日本とブラジルサッカーの関係はいつから始まった? 1967年パルメイラスとネルソン吉村の衝撃

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2024年12月17日 07:41  webスポルティーバ

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連載第28回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は日本サッカーに多大な影響を与えている、ブラジルサッカーと日本の関係について。1967年に初来日したパルメイラスの衝撃と、JSLヤンマーでプレーしたネルソン吉村(吉村大志郎)の活躍を伝えます。

【今季J1得点王はブラジル人のアンデルソン・ロペス】

 2024年のJ1リーグ得点王は24ゴールを決めたアンデルソン・ロペス(横浜F・マリノス)に決まった。2季連続の受賞だ。

 優勝したヴィッセル神戸ではMVPも獲得した武藤嘉紀がチーム内最多得点者だったが、ゴール数は13でランキング9位にとどまった。神戸では武藤のほか、大迫勇也と宮代大聖がともに11ゴールずつを決めている。つまり、前線の"3本の矢"が万遍なく得点しているのだ。

 そして、リーグ最多得点(72)という攻撃力で準優勝したサンフレッチェ広島では、最多得点の加藤陸次樹は得点数が一桁の9ゴールで20位タイだった。広島はひとりの選手に頼ることなく、多くの選手が点を取るチームなのだ。もっとも、大橋祐紀(現・ブラックバーン)は移籍前の22試合で11点を決めているから、そのまま広島にいたら得点王争いに顔を出していたかもしれないが......。

 それに対して、横浜FMは攻撃面では前線の3人のブラジル人への依存度が高く、とくにフィニッシュはA・ロペスに委ねられていた。

 4位に入ったガンバ大阪と13位の浦和レッズはともに総得点数が49だったが、宇佐美貴史とチアゴ・サンタナはそれぞれ12ゴールずつを決めている。つまり、彼らはチーム得点のほぼ4分の1を決めているわけだ。

 さらに、川崎フロンターレの山田新は日本人最高の19ゴールを決めたが、これはチーム総得点66の約3分の1。同じく19ゴールを決めたジャーメイン良に至っては、ジュビロ磐田の総得点数(47)のなんと約40%を決めている。

 今シーズンの得点王争いで上位に顔を出したのは低迷したチームの選手ばかりということになる。ただし、昨年は優勝した神戸の大迫が得点王(A・ロペスと同時受賞)だったから、これは今シーズンだけの現象なのかもしれないが......。

 さて、1993年に開幕したJリーグは2024年で開幕から32年となった。その間、昨年のように2選手が同時受賞した年が6度あるから、これまでJ1リーグ得点王はのべ38人を数えることになる。

【歴代得点王に見るブラジル人の存在感】

 このところ得点王は日本人とブラジル人が交互に受賞しているような印象がある。

 そこで、過去ののべ38人の得点王を国籍別で数えてみたら、案の定、日本人とブラジル人がそれぞれのべ15人ずつとなった。その他ではオーストラリアのジョシュア・ケネディ(名古屋グランパス)が2度受賞しているだけで、他の国の選手はすべて1度ずつだった。

 日本のリーグなのだから日本人選手が多いのは当然として、これほど多くのブラジル人選手が得点王を獲得しているということは、Jリーグというリーグにおいてブラジル人の存在感がいかに大きいかというのを物語っている。

 横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)は、Jリーグ創設のころは初代得点王となったラモン・ディアスなどアルゼンチン路線を取っていた(だから、現在でもサポーターがスタンドに掲げる横断幕にはスペイン語のものが多い)。だが、2019年に優勝した年に得点王となったマルコス・ジュニオール(現・広島)をはじめ、最近は攻撃面ではブラジル人選手に頼りっきりだ。

 ブラジル人選手が数多く来日したため、ブラジルとの間には選手獲得のルートが確立しており、通訳をはじめとする受け入れ態勢も整っているので、クラブにとってブラジル人は受け入れやすくなっているのだろう。

【1967年にパルメイラスが来日】

 しかし、日本のサッカー界とブラジルとの密接な関係は、Jリーグができてから始まったものではない。日本とブラジルの関係は遠く60年近く前に始まっているのだ。

 1964年の東京五輪で日本代表が活躍し、翌1965年に初めての全国リーグとして日本サッカーリーグ(JSL)が開幕。たちまち「サッカーブーム」と呼ばれる現象が起こって、JSLの試合で国立競技場に4万人の観衆が集まることもあった(ただし、主催者発表の数字)。

