中森明菜や高倉健さん、宮崎駿との秘話も、“生涯現役”の加藤登紀子が激動の歌手人生60年を振り返る

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2024年12月21日 17:00  週刊女性PRIME

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歌手・加藤登紀子(80)撮影/佐藤靖彦

 間もなく御年81歳を迎え、ますます意気軒昂。半世紀以上続けている『ほろ酔いコンサート』をはじめ、数多くのライブを今も精力的にこなす。そのバイタリティーの源は、一体どこにあるのか。

生涯現役を誓った加藤登紀子

 2024年10月10日。

 生涯現役を誓った加藤登紀子の歌手生活60周年を祝うパーティーが、ビルボードライブ東京で盛大に行われた。

 登紀子が記念すべき日の1曲目に選んだのは、シャンソンを代表する楽曲で、世界中の人から親しまれる『愛の讃歌』。エディット・ピアフが恋人に捧げたあの名曲である。

 真っ赤なバラを思わせる艶やかなドレスに身を包んだ登紀子が現れるや、祝福に駆けつけた300人のファンから万雷の拍手が湧き起こった。

「10月10日という日は、くしくも'63年にピアフが亡くなった日。私がもうすぐ20歳を迎えるときのことでした。憧れのピアフ、47歳の死。この衝撃が私を歌手にした。そう思うと、今日の日付が偶然のように思えません」

 ステージで倒れながらも歌うピアフの姿を胸に焼きつけた登紀子は、すっかり彼女の人生に魅せられ、恋多き生きざまに刺激を受けた。

 音楽評論家の湯川れい子や、デザイナーのコシノジュンコ、料理愛好家の平野レミ、そしてデヴィ夫人や池畑慎之介、渡辺えり、南こうせつなど各界の大御所たちも記念すべき60周年を祝うために駆けつけ、ステージに花を添えた。

「最初に会ったのは'69年の日本レコード大賞の授賞式。私が最優秀新人賞で登紀子さんが歌唱賞を受賞。シャンソンを愛する者同士、半世紀以上の付き合いになるかしら。

 女らしくて可愛らしい人なのに、ステージに立つとコシノジュンコや三宅一生の奇抜な服をカッコよく着こなしていらっしゃる。今後もできることがあれば駆けつけたいと思います」(池畑慎之介)

 さらに宮崎駿監督や和田アキ子、そして石川さゆりといった錚々たるメンバーからのメッセージが読み上げられる。

 中でも今年、6年半ぶりに表舞台に姿を現した中森明菜からメッセージが寄せられると、明菜へ自作の曲『難破船』を贈った当時を振り返り、

「20歳の失恋を歌っていたので、『難破船』はあなたが歌ったほうがふさわしいと思うわ」

 そう言って、直接カセットテープを手渡したという秘話も披露。

「歌との出合いは恋の始まりと似ている。何か運命と呼ぶしかない不思議な縁に導かれ、いつの間にか深い関係になってしまう」

 登紀子は過ぎ去った遠い日々に思いを馳せ、静かにグラスを傾けた。

生まれは旧満州のハルビン

 登紀子が生まれたのは、“東洋のパリ”と謳われた旧満州のハルビン。ロシア人や中国人、欧米人、ユダヤ人、そして日本人たちが暮らし、さまざまな文化が咲き乱れた夢の都である。

 しかし終戦後、状況は一変。住む家を失い、1年間を収容所や知人の家で過ごし、1946年の夏、命からがら遠い祖国・日本を目指し、無蓋貨物列車の旅をした。途中、第二松花江の鉄橋が爆撃で破壊され、列車を降りて川を越え、次の駅まで10キロ以上歩かなければならなかった。

 登紀子をおぶって布団を丸めたものと大きなリュックを持っていた母が、どうにもならなくなり登紀子を下ろした。

「ひとりで歩きなさい。歩かないと死ぬことになるわよ」

 このとき、登紀子はまだ2歳8か月。気丈にも頷くと、線路の上をよちよち歩き始めた。

「ダダをこねることもなく、登紀子はついてきました。あのころから肝が据わった子でしたね」(姉の幸子さん)

