りで現役を引退。04年から西武の監督に就任し、1年目に日本一に輝く。07年限りで西武の監督を退任し、09年にはWBC日本代表のコーチとして連覇に貢献。その後も韓国プロ野球の斗山のコーチを経て、13年から5年間ロッテの監督として指揮を執り、19年から21年まで中日のコーチを務めた