伊東輝悦が50歳まで現役を続けられた理由「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」

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2024年12月23日 07:30  webスポルティーバ

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引退インタビュー
伊東輝悦(アスルクラロ沼津)前編

 その決断は、さまざまな感情を呼び覚ましたはずだ。日本中のあちらこちらで、あの日、あの時、あの場所、あの瞬間が、思い出されたに違いない。

 伊東輝悦がスパイクを脱いだ。ディエゴ・マラドーナにも例えられた天才少年は、地元の清水エスパルスで1993年にプロキャリアをスタートさせ、J1、J2、J3の複数クラブでプレーしてきた。

 1996年のアトランタ五輪で日本サッカーの歴史に刻まれるゴールを決め、1998年のフランスワールドカップでもメンバー入りしている。生粋の10番タイプだったMFは、年齢を重ねるごとに職人肌のベテランへ姿を変えていった。積み上げてきたプロキャリアは、実に32シーズンにも及ぶ。

「Jリーグのチームは12月が基本的にオフなわけだけど、何かちょっと変な感じはするかなあ。ありがたいことに(引退することで)こういう取材がちょいちょい入っているので、何もしてないってことはないんですけどね」

 撮影時に着用したオーバーオールは、最後の所属先のアスルクラロ沼津が移動着として採用しているものだ。職人気質なプレー同様の渋みが漂う。

「昨日は時間もあったし、ちょっと身体を動かしたくて、ゆっくり50分ぐらいジョギングをしたんです。だから今日はすっごい筋肉痛で。最後に身体を動かしたのは......10日ぐらい前か。J3リーグ最終節の1週間後くらいに、リラックスしたゲームをやって以来だったので」

 これまでと違う日常は、「引退」を実感させるものなのか。

 伊東は表情を変えることなく、ゆっくりと答える。

「最終節の時に、もう終わったんだなって思ったから。劇的に気持ちが変わるとか、そこは、それほど」

 妻にはシーズンのはじめに、「今年で終わりになるかもしれない」と伝えていた。気持ちが固まってあらためて報告すると、「長い間、お疲れさまでした」と労われた。短い言葉のやり取りで、夫婦は心を通わせることができる。

「高校2年の息子はちょっと、びっくりしていたけど。物心がついたころから親父はサッカー選手で、それが普通というか当たり前の日常だったからね」

【50歳までいったらすげえんだろうな】

 現役を退いた選手は、「これから何がやりたいですか?」と聞かれる。「引退」とは節制や抑制からの解放を意味する、と受け止められるからだ。

「それ、取材でよく聞かれるんだけど、そこまで何かを我慢していたわけじゃない。だから、これといってないというか。

 たとえば食べるものだって、『これからは何でも気にせずに食べられる』ということはない。何を食べてもいいからと言って、いきなり好きなものをお腹いっぱい食べる、ということもない。生活がいきなり変わることはないし、『さあ、やりたいことやるぞ』っていう感じでもなくて。強いて言えば、ボルダリングをやりたいなって」

 清水から移籍したヴァンフォーレ甲府在籍時に、ボルダリングにチャレンジしたことがある。壁をのぼった翌々日に、腰が悲鳴をあげた。

「ぎっくり腰みたいになったから、それ以来、怖くてできなかった。引退したし、ちょっとやってみたいかなと。ホントにそれぐらいなんですよ。山登りが好きなんだけど、シーズン中にまとまったオフがあれば行っているし」

 現役生活は、できるかぎり続けたい。そのために、やるべきことは惜しまない。ただ、伊東はやるべきことをやりすぎなかった。「ストイック」と適度な距離を置いたことは、稀有なキャリアを築いた理由である。

「そこはたぶん、人それぞれだと思うので。ストイックにやったら、性格的に爆発しちゃうので」

 リーグ戦の出場試合数だけを見れば、引退のタイミングは過去にもあっただろう。J3のブラウブリッツ秋田から同カテゴリーの沼津へ移籍した2017年、翌2018年は、リーグ戦の出場がない。2019年は1試合で、2020年と2021年は再びプレータイムを刻めなかった。2023年も、出場試合数の欄は「0」である。