 やっとの思いで祖国にたどり着いた登紀子一家。

 しかし日本に戻った後も、ハルビンでの楽しかった日々が走馬灯のように蘇る。そんなとき、登紀子の両親は旧満州から日本に逃れてきたロシア人たちの苦境を耳にする。

「なんとかしてあげたい」

 そんな思いから、ロシア料理レストラン「スンガリー(松花江)」をオープンさせた。

「お店では、ロシア民謡をはじめ、シャンソン、カンツォーネなど世界中の音楽が流れていたの。そんな環境に育ったから、父に『シャンソンコンクール』をすすめられたときも、優勝したらヨーロッパ旅行がプレゼントされると聞き、気軽に受けてみる気になったのよ」

 当時、東京大学に合格したばかりの登紀子。東京日仏学院へ通ってフランス語にも磨きをかけた。

 コンクールを主催する石井好子さんにシャンソンの先生を紹介してもらい、憧れるピアフの『メア・キュルパ(私の罪)』でコンクールに挑んだ。しかし、

「おうちに帰って鏡を見てごらん。君はまだ赤ちゃんの顔をしている。その顔でピアフを歌っても男心は動きませんよ」

 と言われ、悔し涙を流した。しかしこれが登紀子の負けじ魂に火をつける。それから1年、寝ても覚めてもシャンソン。レッスンに明け暮れる毎日を送る。

 そのかいあって、20歳を迎えた翌年、可愛いフレンチ・ポップス『ジョナタン・エ・マリ』を歌ってめでたく優勝。憧れのヨーロッパへと旅立った。

「パリでは、シャンソンの大御所リュシエンヌ・ボワイエの経営するライブレストランへ。突然“歌ってみなさいよ”と言われ彼女の代表曲『聞かせてよ愛の言葉を』をお客様の前で歌ったの。日本人がシャンソンを歌うのが珍しかったのか、惜しみない拍手に包まれたわ。

 シャンソニエ(小劇場)やディスコをはしごしたのも懐かしい思い出ね。古い石造りの建物の地下など、小さなスペースでギターを持って歌う歌手も多くて、なんか、それがカッコいいの。帰国していの一番にギターを買いに行ったわ」

 自分でギターを弾いて、自分の曲を歌う。それがシャンソンだと心躍らせる登紀子。しかし現実はそんなに甘いものではなかった。

“ハプニング”で消えた幻のサードシングル

 '66年4月。登紀子は、なかにし礼さんが作詞を手がける『誰も誰も知らない』で歌手デビュー。

 8月には小林亜星さん作曲の『赤い風船』を発表するも、いずれも不発。早くも崖っぷちに立たされた。

「ちょっと前までシャンソンを歌っていた私が、キャンペーンでミニスカートをはいて赤い風船を持って銀座の街角に立っているものだから、大学の仲間からはずいぶんとからかわれたわ。悔しかったけど“なんでもやります”と言った限りは、何としてもヒットを飛ばしたい。

 そんなときに礼さんが作ってくれたのがなんと演歌。えっ、私が演歌って、と思ったけど清水の舞台から飛び降りるつもりでレコーディングしたのを覚えている」

 その曲のタイトルが『恋の別れ道』。恋した男に別れてくれと言われ、《一言死ねと何故言わぬ》と迫るなかにしさんらしい情念渦巻くドロドロの演歌である。

 ところが渾身の1曲ができたと思っていた矢先、まさかのハプニングが起きる。なんと『赤い風船』が日本レコード大賞の新人賞に決定。レコード会社は慌てて、発売したばかりの『恋の別れ道』を回収せざるをえなくなった。

 しかし、この幻のサードシングルを聴いていた人物がいる。歌手でお笑いタレントのタブレット純(50)である。

「ブックオフで20年くらい前、見本版を見つけて買いました。今の登紀子さんが歌っても素晴らしい曲。あわよくばギターの弾き語りで一緒に歌ってみたいですね」

 この曲に未練のあったなかにしさんは西田佐知子さん、美空ひばりさんともレコーディング。今では彼の代表曲のひとつとなっている。

「私が最初に歌ったことは、もう誰も覚えてないかもしれないわね」

 そう言って登紀子は笑う。ところがそれから20年。運命の神様が、再びふたりを引き合わせる。

 '86年、なかにしさんから突然『わが人生に悔いなし』の歌詞が送られてきたのである。この曲こそ、国民的なスターの石原裕次郎さんが最後にリリースし、大ヒットしたシングル曲である。