 1966年にはイングランドでW杯が開催され、その記録映画「ゴール」も日本全国の映画館で上映されたが、そこには欧州勢による暴力的なタックルで倒されたペレが涙を流しながら退場していくシーンが映し出されていた。

 1967年には、ブラジルからサンパウロの名門パルメイラスが来日し、東京の駒沢陸上競技場で日本代表と3試合を戦った。南米のトップクラブが来日するのは、もちろん初めてのことだった。

 当時、僕はまだ中学生2年生だったので、水曜日の夕刻に行なわれた第2戦は観戦に行けなかった。学校から大急ぎで帰宅してテレビ観戦のスイッチを入れたら、すでに試合は始まっていた。そして、なんとこの試合、小城得達のPKと釜本邦茂のゴールで2点を奪った日本が勝利した。当時の日本代表はスピードのある欧州勢は苦手だったが、ゆっくりボールを回す南米スタイルに対しては対抗することができていたのだ。

 日曜日に行なわれた初戦と第3戦は、もちろん僕も駒沢まで行って生観戦した。この2試合はパルメイラスがともに2対0のスコアで勝利したのだが、試合前のウォーミングアップの時から驚きの連続だった。

 空中高く飛んできたボールを、ジャンプしたパルメイラスの選手が足先でピタリとコントロールしたり、カカトなどさまざまな部位を使ってリフティングしたり、そんなテクニックにスタンドからは驚嘆の声があがり続けた。

 現在と違って、当時の日本人選手のテクニックのレベルは低かった。「ボールテクニックでは韓国はもちろん、東南アジアの選手にも敵わない」という前提の下、日本の選手は運動量で対抗して戦っていた時代だった。

 コーチたちは個人技を向上させることを諦めていたし、サッカー記者たちは「日本人がサッカーが下手な理由」を解説するのも仕事のうちだった。

 日本人が畳の上の生活をしているからだとか、日本の舞踊とブラジルのサンバのリズムの違いが原因だとか、農耕民族と狩猟民族の違いだといった、さまざまな"怪説"が飛び交っていた。

 三笘薫や久保建英が、プレミアリーグやラ・リーガのDFを翻弄する姿を見慣れた今の若いサッカーファンには想像もできないことだろうが......。

【日本サッカーの意識を変えたネルソン吉村】

 そんな状況を覆したのが、1967年、パルメイラス来日とほぼ同時にやって来たネルソン吉村という19歳の若者だった。

 サンパウロの日系人リーグで活躍していた吉村は、たまたまヤンマーディーゼルの現地子会社に勤務していたため、本社への転勤という形で来日。JSL初の外国人選手として登録された(後に日本国籍を取得し、吉村大志郎として日本代表としても活躍)。

 それまで弱小だったヤンマー(セレッソ大阪の前身)だったが、1967年には早稲田大学を卒業した釜本を獲得しており、吉村はそのテクニックを駆使して釜本と互いに信頼する相棒として活躍。ヤンマーは一躍JSLの強豪となって、1968年度の天皇杯(決勝は1969年1月1日)で優勝。1971年にはJSLでも優勝を遂げた。

 吉村に続いて闘志あふれるジョージ小林や、JSL初の黒人選手カルロス・エステベスも来日。個人技を生かして釜本の豪快なゴールシーンを演出するヤンマーのサッカーは、絶大な人気を集めたものだ。

 パルメイラスの選手たちの超絶テックニックを見ても、ほとんどの人は「さすがブラジル人。日本人には無理」と思っていた。

 だが、日系人の吉村は、姿かたちはまったく日本人と同じだった。その吉村が、ブラジル製の柔らかくて軽そうなシューズを履いて足裏でボールを引くような、当時の日本では考えられないような柔らかなボールコントロールを披露するのだ。そんなプレーを見せつけられたのでは、もう「日本人には無理」とは言えなくなってしまう......。

 吉村のプレーは見ていて楽しく、ヤンマーを強豪チームに引き上げただけでなく、日本のサッカー関係者の意識を変えるきっかけともなり、その後の日本サッカーの歴史を変えていくことになる。

 その後の日本のサッカーとブラジルの関係については、次回のコラムに譲ることにしよう。

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