「辞めたいなって思ったことがなくて、できるなら続けたいと。(オファーが)なかったら辞めるしかないけれど、ラッキーにもここまでできた。40歳までやる人もなかなか少ないなかで、突き抜けたら周りが違う見方をしてくれるんじゃないかな、と。

 当たり前の年齢で辞めたら『あっ、引退したんだな』ってなるだろうけど、突き抜けたら『この人、何かすげえな』とか『面白いことやってんなあ』ってなるかなあって。それで、やれるならやろうと。漠然と『50歳までいったらすげえんだろうな』という気持ちで続けてきたのもある」

【カテゴリーを下げる抵抗は全然なかった】

 8月31日に誕生日を迎え、目指していた区切りに到達した。

「そこでひとつ、やりきった感はちょっとあったかな。身体もしんどくなってきたし。今年の夏はホントに地獄みたいな暑さだったでしょ。そのなかでプレーするのは、ちょっとね」

 今シーズンの最終節で後半終了間際にピッチに立ち、J3リーグの最年長出場記録を更新した。50歳2カ月24日での出場は、40歳をすぎてもプレーした中山雅史、川口能活、小野伸二、中村俊輔、遠藤保仁らをはるかに上回る。50代でJリーグのピッチに立ったのは、カズこと三浦知良と伊東だけなのだ。

「単純にプレーすることが好きだし、サッカーが面白いから。もうそれだけ。20代も、30代も、40代も、気持ちはまったく変わらなかった」

 変わったものも、ある。かくも長く現役を続けられた裏づけが、たしかにある。

「変わることがそんなに嫌じゃない。年齢を重ねることで、それまでできたことができないということが当然出てくるけど、それに対してすごくストレスを感じることはなかった」

 引退を決断する選手の理由で、「イメージどおりにプレーできなくなった」というのは間違いなく上位に食い込んでくる。伊東もまた、イメージを具現化することで対戦相手を翻弄し、スタジアムを沸かせてきた選手だが、「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」と言う。

 2010年に清水から契約の非更新を告げられると、2011年にJ1へ昇格したばかりの甲府へ移籍した。甲府には3シーズン在籍し、2014年からはJ3の長野パルセイロの一員となった。2017年から8シーズン在籍した沼津も、J3を構成するクラブである。

「カテゴリーを下げることへの抵抗は全然なかった。長野へ行った時には、自分みたいな選手がJ3のクラブに行って、ちょっとでも盛り上がってくれたらうれしいな、という。それは、秋田へ行った時も同じだった」

 子どものような年齢の選手たちに囲まれ、大ベテランはサッカーと真摯に向き合っていった。少しずつ、気持ちが変わっていきながら。

「甲府にいる頃までは、めっちゃ試合に出たかった。次の長野へ行ったぐらいからは、しっかりトレーニングして準備はするけど、若手がピッチに立つほうがいいなと思うようになった。チームメイトに恵まれたというか、どのチームでもみんなフラットに接してくれた。それはありがたかったね」

 50歳には見えない笑顔が、眩しく輝いた。

(つづく)

◆伊東輝悦・中編>>海外クラブ移籍も「ちょっとやってみたかった」


【profile】
伊東輝悦(いとう・てるよし)
1974年8月31日生まれ、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。1993年、東海大学第一高校(現・東海大学付属翔洋高校)から清水エスパルスに入団。中盤の要として活躍し、2010年まで在籍する。その後、ヴァンフォーレ甲府、AC長野パルセイロ、ブラウブリッツ秋田と渡り歩き、2017年からアスルクラロ沼津でプレー。各世代の日本代表に選ばれ、1996年アトランタ五輪出場、1998年フランスW杯メンバーにも選出される。2024年10月に現役引退を発表し、32年間の選手生活にピリオドを打った。ポジション=MF。168cm、70kg。

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