「礼さんは小説『赤い月』の中で、旧満州牡丹江に生まれ、苦労の末に引き揚げてきたと告白しています。

 当時を振り返って“僕もお登紀も見てきたからね、人の生き死にを。だから安心する”って言われたときは、すごく胸に響くものがあったわね」

 裕次郎さんの、

「人生最後の歌が欲しい」

 その期待に見事に応え、曲を書き上げた登紀子。だが旧満州が結ぶ縁は、これだけではなかった。

シンガー・ソングライター加藤登紀子の誕生

 登紀子が歌手として初めて森繁久彌さんに会ったのは'69年。芸能人による街頭募金の草分け的な存在として知られる『あゆみの箱』のステージでの出来事だった。

「『ひとり寝の子守唄』をギターの弾き語りで歌い、袖に下がったら森繁さんが両手を広げて待っていて“僕と同じ心で歌う人を見つけたよ”と抱きしめてくださった。これが森繁さんとの不思議な縁の始まり」

 実は森繁さんをめぐる縁には、もうひとつの物語がある。

「大学を卒業した年、学生運動のリーダーだった藤本敏夫と出会い、彼とふたりだけで過ごした夜、別れ際に夜空の下で歌ってくれたのが森繁さんの『知床旅情』だったの」

 『知床旅情』は'59年に知床の羅臼で起きた海難事故を知った森繁さんが、その悲しみに思いを寄せ、私費を投じて製作した映画『地の涯に生きるもの』から生まれた。

 万感の思いを込めて、こしらえた歌でもある。

「腹の底から歌う彼の歌声は、私の心にずっしりと響いたわ。ひとりの男にこれほどの思いを込めさせる歌の力ってなんだろう。私もいつかこんな歌を作って歌いたい。そんな思いがこみ上げてきたの」

 それから1年。学生運動の渦中にいる藤本さんとの揺れ動く日々の中で生まれたのが『ひとり寝の子守唄』である。

「大雪が降った寒い日、東京拘置所に勾留されている藤本さんからハガキが届いた。
《朝起きてトイレの蓋を開けると、よくネズミが顔を出す。言うなれば、そのネズミ君が僕の親友だ》

 その文面からふっと歌が浮かんだの。これこそ自分のための歌。そう思えてうれしかった」

 しかしその年の3月には、人気作曲家にお願いしたムード歌謡路線の楽曲が発売されることがすでに決まっていた。

─やはり、この曲のレコーディングは無理なのか。

 だが諦めたくはなかった。時代は'70年安保闘争が吹き荒れる学園紛争の真っただ中。登紀子はフォークシンガー、高石友也(ともや)さんたちとキャンパスで突撃ライブなどを行い、自らの思いを込めた『ひとり寝の子守唄』をあちこちで歌った。

 やがて、この歌を聴いた新聞記者たちの間でも、

「レコーディングするべきだ」

 という声が高まっていく。

 '69年6月16日。

 誰かに作ってもらったお仕着せの歌謡曲ではない、心の叫びを歌った『ひとり寝の子守唄』が日の目を見るときがきた。それは女性初のシンガー・ソングライター加藤登紀子、誕生の瞬間でもあった。

「『知床旅情』がなかったら、そして藤本が私の前で歌わなかったら、『ひとり寝の子守唄』は生まれていなかった。そう考えると感慨深いものがあるわ」

 しかし森繁さんはなぜ、この歌に心奪われたのか。それには深い理由があった。

 後でわかったことだが森繁さん自身も戦争中、旧満州の新京(現在の長春)でNHKのアナウンサーとして終戦を迎えている。つまり戦後の混乱期を生き抜き、帰国を果たした、まさに同志ともいえる存在なのだ。

「君は赤ん坊だったから知らないかもしれないが、君の声はあのツンドラの冷たさを知っている声だね」

 森繁に言われたこの言葉を、登紀子は今も大切にしている。

高倉健さんが登紀子に求めた演技とは

 シンガー・ソングライターの草分けとして、数々の栄冠を手にしてきた加藤登紀子。そんなキャリアの中で異彩を放つのが、誰もが憧れるスター高倉健さんとの共演だろう。

『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』で第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞。

 押しも押されもせぬスーパースターになった高倉さんが、黒澤明監督の超大作『乱』への出演を断って主演した映画『居酒屋兆治』。この作品で登紀子は高倉さんと夫婦役を演じることになった。

