小原晴琉(はる)さんは9トリソミーモザイクという染色体異常で生まれてきた。小頭症、目が小さい、耳の位置が低い、口唇口蓋裂などが特徴的な症状で世界で50人、日本ではたった10人しか確認されていないという超希少難病。お母さんの麻依さんは娘のように障害のある子どもたちのために何かをしてあげたいと願う。
「搬送先の病院では、わが子がいつ死ぬかわからないと散々言われ、精神的に追い詰められた時期もありました」
出産前の検査では異常はなかった
そう話すのは、岩手県在住の小原麻依さん。障害者に向けた生活支援を行う「多機能事務所 陽だまり」の保育士として働きながら、13歳になった超希少難病の娘・晴琉さんを育てている。晴琉さんは世界で50症例ほどしかない「9トリソミーモザイク」という染色体異常を持って生まれてきた。
「娘は2011年10月、予定日どおりに生まれました。妊娠初期はちょうど東日本大震災に被災したころでしたが、流産することもなく、妊婦検診でも異常はありませんでした」
ところが出産後、呼吸が弱く口唇裂があったことから、すぐに産婦人科とは別の病院へ搬送。その後、入院生活は8か月にも及んだ。
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「出産前になぜエコーでわからなかったのか……。でも異常が見えなかったのだから仕方ないですよね。気管が細く痰吸引が必要で、生後半年で気管切開手術を受けました」
出産して1〜2か月は、麻依さんへ医師や家族からも障害があることを伝えられていなかったのだそう。
「当時は私が現実を受け入れられる様子でもなく、よほど精神的に追い詰められた状態だったのかもしれません。家族は出産当日に聞いたそうですが、しばらく黙っていたほうが良いと思ったみたいで。何かの書類で偶然、障害があるという事実を知ったのですが、ショックというよりは、やっぱりそうか……と腑に落ちました。ただそのとき、できる限りのことはしてあげようと、気持ちが吹っ切れたんです」
出産後、助産師さんから“障害がある子は勇敢な赤ちゃんだ”という内容の本を見せてもらい、励まされたという。「障害があっても幸せに暮らしていけるから、障害を選んだ強い子なんだ」と、思うことで麻依さんは気持ちを保ってきた。
症例が少なく情報も乏しい
9トリソミーモザイクは極めてまれな染色体異常で、しかも死産や流産になることが多い。
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「入院した病院での症例はなく、あまり情報が得られませんでした。1歳半のころに別の病院で口唇裂の手術を受けました。
一般的には小頭症や心疾患、口唇口蓋裂などの症状があり、目や鼻が小さく耳の位置が低いという顔貌の特徴を教えてもらったんです。晴琉もほぼ当てはまりますが、心疾患はなかったことや、頭が大きく、水頭症だということもわかりました」
嘔吐や行動障害、発作などを引き起こす水頭症は、脳室に過剰な脳脊髄液がたまる症状だ。幸いにも晴琉さんは、シャントという髄液を抜く管を身体に埋め込む手術は必要なく、現在は脳外科にも通っていない。
「生後半年から1歳半までの生存率が50%だということもそこで初めて知りました。でも晴琉はすでに1歳半を迎えていたので、ひとつ壁を乗り越えたのだなと。ただ症例が少ないのに症状はさまざまで。似たような子もいれば、4歳まで病名がつかず歩ける子もいて、わからないことが多いんです」
今後は自宅で酸素呼吸器をする状態に
重い障害を抱え、言葉を発することや歩行が困難でも、晴琉さんにははっきりとした意思があるという。
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「看護師さんが痰の吸引をするねと呼びかけると受け入れる合図をしてくれますし、毛布の上に乗せて優しく揺らすと、私のことをじっと見て、もっと激しく揺らせと目配せするんですよ(笑)。もぞもぞ動いて抱っこをしてほしいと甘えたりもします。近くにいる人の膝を触っていたずらをしたり、かわいいんです」
日常的なケアは、食事の世話や痰の吸引がメインになっている。
「食事は胃ろうではなく、鼻から経管栄養をとっています。具合が悪いときは夜中に痰を吸引することも多いですが、長時間にわたって首のすわらない子を抱え続けるのは身体にこたえますね。ネブライザーという機械を使って痰をやわらかくする薬を吸入してあげたり、歯磨きをこまめにすることも健康維持に欠かせません」
だが咳き込んで注入がうまくいかないことや、吐いてしまうこともある。
「そうなるとICUに入院して、2週間ほど酸素呼吸器をつけっぱなしということもあって。今年の10月は珍しく月に2回も入院しました。最近は深い眠りにつくと1分間に5〜7回ほどしか呼吸をしておらず、無呼吸状態なんです。自宅に酸素呼吸器を持ち帰ることも決まり心配です」
24時間続くケアは、家族の協力があって成り立つ。
「3年前までは実家で暮らしていたこともあり、実母に頼りっきりでした。今は夫の仕事が休みの日にはケアを任せていますし、小学2年生になる下の娘も、私の体調がすぐれないときは『吸引を手伝うよ』と言ってくれて、とてもありがたいです」
そんな支えもあり、麻依さんは出産直後から社会との関わりを持とうと働き続け、6年前から現在の職場に。
「もともとこの子の預け先がなくて苦労していたのですが、医療的ケアを必要とする子も受け入れる施設が新しくできると聞いて。しかも責任者の方がたまたま夫の友人で、娘を通わせながら保育士として働くことをすすめてくれたんです。みなさんには本当に良くしていただいて感謝していますし、ご縁を感じました。娘を産んでから、障害がある子に何かしてあげたいと思うようになりましたし、娘の世話をすることで得た知識は、他の子にも活かせています」
将来は私がリハビリをできるように
働く中での地域の人々との交流や、SNS上でのやりとりも喜びにつながっている。
「娘と出歩いていると、かわいいねと言ってもらえることが多いんです。先日は高校時代の恩師の奥様が、私のフェイスブックの投稿で近況を知ったそうで、声をかけてくれました。娘は人との触れ合いが大好きなので話しかけてもらうのはありがたいですし、私も聞かれたらなんでも答えます。同じような症状のお子さんを持つご家族とSNSを通じて交流したり、コメントをいただくのも励みになります」
目下の不安は、晴琉さんの身体が年々硬くなっていること。
「かわいい洋服を着せてあげたいですが、服選びも難しい。もう少しリハビリを受けさせてあげられることができればと。医療的ケア児等支援者養成研修を受けたとき、大規模な病院の近くに住んでいる子は、週3回リハビリを受けているよと聞いて。でも遠く離れた場所では週に1度が限界なんです」
ならば、自分でリハビリができるようになればいいと考えるようになった麻依さん。
「長年障害児医療に携わる先生の講演で学んだのですが、学校を卒業すると障害児の身体機能は徐々に落ちていくそうで。晴琉のためだけでなく、リハビリを継続できる場所が必要だなと。将来的には私もリハビリ関係で携わり、周りのみんなの役に立てることができたらと思っています」
<取材・文/植田沙羅>