 主人公の英治は野球選手として輝くような青春を送り、挫折と再生を経て今は函館で小さな居酒屋を営む。そんな不器用な夫を支え、共に店を切り盛りする妻・茂子。

 なぜこの役が自分なのか。登紀子は首をかしげた。

「女優でもない私が健さんの妻役など務まるはずがない。そう思って一度お断りしました。

 ところがプロデューサーから“女優はたくさんいますが、加藤登紀子さんは1人しかいない。女優としてではなく、加藤登紀子さんとして出演してください”と言われ、憧れの健さんと共演できる喜びもあり、引き受けることにしたの」

 だが撮影前に高倉さんから、「ラストシーンのセリフ、“人が心に思うことは誰も止められない”を言っていただくために、この映画に出ていただいているんです。あとは遊んでいてください」

 と言われ、彼の意図が理解できずに登紀子は驚いた。

 だが撮影が進むうちに高倉さんが何を言わんとしているのかが、おぼろげながら見えてきた。余計なテクニックを排して、最小限の言葉で演じる人物の心情を表現する。それが“高倉健”だと知ってはいた。

「共演してみて健さんにとって大切なのは“心で何を思っているか”。それを知って、健さんの言葉の意味が腑に落ちました」

 登紀子には、高倉さんとの共演で忘れられないシーンがある。

「英治が留置場に入れられ、茂子が迎えに行く。その帰る道すがら、腕を組みながら私が思わず深いため息をついてしまったの。そしたら健さんがポツリと“思い出すんですか”と呟くのよ。

 学生運動のリーダーで刑務所に入ったことのある夫のことを健さんは知っていて、だからこそできる演技がある。そう考えていたんだと思う」

 役者個人の生き方が芝居に出る。高倉さんがにらんだとおり、映画『居酒屋兆治』には登紀子の夫・藤本敏夫さんへの燃えるような思いが、深く深く刻まれている。

夫との出会いは強烈な個性のぶつかり合い

 芸能界に一大センセーションを巻き起こした'72年5月6日の「獄中結婚」。

 登紀子と藤本さんの獄中結婚へ至る道は険しく、まさに茨の道であった。そもそもふたりが出会うきっかけになったのは、'68年に遡る。医学部の学生が研修医制度の変革を要求して卒業式をボイコット。もう歌手が続けられなくてもいい。そう決心して登紀子は安田講堂前の学生たちの座り込みに参加した。

 その報道記事が思わぬ反響を呼び、当時、三派全学連委員長だった藤本さんが、

「会いたい」

 と言って、加藤家が経営するレストラン「スンガリー」を訪ねてきた。

 学生の集会に来て歌を歌ってほしいという藤本さんの申し出は断ったものの、

「白いワイシャツに黒いズボン姿で、うつむき加減に入ってきた藤本は、まるで健さんみたいで、あっと驚くほど素敵だった」

 登紀子の一目惚れから始まったふたりの恋。しかし藤本さんは、学生運動のリーダーとして行動を起こすたびに逮捕と保釈を繰り返す。やがて長い裁判の末に3年8か月の実刑を受け、下獄する日が迫っていた。

「私から結婚を切り出しましたが、彼は“自分は学生運動のリーダーとして責任がある”と言って、頑なに反対するばかり。固い決意を聞いて下獄前に結婚を諦めたんです」

 ところが彼が行ってしまって10日が過ぎたころ、登紀子は体調の異変に気づく。彼の子どもを宿していたのだ。

「気分が悪く、誰にも相談できないままシーツに潜って泣きました」

 行った先の病院の先生から、

「結婚できなくたっていいじゃないか。彼のためにも子どもを産みなさい」

 そう背中を押されて登紀子は、ハタと気がついた。

─結婚しないと会いに行くこともできない。

 そこで登紀子は手紙に、

「あなたと結婚し、子どもを産む、と決めました。歌手をやめてもいい。新しい命と生きていきます」

 と書き、獄中結婚へと突き進んだ。だが彼の本心はどこにあるのか。結婚予定者として特別面会が許され会いに行ったときも「うれしい」のひと言は彼の口から出なかった。

 しかし死後に見つかった藤本さんの日記には、《'72年5月。中野刑務所に加藤登紀子がやってきた。結婚して子どもを産みます。僕は嬉しかった》

 そう記されていた。

 出所した夫の藤本さんは'76年、無農薬有機栽培の野菜を東京の消費者に直売する『大地を守る会』を設立。このころから田舎暮らしを考えていた。しかし車の運転もできない登紀子が、3人の子どもを育てながら田舎暮らしをするのはムリ。きっとすぐに破綻すると思い、

「田舎へはあなたひとりで行って。私は東京に残るわ」

 きっぱりそう言うと、

「これから俺がつくろうとする生活に、ついてくるのかこないのか」

 と藤本さんは啖呵を切った。

「俺の収入で生活しろ。これが、これまで加藤登紀子の旦那と言われてきた夫の本音。カッコいいと惚れ直した。だけど私はそんな生き方はできない」

離婚の二文字が浮かんでは消える

 ふたりの間に離婚の二文字が浮かんでは消える。そんなつばぜり合いが続く中、藤本さんの会社の若い社員から仲人を頼まれた。結婚式の席で、

「僕は女房にこういう結婚式をさせてやれていない。申し訳ないなと思います」

 夫のこのスピーチを聞き、登紀子はふたりで生きていこうと決めた。

 '81年、藤本さんは千葉県鴨川市の山中に移住し、『鴨川自然王国』を設立。ふたりは新しいカタチの夫婦関係を築いていく。そんなふたりを次女で『鴨川自然王国』を継いだ、シンガー・ソングライターでもある八恵・Yae(49)はこう話す。

「私が幼いころから、両親は時事問題についてよく議論を闘わせていました。'92年に父が突然、参議院選挙に出馬した際は大ゲンカ。学生運動で挫折した後も父は“国を変えたい”と思い続けていました。

 一方の母は“政治で変えられるわけがない”と言って平行線。ふたりとも“自分に真っすぐであれ”“嘘をつかないで生きていこう”が心情。だからこそぶつかり合っていたんだと思います」

ハルビンの思い出を抱き、声で演じたジーナ

「アニメーション映画『紅の豚』のジーナこそ、私」

 そう公言してはばからない登紀子。それは一体なぜなのか。

 映画『紅の豚』は、世界恐慌時代のイタリア、アドリア海を舞台に飛行機を乗り回す海賊ならぬ空賊と、空賊を狙う賞金稼ぎを生業とするブタの姿をした退役軍人操縦士が織りなす物語だ。

 登紀子が演じるのは、アドリア海の小さな島でお城のような店を開いているマダム・ジーナ。宮崎駿監督からオファーを受け、登紀子の心は躍った。

「『ホテル・アドリアーノ』でフランスのパリ・コミューンという革命のときに歌われた『さくらんぼの実る頃』を歌うシーンを、オープンしたばかりの私たちの店『テアトロスンガリー青山』で作画資料として撮影しています。

 目の前で監督が、小学生のようにうれしそうな顔をしている姿が微笑ましくて、よく覚えているわ」

 歌に合わせて登紀子はジーナの動きも演じていく。宮崎監督の思い描くジーナはとてもセクシーだった。客席に向かって手を差しのべ相手をじっと見つめたかと思うと、手と手が触れた途端に目を伏せる。またフランス語で「フェット(お祭り)」と発音するときは、ふるいつきたくなるように色っぽい唇で歌う。

「ジーナのモデルはマレーネ・ディートリヒでしょう? と聞いたら、宮崎監督はご想像にお任せしますと言っていたわ。あのシーンは、ロシアアバンギャルドを思わせる独特の世界観が“東洋のパリ”と言われたころのハルビンとよく似ていてとても素敵。そういう意味も込めて、ジーナこそ私の理想の女性なんです」

 静かにグラスを置くと、登紀子はうれしそうに微笑んだ。

 60周年記念パーティーの最後を飾ったのは、今では登紀子の代表曲のひとつとなった『百万本のバラ』。この歌には特別な思いがある。

「もともと、バルト三国のラトビアの子守歌だったこの曲が、スケールの大きなラブソングに生まれ変わり、ソ連末期にはペレストロイカ(改革)を象徴する歌となり大ヒットする。

 私はこの歌と出合い、全米ツアーやカーネギーホール、『紅白歌合戦』でも平和への祝福の鐘を鳴らすような、そんな思いを込めて歌い続けてきました」

 ウクライナ、イスラエル、パレスチナ……。今も世界のどこかで戦闘が行われ、社会は人を分断する暴力に満ちている。バラの花言葉は“希望”“幸福”“永遠”─。そんな思いを束にして、登紀子はこの歌を歌い続ける。

<取材・文/島 右近>

しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。

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